「働かないって、ワクワクしない?」アーニー・J・ゼリンスキー(ヴォイス)
この本はアメリカ的な文脈で書かれているから、自由時間をこそ、
たのしく生きましょう的な物言いになっていて、そこんとこはぼくの
趣味とあわないんだけれど、フルタイムで働いて「安定した暮らし」を
するのがそんなに素敵なことだろうか、という投げかけとしては、
確かにそのとおりと言いたくなる。
なにしろぼく、働くのは嫌いなもんで。
いやしかし、最近はこの手の「生きかた」についての本、ほんとに
おおいですね。
http://www.eleutheria.com/vquest/vindex.html 文化人類学者あがりの「呪術師」カルロス・カスタネダに関するページ。
色が派手でやや読みづらいが詳しい。
カスタネダのドン・ファンシリーズはいろいろあれど、一冊ということなら、これを。
「未知の次元―呪術師ドン・ファンとの対話」
http://en.wikipedia.org/wiki/R._D._Laing R・D・レインは英国はスコットランド出身の精神科医。英語のページで失礼。
http://laingsociety.org/ こちらに公式ホームページ発見。
一冊読むなら、読みやすさも含めこれ。
「レインわが半生―精神医学への道」
http://www.suanmokkh.org/ おしゃかさんの関連ということで、タイのお寺です。これも英語。
おしゃかさんの言葉にたぶん一番近い仏典の口語訳。
わたしの場合、お経とはこういうものだったのかと目からうろこが落ちました。
「ブッダの真理のことば・ブッダの感興のことば―ダンマパダ・ウダーナヴァルガ 」(1984年)
一日一日を気持ちよく生きていきたいのなら、
一瞬一瞬、自分が何をしているかにまで
きちんと気を払えるようになれたら最高。
その域に達することのできる人は少ないだろうけど、
どこまでできるかはともかく、目標はいくら高く持っても
悪いことないですよね。
で、その第一歩が深く息をすること。
そして体の力を抜くこと。
深くゆっくり息をする練習を続ければ、自分の体や
まわりの世界に注意深く気を払うことができるようになるし、
自分の体の緊張にも気づくようになるから、体の力を抜いて、
楽な姿勢をとることもできるようになる。
緊張しすぎてたら、できることもできなくなるし、
気持ちよくやってけませんもんね。
深く息をして、体の力を抜いて、いま自分がなにをやっているかに
注意を払ってみましょうか。
この世はまぼろしで、しかも完璧で、
しなければならないことなんて何もない上に人はみな自由に生きているとすれば、
ぼくらが生きていく上で、一体なにが問題になるというのだろう?
一つの答えは、そう、問題なんて何もない、ということだ。
ぼくが、あなたが、そして多くの人が、「まいったな、こいつは問題だ」
と思うからこそ、そこに問題が生まれるのであって、「ふむ、確かに少し
困りはするが、なに、こんなことは大したことじゃない、別に問題と
いうほどのことじゃない」と思ってしまえば、問題など消え失せてしまうって
わけだ。
そんなに簡単にいくわけないよと、あなたは思うだろうか?
たしかにこれを実行するのは難しいだろう。問題なんて何もないと
思えるようになるまでには、十年単位の時間がかかるかもしれない。
けれど、考え方自体は上に書いたとおりで、全く単純明快なことなのだ。
別の角度から眺めてみると、問題が生まれてくるのは、とかくままならぬ
ことが多いこの世の中で、所詮ままならぬと分ってしかるべきことを、
どうしてこうもままならぬのかと、無駄に嘆き苦しむからだ、という
こともできる。
このことは、お釈迦さんが言っていることと半分は重なるが、欲望のままに
生きて、欲望を膨れあがるにまかせれば、いずれどこかで満たされぬ
苦しみという問題がやってくるのは当たり前なのであって、初めから足るを
知ってさえいれば、問題は生まれてこないわけだ。
あるいは、欲望のままに生きるとしても、それが適うときもあれば適わぬ
ときもあるのだから、適ったときには「ああ、良かった」と喜び、
適わなかったならば「これは残念」と思うくらいのあっさりした心持ちで
いれば、これもまた問題の生まれる余地はほとんどない。
いずれにしても肝心なのは、自分の心の手綱をどうとるか、である。
仮に上に書いた話をもっともだと思ったとしても、それを実行しようと
すれば、様々な心の乱れがあなたを邪魔することになるだろう。
その心の乱れすら問題としないようになるためには、とにかく時間をかけて
気長にやるしかない。
で、ぼくの場合どうなのかって?
問題なんてない、とすっぱり言い切れるかといったら...
まったく覚束ない、というのが実情です、はい。
人はみな自由に生きている。
そう考えると、この社会について、わりと納得しやすい気がする。
自由と言っても無論、やりたい放題というわけではない。
だって、みんながしたい放題、勝手気ままにやってたら、今よりもっと
混沌とした社会になるだろうからねぇ。
そうではなくて、この場合の自由と言うのは、みんな自分のしたいことを
自分で選んでやっている、ということで、つまり、ある人が何かを
我慢しているとすれば、それはその人が我慢したいからしてるんだと、
そうゆうふうな考え方のことなんです。
これは[しなければの錯覚]の話を、別の角度から見ていることにも
なるのだけれど、その意味では、ぼくらが現にあることをやっている以上、
それはやりたいからやっているのだと受け止めることにする、という
考え方の問題ということになります、はい。
また、別の言い方をすれば、ぼくらの心の中に相対立するいくつかの
欲求があったとき、その中でどれを実際に選ぶかというのは、
この意識的な自分が選ぶのか、それともある衝動にまかせてしまうのか、
はたまた自分で選んでるつもりなのに無意識的なものに支配されて
決めてしまっているだけなのか、いろいろなパターンが考えられるけど、
そのどれであるにしても、結局のところ「自分」で決めているには
違いないのだから、それは自由に決めてると言っていいだろうと。
(無意識的に決めちゃってる場合は、「決めた覚えなんてない!」と
いうことにもなりますが...)
まあ、そんなわけで、自分がやっている以上、やりたいことを自由に
やってるんだと思ったほうが、自分でもすっきりするし、人を見て、
あの人、なんであんなことするんだろうと思った場合でも、その人が
好きでやってる以上、わざわざ口出しする筋合いもないわけで。
(もちろん口出ししたい人は、それもご自由にね)
そして、みんなが自由に生きてる結果として、これだけ秩序立った
社会があらわれてるのを見るとき、ああ、やっぱりこの世界は完璧に
違いない、という思いにつながっていくのです。
([この世界の完璧さについて]参照)
この世界は完璧である、と言ったら、何をバカな、と思われるだろうか。
多くの人は、こんな世界ちっとも完璧じゃない、と思うかもしれないし、
ぼくにしたって、何て奇妙で、わけのわからない世界なんだ! と
ついつい思ってしまうのも現実である。
けれどもぼくは、にもかかわらず、この世界は完璧である、と
思うことにしたいわけなんです。
所詮この世はまぼろしであると受け止めるにしても、そのまぼろしにも、
不思議な因果律が働いているようで、それは、ただ混沌というだけとは
思えない。
たぶんそれは、ぼくらにその法則がうまく見えないだけのことで、その
不思議さの中に、この世界の完璧さがあるのだろうと。
完璧だ、といっても、だからこの世界が今のままで十分だ、と言いたい
わけではない。
今のところ、これが実現可能な最大限なんだろう、というくらいのことで、
その「今」に内在している様々な可能性が、刻一刻と生まれてくる、
そんなふうにして変わりつづける力を持っていることこそ、この世界の
完璧さなんだと。
もちろん、人間の愚かさに端を発する、解決のつかない問題を数え上げれば
切りがないわけだけど、それはそれで見ないふりをするんじゃなく、
きちんと受け止めて、つまり、それを誰か他のひとのせいにするんじゃなく、
そうしたことと、自分の中の愚かさとのつながりを恐れずに見ようとするとき、
愚かであるままの完璧さと、愚かしさを流していくための変化への力が、
そう、確かに立ち現れてくる...
そんなふうに考えてぼくは、その世界の完璧さを信じることにするのです。
「しなければならない」という言い方をうかつに使ってたりしませんか?
ぼくもずっと、うかつにも使いつづけていたんだけど、あるとき、
これはどうもよろしくない、と気がついて、日々練習を続けた結果、
近頃はほとんど使わずにすむようになりました。
で、「しなければならない」のどこがよくないのかと言いますと、
だってあなた、
「しなければならない」ことなんて、まずないじゃないですか。
勉強を「しなければ」試験に落ちるかもしれない。
てことは、試験に落ちてもいいんなら、勉強なんて「しなくていい」。
仕事を「しなければ」首になるかもしれない。
首になる覚悟があるんなら、仕事なんか「しなくて」大丈夫。
試験に落ちたくないから、首になりたくないから、「しなければならない」
に決まってるじゃないかって?
多分そこが人生の分かれ道だと思うんです。
なぜ勉強をするのかを忘れて、勉強を「しなくちゃ」と思ってするのか、
それとも、試験に受かりたいから、勉強を「しよう」と思ってするのかって
とこがね。
あれもしなくちゃ、これもしなくちゃ、と思って生きてたら、どうにも
心がせわしくなくなって、毎日がなんだか押されまくりになってしまう。
あれをしないとああなるけど、まあ、いいや、と柔らかく考えてみたり、
これをしないとこうなるから、これはやっておこう、と自覚して動いてみる。
そんなふうなやり方が少しずつできるようになって、ぼくの毎日はずいぶん
楽な感じになってきたと、そんなようなわけです。