みなさん、alis.to というサイトはご存知ですか。
alis.toでは、記事を書いたり、他の人の記事にいいねをしたりすると、alisというトークンがもらえるのですが、このサイトの発端がちょっとおもしろいんです。
2017年5月の話なんですが、フリーエンジニアの石井壮太さん(30)が、アメリカのソーシャルメディアSteemに南米の旅行記を載せて、米ドル換算 30ドルほどの報酬を仮想通貨で受け取り、その報酬で最高級の宅配ピザを楽しんだっていうんですね。*1
これをアレンジして日本でやったら受けそうだぞ、と。それで、知り合いだったCEOの安昌宏さん(28)とマーケティング担当の水澤貴さん(35)とともにalis.toを作り始めたってわけなんです。
仮想通貨について興味のある人はすでに知ってるかもしれませんが、alis.to を運営する株式会社ALISは、
2017年9月に日本向けのWebサービスの会社としては初めてICOという手法を使い、 およそ4.3億円相当の資金をイーサリアム(ETH)という仮想通貨で調達した ことで話題となりました。
エンジニアの石井さんは、まさにこのICOの立役者です。
この日本の若者三人のチームが、5月に思いついてから、わずか四ヶ月で4.3億を集めたっていうんですから、これはすごい。
この記事ではまず、暗号通貨(≒仮想通貨)という呼び名について説明したあと、alis.to というシステムの成り立ちを通して、暗号通貨の未来について考えてみたいと思います。
仮想通貨ではなく、暗号通貨と呼びましょう。 alis.toの運営会社ALISと暗号通貨alis 投稿したり、「いいね」をするとalisトークンが稼げる - ソーシャルメディアalis.toの仕組み 確かにalis.toでalisは稼げるが、今はまだ対価を求める時期ではない。 alisが有名になるとき、暗号通貨は空気のような存在になる。 仮想通貨ではなく、暗号通貨と呼びましょう。 日本では仮想通貨と呼ばれることも多い暗号通貨ですが、そして日本のお役所はなぜかこれを暗号資産と呼ぶことにしたいらしいのですが、これはやはり暗号通貨と呼ぶのが正しいものでしょう。
「仮想」通貨という呼び名は、「本物の通貨ではない」というニュアンスが感じられますよね。
また、暗号「資産」では、通貨としては使えない「投資の対象」のような感じがします。
けれども暗号通貨は、現実の貨幣の代わりに使える立派な「通貨」であり、それを実現している基礎的な技術が暗号化の技術なのですから、「暗号通貨」という言葉がぴったりと合います。
現時点では交換価値が不安定ですから、日本での実用性はまだまだ低いのですが、インフレの激しい外国などでは十分利用価値があります。
ですからクリプトカレンシーという英語の言い方を直訳した暗号通貨と呼ぶことによって、それが一体なんなのかということが、一番はっきりと分かるのです。
alis.toの運営会社ALISと暗号通貨alis おもしろいことにalis.toを運営するALISという会社は、香港籍になっています。
株式の公開による資金調達(IPO=Initial Public Offering)ではなく、新規の暗号通貨の公開による資金調達(ICO=Initial Coin Offering)をするために、日本の法規制が未整備であることもあり、このような形を取ったものと思われます。
この記事ではalis.to の運営会社はALISと大文字で書き、ALISが資金調達のために作った新しい暗号通貨のことはalisと小文字で書くことにします。
さて、ALISは2017年7月に設立されたばかりの会社ですが、それから二ヶ月後の9月には当時の価格でおよそ4.3億円相当のICOを成功させました。
暗号通貨alisを新しく発行し、それを既存のイーサリアムETHによって投資者に販売したのです。
これによって 13,000〜14,000 ETH ほどのイーサリアムを資金調達した模様です。
ただし4.3億円というのは当時の1ETH≒32,000円のときの時価であり、その後、一旦は1ETH≒160,000円まで上がったETHの価値は、現在は1ETH≒13,000円まで下げていますので、ALISが調達した資金は現時点のレートで考えると、1.7 〜.8 億円ということになります。
これと同期して、alis の価値も 17年11月に40円だったものが、18年1月に最高値148円を記録したあと下がり続け、現在は4〜5円で取引されている状況です。
運営会社ALISのみなさんも何かと苦労なさっていることでしょう。
投稿したり、「いいね」をするとalisトークンが稼げる - ソーシャルメディアalis.toの仕組み ソーシャルメディアalis.toについて、ITmedia NEWSはこのように紹介しています。*2
alis.toは、ブロックチェーン技術を使ったメディアプラットフォーム。読者が「良い」と思った記事を評価すると、書き手に独自のコイン「alisトークン」が配布されるほか、良いと認められた記事をいち早く評価した人にもトークンが配られる。
ネットメディアがページビュー(PV)偏重や広告依存に陥り、フェイクニュースなど質の低い情報がまん延する中、「報酬を通じて信頼できる記事・人を発掘できるソーシャルメディアプラットフォーム」構築を目指すという。
高評価の記事に「トークン」配布 広告に依存しないメディア「ALIS」、ICOで資金調達 - ITmedia NEWS 暗号通貨を使って、簡単に「投げ銭」できるようにすることで、コミュニティの機能を強化し、ネット上の情報の流通を健全なものにしようというわけです。
また、ALISのコアメンバーの中村健太さんは、ALISのICOとビジネスモデルについて
新規株式の代わりにトークンを新規発行 これを買ってもらう(トークンセールする)ことで投資家や企業から資本を獲得 サービスを拡大しトークンの相対価値を上げていくことで、投資元へのバックを行い、かつそれを自ら放出することで利益を作り出していく 日本向けブロックチェーンSNS『ALIS』がICOでの資金調達に挑戦!世界が注目するプロジェクトが動き出す | Ledge.
2018年11月26日にリリースされたばかりのethboard.jp という日本発のサービスがあります。
暗号通貨イーサリアムを使った匿名掲示板システムで、将来有望ではないかと思われます。
※イーサリアムは、普通 ETH と表記されますが、この記事では eth と表記します。
この記事では 、
ethboard を紹介すると同時に、 まだ立ち上げ間もなく、混沌とした ethboard の現状をどうすれば改善しうるかを 1ユーザの立場で 考えてみます。
※普通、仮想通貨と呼ばれることが多いのですが、この記事では暗号通貨という呼び名を使います。
※ethboardは、正式には「イースボード」と読みますが「イーサボード」と読む人も多いです。
ethboard.jpって何? ethboard の利用方法 混沌としたethboardの未来はいかに? あるいは、「ethboard 改善しても委員会 ^^)」からのお知らせ ethboard.jpって何? ethboard.jp は匿名掲示板サービスです。
スレを立て、レスをすることで 暗号通貨 eth をもらうことができ、 この eth のやりとりによって独自の経済圏を作り、 eth をサービスの外に送金する際の手数料によってサービス提供のための資金をまかなう、 というビジネスモデルを採用しています。
従来の広告ベースのモデルでも、使用料を取るモデルでもないと同時に、 コンテンツの評価を、検索件数・閲覧数だけに頼らない、 という新たなあり方を、
暗号通貨の利用によって実現しようとするサービスです。 匿名システムの盛んな日本風のhttp://steemit.comとも言えるし、暗号通貨alis を使ったブログシステムhttp://alis.to の匿名版とも言えるでしょう。
開発元のMidFree代表・横井 佑丞 (よこい ゆうすけ) さんはツイッターで、
https://twitter.com/yokoiyokoiyokoi/status/1066785418585096193
仮想通貨を貰える掲示板
ETHBOARD(イースボード)
をリリースしました!
https://ethboard.jp 投稿すると閲覧数やいいねに応じて仮想通貨ETHを貰えます。
閲覧される限り継続的に儲けれますし、他の人に投稿を売ることでまとまった利益を得ることも可能!
気軽に投稿してもらえれば嬉しいです。
と、紹介しています。
スレを立て、レスをすることが eth の獲得につながるため、ほとんどの方がどうやったら eth を多く獲得できるかを考えて書き込みを続けているのが現状です。
ethboard の利用方法 ethboard はまったく登録なしでもゲストとして使えますので、とりあえず覗いてみたい方は、ゲストとして使うのもおすすめです。
本格的に eth の獲得がしたい方は、eth のアカウントアドレスだけで登録ができます。
作家になりたいと、いくらかでも思っているあなたなら、村上春樹の成功について、まったく知らないということはありえないでしょう。
彼が「なぜ世界中でこれほどまでに読まれているのか」という理由を、合理的に説明することなどできるわけありませんが、春樹が「なぜこんなに成功することができたのか」を少しばかり考えてみることは、あなたが作家になる可能性をきっと高くしてくれることでしょう。
そして、もののついでではありますが、世間で取りざたされるように、春樹がノーベル文学賞をとる可能性があるのかどうかについても、せっかくだから一緒に考えてみようじゃありませんか。
村上春樹の出発点は、外国作家のパクリだった? 作家になりたかった *わけではない* からこそ。 「生き方自体が作家」という春樹の天才と、それが「商品」になるという奇跡 春樹がノーベル賞を取るのは、日本が戦争を始めたとき? 村上春樹の出発点は、外国作家のパクリだった? 第22回群像新人賞を受賞したデビュー作「風の歌を聴け」と、受賞第一作の「1973年のピンボール」が、全体を断章で構成する形式の点で、アメリカの作家カート・ヴォネガットの模倣であることはよく知られた事実です。
おまけに「風の歌を聴け」では、デレク・ハートフィールドなる架空の作家を登場させています。
これもヴォネガットが自作にキルゴア・トラウトというSF作家を登場させていることの模倣あり、ここまでいくと「バクリ」という言葉も使いたくなります。
当時の群像新人賞の選考委員は、佐々木基一、佐多稲子、島尾敏雄、丸谷才一、吉行淳之介の諸氏で、
・村上春樹 第二十二回群像新人文学賞
というページに選評が載っているので読んでみると、アメリカ文学の影響を強く受けてはいるが独創性が高いということで、満場一致の受賞となったことが分かります。
この「模倣」の問題は本人も気にしていたと考えられ、長らくこの二作は2015年になるまで、海外での翻訳出版はされていませんでした。
・ようやく英訳が出た村上春樹氏の初期作品に世界が熱中! | クーリエ・ジャポン
という記事には、
デビュー作『風の歌を聴け』と二作目の長編小説『1973年のピンボール』については、長い間、日本国外で英訳が刊行されていなかった。村上氏自身が「未熟な作品だと思っていたから」だという。
と、2015年になってようやく海外での出版がなされた事情を説明しています。
多くの作家がはじめは優れた作家の模倣から始めるのですから、春樹の作品がアメリカ文学の模倣から始まっていたとしても、何も悪いことはありません。
みなさんが作家を目指して小説を書くのならば、好きな作家をいくらでも真似してみればいいでしょう。
ただし、プロフェッショナルとして作家になりたいのならば、そこに模倣以上の何かを生み出さなければならないことは言うまでもありません。
作家になりたかった *わけではない* からこそ。 村上春樹という作家のおもしろいところは、彼は別に作家になりたかったわけではない、というところにあると思います。
千駄ヶ谷でジャズ喫茶をしていた春樹は、野球の観戦中にふと小説を書いてみようと思い立ち、そして実際に書き始め、じっくりと書き上げた作品を新人賞に応募したところ、これが一発で見事に受賞してしまったのです。
それが1979年、30歳の年です。
こんなことは普通の人間に起こることではありません。
しかも同じようにして自然に淡々と書き続けた結果、5作目の長編「ノルウェイの森」は、上下巻合わせて430万部の大ベストセラーとなります。
1987年、38歳で押しも押されぬ有名作家となったわけです。
真似しようと思っても真似のしようがない人生の軌跡ですが、作家になりたいあなたがここで学ぶべきことは、あなたが本当に書くことが好きならば、春樹のようにはなれなくても、自分なりの方法で書き続けていくことで、自分なりの形を作ることはできるはずだ、ということです。
春樹自身も、デビュー作と二作目の形式からは離れて、新しいスタイルで本格的な長編を書くことで、「これこそ村上春樹だ」と言える作風を確立していきました。
あなたもプロになれるかどうかとは関わりなく、書くことが好きで、書き続けることができれば、自分らしい作風を確立し、数は少なくても読者を獲得することもできるでしょう。
今の世の中では、誰にでも手の届くところに、ネットという表現媒体があります。
じぶんなりのメディアを用意して発表をし続けることで、明日を夢見るアマチュア作家たちは数知れません。
あなたが本当に書くことが好きならば、そうした人たちの仲間に加わることは、きっとあなたの人生を豊かにしてくれるに違いありません。
そして、運がよければ、あなたにもプロとしてのデビューの道が開けるかもしれないのです。
「生き方自体が作家」という春樹の天才と、それが「商品」になるという奇跡 村上春樹という作家の天才性は、「生き方自体が作家」であるということに尽きると思います。
書くことが好きで、走ることが好きで、走ることについても書いて、翻訳もして、とにかく彼は好きなことをして生きていて、それが「作家として成立」しています。
それはまったく幸運なことしか言いようがありません。やろうとしてやれることではなく、天が与えた運命としか言いようがないでしょう。
その上、彼の書くものは「商品」としても優れているのですから、これは奇跡以外の何ものでもありません。
この奇跡の秘密こそが彼の成功の秘密であるわけですが、それは彼の執筆方法が「無意識の力」を利用しているところにあるのではないでしょうか。
彼はストーリーがどのように進んでいくかを自分でも知らないまま書き進め、一旦書き終われば、すべてを打ち込み直しながら推敲していくという作業を、何度も繰り返すのだといいます。
このようにして村上春樹本人の意識すら知らないことを書いた結果が、世界の読者に受け入れられているのですから、不思議と言えば、まったく不思議なことです。
言ってみれば彼の無意識は、今の地球の時代精神とつながっているのでしょう。
もちろん彼の書くものが万人に受けるというわけではありませんから、そのとき、春樹ではないあなたが書く作品にも、出番があるわけです。
実のところ、あなたの無意識だって、今の地球の時代精神とつながっているのです。
ただしそのつながり方は、春樹ほど太いつながりではなく、ごく細いものかもしれません。
けれど、それがいかに細いものであっても、同じチャンネルでつながっている人にはあなたの表現が届くはずですし、創作を続けていく中で、そのつながりを太いものにしていくこともできるのです。
ぼくも非力ながら、こうして記事を書いていくことで、少しずつでも時代精神とのつながりというものに磨きをかけて、流れのよいものにしていこうと心がけています。
願わくば、あなたのもとに文芸の神さまが降りてきて、あなたをこの地球時代の集合無意識と太く結びつけてくれますように。
春樹がノーベル賞を取るのは、日本が戦争を始めたとき? 村上春樹がノーベル文学賞を取る可能性はどのくらいあるのでしょうか?
これについては、はっきりは分からないというのが、もちろん正直なところで、まったく神のみぞ知るということです。
けれどもここで大胆な予想をしてみましょう。
村上春樹がノーベル賞を取るのは、日本の全体主義化が進んで、日本がふたたび戦争を始めたときである、という予想です。
ノーベル文学賞に政治的な意図が込められていることは、みなさんもご存知の通りです。
ソビエトのソルジェニーツィン、中国の高行健など、政府に抗議した人物の受賞に、それなりの意図があるのは明らかですし、ミュージシャンであるボブ・ディランの受賞も、表立っては言われていなくても、その政治的な姿勢が受賞の背景にあることは否定できないでしょう。
春樹の小説が、ノーベル賞に値するものかどうかは、スウェーデンアカデミー外部の人間には判断できません。また、大江健三郎氏がノーベル賞を取ってからの期間や、日系のカズオ・イシグロ氏が受賞したことも春樹受賞には不利や要素として働く可能性があります。
そうしたことを考えると、当分の間、春樹の受賞はなさそうに思えますが、今後十年単位のスパンで考えたとき、日本が軍事大国となり、戦争を始めたときに、それを諌めるメッセージとして、村上春樹のノーベル文学賞受賞の可能性が高まると思えるのです。
以上、最後は勝手なぼくの妄想となりましたが、この記事はこの辺でおしまいにします。
それではみなさん、ナマステジーっ♬
発売早々11万部を売って話題になった「錯覚資産本」でおなじみのふろむださんが、
・マーケティングの人材市場からわかる、これから「台頭する人」「落ちぶれる人」の4つの条件 - ふろむだ@分裂勘違い君劇場
という興味深い記事を書いています。
記事の主題はマーケティングの人材のことですが、IT化とグローバル化が進む現代社会で「どんな人材が重視されるか」という話なので、マーケティングに限らず、様々なビジネスの現場において役立つ内容になっています。
これからのビジネスには、
「原因特定解像度、サイクル長、幹への近さ、ローコンテキスト」という4つのキーワードが重要だ、 というふろむださんの主張を、もう少し詳しく見た上で、
打てば響くネットの「高解像度×短サイクル」を使いこなす方法 について考えることにします。
なお、「高解像度×短サイクル」とは、別の言い方をすれば、
「PDCAサイクルの圧縮・高密度化」 とも言えます。
ネットの普及で「原因特定解像度」が「高くて当たり前」の時代が来た。 効果を測る「サイクル長」が短くなることで、新時代のビジネスは加速する。 「幹への近さ=経営感覚」の重要性、あるいは「専門性の落とし穴」 グローバル化する時代だからこそ「ローコンテクスト」の意識によって「文化の壁」を越えていく。 打てば響くネットの「高解像度×短サイクル」を使いこなす方法 ネットの普及で「原因特定解像度」が「高くて当たり前」の時代が来た。 ふろむださんは、
原因特定解像度とは、「マーケ施策の成功・失敗の原因を、どれだけはっきり特定できるか?」ということ。
と説明しています。
マーケ施策に限らず、
何かをやってみたとき、その結果について原因をどれだけはっきり特定できるか、 と一般化できます。
アナログの時代には低かったこの「解像度」が、ネット時代を迎えて「高くて当たり前」になっていることを、ふろむださんは強調するわけです。
例えば書籍を出版するのには、年単位で準備することも普通です。
その書籍が無事に売れたとき、なぜ売れたかの原因を特定することは簡単なことではありません。
ふろむださんの「錯覚資産本」が売れたのは、
ネット上のインフルエンサーの紹介のおかげか 著者がネット上で有名だったからか、 文章が簡潔明瞭だったからか、 イラストがよかったからか、 などなど、様々な理由が考えられる中で、どれが原因として大きなものなのかを特定することは、事実上不可能です。
これが「原因特定解像度が低い」状態です。
それに対してツイッターを使って読者の反応を見る場合、よいツイートをすればフォロワーが増え、ダメなツイートをすればフォロワーが減ります。
また、よいツイート、ダメなツイートの原因も、140文字の中に現れるわけですから、10万文字からなる書籍の場合と違ってピンポイントで原因を特定することも容易になります。
これがネット時代の「原因特定解像度の高さ」の意味です。
これからの時代に有能な人材として評価されるためには、このネット時代の「高解像度」を意識することが重要だと、ふろむださんは言うわけです。
効果を測る「サイクル長」が短くなることで、新時代のビジネスは加速する。 ネット時代のもうひとつの特徴は、施策の効果を測る「サイクル長」が短くなることです。
先ほどの例で言えば、書籍の出版は結果が出るまでに数ヶ月から一年以上もの時間がかかるわけですが、ツイートの場合、一瞬で結果が分かるといっても言い過ぎではないほどです。
現実世界で時間をかけないと分からないことが、ネット上では限定された形であるとは言え、ごく短時間で結果を見ることができるのです。
このネットの持つ特性を上手に活用することができれば、変化の大きなこれからの時代に、極めて有利に働くことは言うまでもないことでしょう。
ふろむださんが「高解像度×短サイクル」をキーワードにするのも、納得がいきます。
「幹への近さ=経営感覚」の重要性、あるいは「専門性の落とし穴」 ふろむださんは「専門性」は枝葉であり、あまりに狭い専門性を追求することは、これからの時代において危険なことではないか、と警告します。
自分の専門とする分野の将来性がなくなったとき、路頭に迷うことになってしまうからです。
したがって、マーケティングのような業務においても、
経営者のように、会社全体を把握し、全体最適のマーケティングを行う
ことが大切だと言うのです。
このように「経営感覚」を普段から意識することによって、
「専門性の落とし穴」を避け、 あまりに狭い専門分野に特化するのではなく、 時代の中で育ってくる新しい分野にも目配りをすることができれば、 多少浅くても幅広い専門性を持つことによって、時代の波に溺れることなく生き残ることができるはずだと言うわけです。
グローバル化する時代だからこそ「ローコンテクスト」の意識によって「文化の壁」を越えていく。 日本の国内市場が縮小していくことが予想される現在、国内に特化した「ハイコンテクスト」なマーケティングではなく、グローバルに通用する「ローコンテクスト」なマーケティングが重要になってくる、という話です。
このこともマーケティングに限らず、島国ニッポンの発想ではなく、世界規模でものごとを考えられる人材が、これからの時代には求められるようになっていくという話ですから、
日常的に、 日本以外の国では、 どんな人が、 何を求めているのか、 といったことにアンテナを張ることが大切と言えましょう。
打てば響くネットの「高解像度×短サイクル」を使いこなす方法 さて、
「幹への近さ」を意識し「経営感覚」を身につけ、 世界にアンテナを向けて「ローコンテクスト」の感覚を養うにあたっても、 打てば響くネットの「高解像度×短サイクル」を使いこなす技術を身につけることができれば、鬼に金棒です。
ブログは毎日書いて習慣にしたほうがいい、という話があります。
あなたにとっても本当にそうだと言えるのか、ちょっと考えてみることにしましょう。
別にブログは毎日書かなくてもいい。 「あなたなりのリズム=魔法のリズム」を作るのが大切です。 楽しみながら書いてますか? 成功の秘密は、「正しい努力」を続けること。 成功の意味は変化していく。 別にブログは毎日書かなくてもいい。 結論から言うと、ブログを毎日書く必要はありません。
できの悪い記事を毎日書いても、あなたのブログの読者は増えないでしょう。
毎日書く習慣ができてしまえば、多くの人に読んでもらいやすくなるというメリットはあるのですが、記事の質が伴わないとやっぱりダメですもんね。
毎日書くだけの余裕がある人は、そうして悪い理由もないのですが、読んでもらえるだけの内容の記事を書ける自分のペースというものを無視して闇雲に書いても無駄骨に終わるだけのことでしょう。
「あなたなりのリズム=魔法のリズム」を作るのが大切です。 ブログを楽しく書いていくためには、自分のペースを考えて、自分なりのリズムを作るのが大切です。
この「魔法のリズム」を身につけることができれば、あなたのブログは成功したも同然です。
ブログの記事を投稿するのは、週一回だけだとしても、毎日どんな記事を書くかを考えたり、とりあえず下書きだけでもする、といったことは、リズムを作るために役立ちます。
一日に10分でも20分でも、記事を考えるための時間を取ることで、ブログを書くということを生活のリズムの一部にしてしまえば、大きな苦労をせずに、記事を書く作業に取り掛かれるようになるからです。
みなさんが自分に合ったペースをうまく見つけて、「魔法のリズム」を身につけられるようお祈りします。
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楽しみながら書いてますか? 毎日ブログのための時間を取ったほうがいい、と書きましたが、これもやはり程度問題です。
仕事などで忙しいときに、無理やりブログの記事を考える時間を取ってもなかなかうまくいかないことにもなるでしょう。
そんなときは柔軟に考えて、休みを取ったほうがいいというものです。
考える基準は「楽しみながらやっているか?」ということになります。
たとえ一ヶ月に一度記事を書くだけでも、楽しんで書けていれば、あなたのブログは「成功している」と言えます。
逆にどんなにページビューを稼いで、どんなに広告収入があっても、楽しみがなくて、焦りに取り憑かれてやっているだけだったら、そのブログは「成功」とは言えないのではないでしょうか?
どんなペースであっても、楽しんでやっている限りあなたのブログは「成功している」と言えますし、どうやってみても楽しめないようなら、あなたはブログに向いていないということでしょうから、何か別の楽しみを見つけたほうがいいということかもしれませんよね。
成功の秘密は、「正しい努力」を続けること。 楽しんでやっている限り、あなたのブログは「成功している」のだと書きましたが、そうは言っても、
たくさんの人に読んでもらいたい、 とか、
広告収入を増やしたい、 とか、いろいろな目標があるのも当然です。
夢を持ってブログを続けることは楽しいことですし、「正しい努力」を続けていけば、夢がかなう可能性も大きくなっていきます。
けれども、この「正しい努力」というのがクセモノです。
何が正しくて、何が間違っているのかは、最終的には結果が出ない限りなんとも言えないからです。
はたから見て、どんなにおかしな努力をしているように見えても、実際に成果さえ上げてしまえば、それは「成功」としか言いようがありません。
イノベーターと呼ばれる「本物」の人たちは、ほかの人がやらないような努力をするからこそ、新しいチャンスを物にすることができるわけですからね。
もちろんぼくたち凡人の場合、そんな大それた話にはなりませんが、それでもとにかく、何でも試してみたり、人のやり方を真似てみたり、いろいろなやり方を実際にやってみることで、自分に合った、成果を上げられるやり方を見つけていくことができれば、それは「正しい努力」なんだということができるでしょう。
そして、この「正しい努力」の判断基準にも、「楽しんでやる」ことを入れてやるとよいでしょう。
楽しみながら、試行錯誤を繰り返していくとき、あなたのブログは健やかな成長を続けることができるはずです。
成功の意味は変化していく。 今までに書いたように、ブログを楽しく続けることができれば、まずは「成功」と言えますし、読者を増やし、収入を増やすというそのときどきの「成功」についても「正しい努力」を続けることで、十分にかなえていくことができるはずです。
保育園の先生が子どもたちに「字を書いてはいけない」と教えている、という話をネットで見て、
えー、ほんとにーっ! と思いました。
もちろん
「保育園児は文字を書いてはいけない」という法律 などというものは存在しません。
とはいえ、大人の都合によって、子どもたちにそういう「奇妙な思想」が吹き込まれるのは、あまり気持ちのよいものではありませんので、今日はこれを出発点として、日本の社会のあり方について、少しばかり考えてみることにします。
「嘘」をつく「先生」たちと、どうつき合うか 本音と建前が「見え見え」の社会で それでもへこたれずに生きるために、オフグリッドな人生を構想する 「嘘」をつく「先生」たちと、どうつき合うか 保育園の先生が子どもたちに「字を書いてはいけない」と教えている、という話は、fellfield さんの
・文字を書いてもいい - ツンドラ
という記事で見かけました。
fellfield さんが、子どもを保育園に送っていったところ、子どもの友だちがやってきて、
「保育園ではまだ文字を書いちゃいけないんだよ!」と詰め寄ってきた
というのです。
少しの間、どうやってその子に言葉をかけようかと考えてから、fellfield さんが、
「書いてもいいんだよーだ。パパがいいって言ってるんだから、いいんだよ」
と言うと、友だちの態度は和らぎ、その場の緊張状態は収まった、という話です。
その保育園では、
「文字を書くことを禁止はしない」「子どもの成長段階にはまだ早いので、積極的に教えたりはしない」
ということになっているのですが、実際には先生たちは「書いてはいけない」と指導をしているらしいのです。
たびたび子どもが「先生に書いちゃダメって言われた」と言っている。そのたびに妻が「書いてもいいんだよ、先生がそんなこと言う訳ないよ」と言うのだけれど、僕はただシンプルに「先生が嘘をついている」と思う。子どもが先生に言われたというなら、きっと、先生は言ったのだろう。そして当然ながら、先生たちの嘘は、子どもたちも見聞きしてしまうことになる。
fellfield さんのお子さんは保育園の年長さんで、その年頃になれば、子どもによっては、十分「大人のずるさ」も分かってくるのですから、fellfieldさんは、わざわざ「ずるい大人」に物申すことはせず、
今後また何かあれば、他人に禁じられたものを「やっていいよ」と解いてあげたり、他人に強制されたものを「やらなくていいよ」と解いてあげる役割を果たしていこうとは考えている。いつか子どもが自分自身で「これはやる」「これはやらない」と決められるようになるまで、あと何年かはそうしようと思っている。
という、とてもバランスの取れたスタンスで構えてらっしゃいます。
いいお父さんだなー、と感心する次第です。
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本音と建前が「見え見え」の社会で ぼく自身が幼稚園に通っていたときの話なのですが、園庭にブランコが2つだけあって、遊び時間には多くの子どもたちがブランコに乗りたくて、列を作って待っています。
気の強い、世渡り上手な女の子と、その子分のようなもう一人の女の子がそのブランコを占領していて、それに対して先生が
「〇〇ちゃん、ちゃんと順番で代わってあげるのよー」
と声をかけます。
すると、女の子たちは、
「今、乗ったばかりでーす」
note.muの運営会社ピースオブケイクでユーザインタフェイスのデザインをなさっている深津貴之さんが、
・[お金持ちを、ほめよう!:title]
という記事を書いています。
一般の人々がお金持ちの行ないをほめることによって、お金持ちの方々が気持よく寄付できる環境を作ることができれば、もっと社会はよくなるのではないか、という主張です。
こうした考え方は確かに意味のあるものと思いますが、これが
お金持ちの行動を批判するべきではない、 という話になってしまうと、ちょっとおかしなことになりますので、その辺りを少し考えてみたいと思います。
人は褒められると嬉しくなるのは、確かにその通りです。 けれども有能な経営者って、案外サイコパスですから、ちょっと例外なんですよね。 「よいお金持ち」をほめるのは大切だけど、「わるいお金持ち」を批判するのも大切です。 人は褒められると嬉しくなるのは、確かにその通りです。 深津さんは、
お金持ちを「攻撃」すると、持てるものと持てないものの間に「対立構造」ができてしまい、お金持ちは「富の再分配」に同意したくなくなる という意味のことを述べています。
逆に、
お金持ちを褒めて、名誉を与え、「好意」を送ることによって、お金持ちは機嫌よく「富の再分配」に同意する というのです。
多くの場合、人間が「攻撃」よりも「好意」を受けることを好み、それによって態度を軟化させるのは、心理学的な事実といっていいでしょう。
ですから、人間のこの性質を利用して、
お金持ちが気分よく「富の再配分」をしたくなる仕組みを作ろう、 という深津さんの話には確かに一理あります。
そのために、
再分配に対するインセンティブを与え、 実行したお金持ちを褒め称える社会的空気を作り、 結果として
お金持ちが積極的に再分配する社会を実現する、 というのは、アイディアとしては悪くないですよね。
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けれども有能な経営者って、案外サイコパスですから、ちょっと例外なんですよね。 深津さんの主張は、社会全般に対して「富の再分配」のイメージを上げるという意味では有効なものだと思いますが、実際にそれが「持てるものと持てないものの対立構造」をゆるめ、「社会問題」の解決につながるかという点では、大いに疑問を感じます。
というのも、有能な経営者というものは、
おだてられてお金を配るようなお人好しではない からです。
それどころか *本当に* 有能な経営者はむしろサイコパスであることも多く、普通の人間のような「感性」の持ち主ではないからこそ、ビジネスの世界で大きな成功をつかむことができるのです。
*1
現代社会において、巨大企業が圧倒的に大きな力を持っていることを考えれば、私たちが直面する「社会問題」の多くが、「サイコパス的な非人間性」から生じていることは、十分想像できることかと思います。
とすれば、
「褒めてあげれば、お金持ちが気持ちよく『富の再分配』に応じてくれるようになり、『社会問題』は解決していく」
というストーリーは、残念ながら楽観的にすぎて、現実味に乏しいものに思えます。
現実にアメリカのような「お金持ちの慈善事業が当たり前の国」でも、「対立構造」はなくなるどころか、むしろ激化しているように見受けられます。
twitter でシュナムルさんという方が
原爆投下は正当化の材料を遥かに豊富に持っていて、それらにきちんと向き合って原爆非難の論理を組み立てるのは簡単じゃない。
と、
広島・長崎への原爆投下は戦争終結のために必要だったのだ としか読みようのない発言をして物議をかもしています。
この記事では、
広島・長崎への原爆投下は戦争終結のために必要なかった ことを説明した上で、シュナムル氏に代表される
「欧米の価値観によって『洗脳』済み」の経済主義的ファシズム思考 の問題を考えてみたいと思います。
広島・長崎への原爆投下には「正当性」などまったくない。 「欧米の価値観によって『洗脳』済み」のファシズム的思考法をぼくらは越えてゆくことができるのか 広島・長崎への原爆投下には「正当性」などまったくない。 繰り返しになりますが、はじめに結論を述べると、
広島・長崎への原爆投下には「正当性」のかけらもありません。 連合国側の論理では、
「一億総玉砕」の本土決戦を覚悟していた日本に敗戦を認めさせるためには、原爆投下が必要だった、 というのですが、これが全くの虚偽であることは、
先入観なく、少しばかり史実を調べて、常識的な推論を働かせることができれば、 誰にでも明らかなことです。
日本が早期の敗戦を認められなかったのは、連合国側によって天皇制を廃止させられることを恐れていたためです。
一方アメリカは、原爆の実戦での実験をなんとしてでも行ないたかった。そのため核開発の時間稼ぎをするために「無条件降伏≒天皇制の廃止」を絶対条件として提示していたわけです。
ソ連と中立条約を結んでいた日本は、天皇制を維持するため、終戦交渉の仲介をソ連に頼んでいましたが、広島へのウラン型原爆投下後、ソ連は条約を破って満州に侵攻します。
直後にアメリカは二発目のプルトニウム型原爆を長崎に投下しますが、これは当初小倉に落とすはずだったものを天候の問題から、急遽投下場所を長崎に変えたことももっと知られてよい事実でしょう。
(日本の敗戦間際に、アメリカが駆け込みで原爆実験をしたことの慌ただしさが、このことにはっきりと現れているとは思いませんか?)
結果だけを見れば、二発の原爆投下によって日本は無条件降伏を受け入れたのだとも言えますが、裏にあったのは、アメリカは時間稼ぎに成功して、ウランとプルトニウムの二発の新型爆弾の投下実験を無事行なうことができたというだけの話です。
現にアメリカは、日本の敗戦後の占領政策の柱として、天皇制の維持を日本に許したわけで、原爆を落とす時間稼ぎをする必要がなければ、日本側の天皇制維持を前提とした終戦交渉をもっと早い時点でやっておけばよかっただけのことなのです。
アメリカは
終戦を早めるためとはまったく関係のない、 実戦における二種の原爆実験をするために、 わざわざ戦争の集結を遅らせて、 その非道な実験によって人類史上最悪の戦争犯罪を行なった にも関わらず、ファシズム的プロパガンダによって
その事実を巧妙に隠し続けている のです。
こうした事実をきちんと確認しないまま、欧米で流布する
「原爆投下は終戦に必要だった」という言説 をなんの疑いもなく信じることは、まったくもって残念なこととしか言いようがありません。
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「欧米の価値観によって『洗脳』済み」のファシズム的思考法をぼくらは越えてゆくことができるのか 「原爆の投下が終戦のために必要だった」という言説が戦勝国によるご都合主義のプロパガンダにすぎないことは、前節で述べた通りですが、ぼくたちが日頃接しているマスメディアも、実質的に「欧米の支配的価値観によって『洗脳』済み」なのだということを、まず知る必要があります。
みなさん、神さまは信じてますか?
神さまがこの世界を創ったのか、それとも人間が神さまを考えだしたのか。
今日は、
E.フラー・トリー「神は、脳がつくった 200万年の人類史と脳科学で解読する神と宗教の起源」(2018 ダイヤモンド社) という本を紹介しながら、そんな話について考えてみようと思います。
「神さまがこの世界を創った」と考えることは、科学と矛盾しません。 「神々の誕生」は進化の副産物なんでしょうか。 「神々」の誕生と「ゴッド」の誕生 早すぎた「神々の黄昏」としての仏教、そしてデカルト・ニュートン・ニーチェからマインドフルネスへ 「神さまがこの世界を創った」と考えることは、科学と矛盾しません。 神さまを信じるか? と言われたら、答えに困るかもしれませんが、「この世界が神に創られた」というような考え方はしていなくても、日本では願い事を神さまに頼んだりするのは、割と普通ですよね。
そういう曖昧な信仰の形とは違って、ヨーロッパやアメリカでは、「唯一・万能の神がこの世界を創った」というようなきっちりした信仰が生きています。
アメリカのキリスト教原理主義者の方などは、キリスト教の考え方と矛盾するから進化論を学校で教えるな、と言ったりするようです。
でも、進化論って、神さまが世界を創ったっていうような話と、別に矛盾しないと思うんですよね。
聖書に書かれているとおりに、何千年か前に神さまがこの世界をお創りになったとしましょう。
でも、それは万能の神さまがなさったことなんですから、あたかも
「138億年前にビッグバンがあって、46億年前に地球ができて、そうして生命が生まれ、途方もない時間をかけて進化した結果人間が生まれた」 かのように見せかけて、この世界を創ったからなんだってことで、十分説明がつくじゃないですか。
ですから「神を信じるか否か」はあくまで個人の考え方の問題であって、科学的な思考とも合理主義的な人生観とも矛盾せず共存できるものだと思うんです。
「神々の誕生」は進化の副産物なんでしょうか。 この世界を神さまが創ったかどうかはさておいて、とにかく人類は猿の仲間から長い時間をかけて進化してきたようです。
トリーさんの「神は、脳がつくった」という本の説明では、人類200万年の進化の歴史の間に、次のような神の誕生を準備する「5つの段階」があったとしています。
そして、この進化の副産物として、神々は生まれたっていうんですね。
200万年前、脳の大きさ、知能が増大し、道具を使うようになる。 180万年前、自意識が誕生し、狩りや共同生活といった自他の意識を必要とする行動が可能となる。 20万年前、「心の理論」が発達し、他者の心を推測する能力が生まれ、相手を思いやる行動が生まれる。 10万年前、「内省的意識」が発達し、他者が自分をどう見ているかを考えるようになる。その結果、飾りを身につけたり、様々な自己装飾をするようになる。 4万年前、自伝的記憶が発達し、自分の過去や未来について考えられるようになる。道具や武器、洞窟で見つかる絵画、貴重な副葬品を合わせてする埋葬などといった技術・文化が加速度的に進展する。 このようにしてヒトが、
「自分の過去と未来を考え、死後の世界について思いをめぐらすようになったとき、神々が生まれたのだ」 というわけです。
進化によって人類が巨大な脳を獲得し、類まれな知能を駆使するようになったことの副産物として「神々を発明する必要があった」のだとするトリーさんの考えは、確かに理に適っているように思えます。
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「神々」の誕生と「ゴッド」の誕生 さて、トリーさんは、
生者と死者の関係における革命がもたらした結果の一つが、最初の神々の出現だったように思われる。(……)神々は八〇〇〇年前から七〇〇〇年前に現れた可能性があるが、もしかしたらもっと早く現れたかもしれない。
*1
と書いていて、これは農耕が始まることによって、定住が進み、死者を居住地のそばに埋葬するようになったことが祖先崇拝へとつながって、そうして神々が生まれたのだ、というのですが、ここのところはちょっとどうでしょうね。
というのは、現在でもアマゾンの奥地などには、狩猟採集を中心として半定住の原初的暮らしを続けている、たとえばヤノマミといった人々がいるのですが、彼らは死者を埋葬することはしません。