人類の過去と未来を「サピエンス全史」と「ホモ・デウス」の二冊で書き切ったイスラエル人の歴史学者ユヴァル・ノア・ハラリ氏が、毎日二時間の瞑想を欠かさないヴィパッサナー瞑想の実践者であることはご存知でしょうか。 この記事ではハラリ氏の体験と言葉を通して、ヴィパッサナー瞑想の持つ大きな可能性を紹介します。 瞑想は迷信? それともカルト? 瞑想で身につく第一の力は「注意力」 二つ目は、物語と現実を見分ける力 21世紀で一番重要な資源は「注意力」である ハラリ氏の瞑想実践は、毎日二時間、毎年30-60日の長期コースも 瞑想は迷信? それともカルト? ハラリ氏はもともとは瞑想に関心はなく、迷信かカルトだと考えていました。 それが変わったのは、オクスフォード大学で博士課程の勉強をしていたときのことです。 中のよい友だちにヴィパッサナー瞑想をすすめられたのですが、初めは断っていました。けれど一年にも渡ってすすめてくれるので、試しにやってみたのだそうです。 すると彼が受けた瞑想のコースにはまったく神秘主義的な要素がなく、まったく実際的な指示があるだけなのでとても驚いてしまったのだそうです。 その瞑想のやり方はどんなもので、どんな効果があったのでしょうか。 瞑想で身につく第一の力は「注意力」 ハラリ氏は、ヴィパッサナー瞑想に出会っていなかったら、「サピエンス全史」を書くことはなく、今でも中世の軍隊の歴史を研究するだけで精一杯だったろうと語っています。 その彼が、瞑想によって身につく第一の力として上げているのが「注意力」です。 ハラリ氏が実践している瞑想法では、まず自分の呼吸に意識の焦点を当てる練習をします。 そして呼吸に意識を向けることに慣れたら、次に全身の感覚を頭のてっぺんから足のつま先まで順番に観察していきます。 こうして呼吸と体の感覚を対象にして観察を続けることで、意識の焦点をコントロールする力を養い、注意力を高めることになるのです。 呼吸のように身近で分かりやすいものに対して焦点を当てる練習を続けることによって、もっと重要なものに焦点を当てることができるようになるのだと言います。 歴史を研究するとき、無数のディテールの中で何が大切なのかを常に意識し続けるのは難しいことです。あるいは、現代社会について考えるとき、日々起こり続ける膨大な事件の中で何が重要かを判断するのも簡単ではありません。 溢れ返る情報の中で迷子にならず、大切なことがらにきちんと焦点を当て続ける技術を養うために、瞑想は非常に役立っているのだとハラリ氏は言っています。 ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ☆ここでちょっと一休み、<スポンサード・リンク>です。 ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ 二つ目は、物語と現実を見分ける力 瞑想によって身につくもうひとつの大きな力が、物語と現実を見分ける力です。 人間が現実だと思っているもののうち、99%までが心が作り上げたお話にすぎないのだとハラリ氏は言います。 ハラリ氏が実践しているゴエンカ式のヴィパッサナー瞑想では、基本的に呼吸と体の感覚を観察することしかしません。 そうして自分自身の感覚を見続けることによって、不快感や怒りなどの感情も体の感覚としてとらえられることを経験を通して学びます。 そうして感覚にもとづいて自分の心の動きを確かめられるようになると、この世界について自分が現実だと思っていたことの多くが、実際には物語でありフィクションでしかなかったことが分かってくるのです。 わたしたちの人間のほとんどが、宗教的な物語やナショナリズムの物語、あるいは流行りの経済の物語などに飲み込まれ、それが現実であると錯覚してしまいます。 その錯覚に気がつき、現実をありのままに見るために、ヴィパッサナー瞑想が役に立つというわけです。 そしてハラリ氏は、自分の歴史家としての仕事は、人類が数千年に渡る歴史を通して作り出してきた物語と現実との違いを明らかにすることにあるのだと言うのです。 21世紀で一番重要な資源は「注意力」である 意識の焦点をどこに向けるかをコントロールすることこそが瞑想の技術であるとハラリ氏は考えています。 この「注意力(attention)」をきちんと重要なものに向けなければなりません。何が重要かといえば、現実こそが重要なものです。 そして現実の中でも分かりやすい呼吸から始めることで、間違いなく注意力を養い、物語と現実を見分ける力をつけることができるのです。 言葉によるコミュニケーションを身につけ、やがて書物を生み出し、新聞やテレビというマスメディアが発達し、インターネットが登場しスマートフォンが普及することによって、わたしたちの注意力は「社会的な物語」に吸い寄せられ、呑み込まれてしまうようになりました。 この「注意力」という有限な資源をメディアとテクノロジーに無条件に手渡してしまうことなく、自分できちんと手綱を取ることは、あなたが人生をよく生きるために大きな意味を持つはずです。 「注意力」を自分でしっかりコントロールし、社会が作り出す「巨大な物語」とは距離を取って、感情的になることなく、現実をありのままに見ることは極めて難しいことです。 この難事業をやり遂げるためにヴィパッサナー瞑想は大いに役立ってくれるはずです。 ハラリ氏の瞑想実践は、毎日二時間、毎年30-60日の長期コースも ハラリ氏が実践するゴエンカ式のヴィパッサナー瞑想は、初めての人でも朝から晩まで座りっぱなしで、10日間の合宿期間中、先生への質問以外は無言で、夕方一時間の講話を聞く以外は、読み書きもできないという、かなりシリアスなコースです。(外部との連絡も緊急時以外はできません) ゴエンカ式の実践者は、朝と晩にそれぞれ一時間の瞑想をするようにすすめられており、ハラリ氏も2000年に初めてコースを受講して以来ずった続けているとのことです。 また、ゴエンカ式では、初心者向けの10日コース以外に、20日・

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「死にたいなら一人で死んでくれよって、そういう人は。何で弱い子供のところに飛び込んでんだって。信じられないですね」*1 とある落語家の方がテレビで発した言葉です。 「ひとりでしね」なんて言ってほしくなかった。 「ひとりでしね」と言わないで! 「弱いものいじめ」なんか吹っ飛ばせ 「ひとりでしね」と言わないで! こういう言葉を、発言力のある方がメディアで発することは、絶対にやめてほしい。 また、ネット上での個人的な発言であっても、感情のままに発信する前に、少し立ち止まってほしい。 心からそう願います。 弱い立場にある人が追い詰められて、自暴自棄になったりしてほしくないのです。 川崎市登戸で起きた連続殺傷事件の犯人に向けて、こういう発言をしたくなる気持ちは分かります。 襲われた子どもたちやその親の気持ちを考えれば、犯人にこう言いたくなるのは当然でしょう。 けれども、こういう大事件を引き起こす少数の例外的な人の陰には、決して少なくない数の引きこもりの人たちがいて、「ひとりでしね」という言葉は、そういう人たちの心に突き刺さります。 また日本は自殺が多い社会でもあります。「ひとりでしね」という言葉は、一人で悩んでいる人に対して、周りに迷惑をかけるくらいなら自殺しろというメッセージにもなってしまうでしょう。 そして病的な心理状態にある人に対しては、こういた言葉が更なる凶行を煽る可能性があることもきちんと考える必要があるでしょう。*2 ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ☆ここでちょっと一休み、<スポンサード・リンク>です。 ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ 「弱いものいじめ」なんか吹っ飛ばせ メディアやネットには、社会的弱者を安易に批判する言葉が溢れかえっています。 本当はそうした「弱いものいじめ」の言葉は誰のためにもならないから、そんな言葉はなくなったほうがいい。 けれども現実はむしろ逆で、多分これからも「弱いものいじめ」はむしろ増えていくでしょう。 だから「弱いものいじめ」なんて気にするのはやまてしまえばいいのです。 「ひとりでしね」なんて言葉は聞き流してしまえばいいのです。 人間には生きている限り可能性があるのだし、生きているだけで大いに意味があるのです。 ひょっとしてあなたは、自分なんか生きていることに何の意味があるんだろうと思っているかもしれません。 でも生きてる意味なんて、誰にもありはしないのです。 お金があろうと地位があろうと、恋人がいようと家族があろうと、そんなものはみんな社会的な形式にすぎません。どんなに社会的にうまくやっていても、それだけでは決して生きている意味にはならないのです。 ほかの人の基準で自分の人生を測るのはやめにしなければ、そして自分が現に生きているそのあり方を認めることができなければ、自分の人生の可能性を本当に信じることはできません。 生きるということは、しんどいことです。しんどいことをみんななくして、楽に生きたいと思ってもそうはできません。 しんどいことに向き合うことも必要です。 だからといって、嫌なことを我慢すればいいというものでもありません。 あまりにも嫌なことがあれば、そこからは距離を取ればいいのです。どうしようもなければ、逃げ出せばいいのです。 人の言うことに振り回されすぎず、自分なりのバランスをつかむ必要があります。 それが人生に意味を感じることにつながるのです。 社会がどんなに息苦しくても、自分なりの生きる意味を見つけることができれば、あなたの人生は輝きを失うことはないでしょう。 もし苦しくて、一人で答えが出せないでいるのなら、メッセージをください。 答えは出せなくても、一緒に考えたいと思いますので。 ☆次のリンクからマシュマロの機能を使って、誰でも匿名でメッセージを送ることができます。極端にネガティブな言葉を含むメッセージは届きませんのでご注意ください。 https://marshmallow-qa.com/tosibee ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─

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カメキチさんの記事 2019.4.30 『猫も老人も役立たずでけっこう』① - kame710のブログ で養老孟司氏の「猫も老人も、役立たずでけっこう」という本を知りました。 物質的には十分以上に恵まれているのに、あくせく働かないと気持ちが落ち着かないわたしたちに、「もう少しのんびり過ごしたらどう?」と、猫の視点から語りかけてくれるような、養老さんの言葉が気に入りましたので、本の内容にはとらわれず、気ままに思うことをつづってみます。 無用の用 何もしない喜び 書かないことで書く 無用の用 中国の老子さん、荘子さんは、無用の用ということを言います。 役に立たないからこそいいんだ、という逆説の発想ですね。 人間のものさしで測ったら役立たずとしか言えなくても、猫の目で見ればそれこそが生きる道という養老さんの主張もここに重なります。 「材として有用だったらとっくにかられてなくなっていたであろう木が、ねじくれて役に立たないからこそ大木となり、巨大な神木として人々の役に立つことになるのだ」という荘子さんのエピソードがぼくは好きです。 しかしこれも、効率一辺倒の人が見たら、「神木に何の意味があるか、そんなものは邪魔なだけだ、かり倒してしまえ」という話になりかねません。 でもぼくは思うんです、その極端なまでの効率主義こそが、現代の享楽主義的社会の息苦しさを生み出しているんじゃないかなって。 「そんなこと考えても、何の役にも立たないさ」と切り捨ててしまわずに、忙しく過ぎていく日々の中で、一度立ち止まって、じっくり考えてみてもいい話題じゃないかなって思うわけなんです。 ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ☆ここでちょっと一休み、<スポンサード・リンク>です。 ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ 何もしない喜び 忙しく働くことで充実した毎日を送っている方に対して、特別意見をするような気持ちはまったくないのですが、忙しすぎる日々の中で、「ああ、猫みたいにのんびり過ごしたい!」と思う方も少なくないのではないでしょうか。 都市化やグローバル化が進んで人間たちはひーひー言ってるのに、養老さんちの猫のまるちゃん齢15歳は、そんな世間の忙しさなんてどこ吹く風で、のんびり散歩、ゆっくり昼寝をして、悠々と老いを楽しんでいます。 ぼくはまだ五十代なかばなので、自分を年寄りとは思っていないのですが、産業社会に貢献していないことにかけては、若いころから隠居みたいな生活を送ってますし、役立たずで無用の用を地で行っている人間です。 その上に最近は瞑想の練習も楽しくなってきて、何もしないことが何よりの喜びとなってきました。 何もすることがなくても、猫は決して退屈しません。 人間だって同じようにできるはずです。 ただ頭を空っぽにして、ごろりと横になって、何を見るでもなく、ぼーっと視線を空間に漂わせることができれば、そこにはいつだって小さな幸せが漂っているのだということに、あなたもきっと気づくはずです。 イタリア語には dolce far niente という言い方があります。「無為の楽しみ」という程度の意味ですが、さすがはラテン文化のお国柄、人生の楽しみ方をよく知っているな、と思います。 書かないことで書く 何もしないことが楽しくなってくると、わざわざ文章を書くことにもさほどの意味がなくなってきます。 ネット上で文章を書いているみなさんは、なんといっても好きだから書いている、という部分が大きいと思うのですが、ぼくの場合はあまりそこのところが強くありません。 誰かに読んでもらって褒めてほしいとか、なんとかお金が稼げないだろうか、といった「邪心」で書いている部分が大きいのです。 だから、「ただ生きているだけで十分で、何もしなくてもオーケーなんだ」ということが分かってくると、書く動機が弱まってしまうんですね。 でも、ただ生きてるだけでオーケーならば、書いても書かなくても、どっちでもオーケーという話ですから、何か有用な記事を書こうという気持ちではなく、無用の記事でかまわないから、心から湧き出してくる言葉を並べてみようじゃないか、というような塩梅で、この記事はつらつらと書いてみているのです。 若いころ作家になりたいなと思って、けれどもうまく文章が書けないでいるときに、「貝が貝殻を作り上げるように文章を書きたいものだ」と思ったことがあります。 養老さんちのまるちゃんのことを考えてこれを言い直すと、「猫が毛づくろいをするように文章が書きたい」ということになります。 あれこれ考えて、有用な文章を書こうとするのではなく、自分にとっての自然な所作としてただ淡々と文章をつづっていく。 そんな形でこれからも書き続けていけたらなと思っています。 てなわけでみなさん、ナマステジーっ♬ ☆紹介した本 養老孟司「猫も老人も、役立たずでけっこう」(2018 河出書房新社)

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みなさんは瞑想やマインドフルネスに興味はあるでしょうか。 今日はインドの安宿で蚊に刺されながら、瞑想の練習がかなりいい感じでできたので、そのことを少し書いてみます。 瞑想って何なの? 簡単な瞑想のやり方 蚊に刺されていい瞑想の練習になった話 夢には夢の意味がある 瞑想って何なの? ぼくはゴエンカさん方式のヴィパッサナー瞑想を知ってから九年になり、この三年ほどは日々の暮らしの中でも、少しずつ瞑想の練習を心がけています。 瞑想と聞くと多くの人は座禅のイメージが浮かぶことでしょう。 静かに座って無念無想の境地を目指す座禅は、確かに瞑想の練習法として有効なものです。 でも座ってやるだけが瞑想ではありません。 立って座って歩いて横になって、体がどんな状態にあるときも、無念無想を体験できてこそ、瞑想の境地は深まるのです。 簡単な瞑想のやり方 ゴエンカさん方式のヴィパッサナー瞑想は実にシンプルなものです。 実際にやるのは、 自然な呼吸を入り口にして、体に起こる感覚を観察する という、ただそれだけのことです。 まずは背筋を伸ばし、楽な姿勢で座ります。鼻から自然に息を吸うと、鼻の穴を少し冷たい空気が通るのを感じることでしょう。 息を吐くときには、少し暖かい空気が鼻の穴を通り、唇の上の皮膚に当たるのを感じるかもしれません。 こうして、吸う息、吐く息とともに体に起こる感覚を、ただただ観察していきます。 これを朝起きてすぐと寝る前に、毎日五分ほど練習することができれば、あなたの人生は確実に変わり始めます。 三日や一週間では変化はあまり感じられないかもしれません。けれどもそれが二週間になり、ひと月になり、三ヶ月も経つ頃には、呼吸と体の感覚を意識することで、頭がすっきりするのが、はっきりと感じられるようになるでしょう。 そして長く続ければ続けるほど、以前には気になっていた小さな心配ごとが減っていき、また何かといらいらしていたことに対しても、前よりも落ち着いて対処できるようになっている自分に気づくことになるはずです。 ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ☆ここでちょっと一休み、<スポンサード・リンク>です。 ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ 蚊に刺されていい瞑想の練習になった話 瞑想の練習をしていて、呼吸や体の感覚に意識を向けていても、ふと気がつくと、何か考えごとをしている自分に気づくことになります。 いわゆる「邪念が湧く」というやつですが、これはまったく自然な反応ですので、忌み嫌ったり、否定したりする必要はありません。 気がついたら、呼吸や体の感覚に意識を戻せばいいだけのことです。 するとまたそのうち、何か考えごとをしている自分に気がつきます。ですからまた、呼吸や体の感覚に意識を戻します。 瞑想にはいろいろなやり方がありますが、基本はこれを繰り返すだけで十分なのです。 ところでぼくは、今インドのハリドワルという街にいます。 安宿に泊まっていて、エアコンがありません。窓を開けていれば涼しくて快適な陽気なのですが、網戸がないので夜になると蚊が出ます。蚊取り線香が嫌いなので、蚊に刺されながら寝ることになります。 するとこれが非常によい瞑想の練習になるんですね。 人間の感覚というのは、気にするとかえって増幅されてしまう性質があります。これは蚊に刺されてかゆいことにも当てはまります。 だからかゆくても、それを気にすることをやめられれば、「心頭滅却火もまた涼し」というやつで、かゆさに悩まされずに眠ることだってできるはずなのです。 とはいえ、こうした感覚のコントロールは、達人の域に達して初めて可能になるものです。 「言うはやすし、行なうはかたし」で、そんなに簡単に実行できるわけもなく、おととい、昨日と蚊に悩まされながら夜を過ごすことになりました。 それでおとといは、あまりのかゆさに「うぎゃー、なんでこんなにかゆいんじゃー」という感じで、現状を否認する強い感情が湧いてしまい、眠れぬ一夜を過ごすことになったのですが、昨晩は少し違いました。 かゆいことはかゆいので、なかなかぐっすり眠れないのですが、そのかゆさを少しは受け止められるようになったようで、夢うつつの中、かゆさを感じながら、おもしろい経験をしたのです。 夢の意識の中で、蚊にさされることは「瞑想の師匠が与えてくれる練習の機会」ということになっています。 かゆくてかゆくて、なかなかそのかゆみを克服できず、瞑想の練習を続けるのが難しいのですが、なるべくそのかゆみを受け止めて、否定的な気持ちが起こらないようにしていると、意識の状態が無念無想に近づき、「ああ、このかゆさの向こう側に、確かに悟りの境地があるな」ということが実感される瞬間がやってきます。 するとまた別のかゆみが起こって、これはまた別の師匠がくれた、別の瞑想の練習なのです。 そこでまた「あー、かゆい!」と思いながらそれを克服しようとあがいていると、そのうちふっと無念無想の状態に近づき、また悟りの境地が実感されます。 こうして行っては戻るプロセスを、夢うつつに何度も何度も繰り返し、昨晩は寝ながらにして瞑想の練習を続けていたのでした。 夢には夢の意味がある 夢の中で瞑想の練習をすることに何の意味があるのか、そう思う方もいらっしゃるでしょう。

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酒をやめている友だちがいます。 ところが、朝から一缶飲んでしまって、堕落した一日を送ってしまったと書いていました。 それを見てぼくは、人生いろいろあるから、無理せずゆっくり生きていきましょうよ、と書きました。 彼はぼくのことを師匠と呼んで慕ってくれているので、じぶんが酒を飲んだことを書いたら、ぼくから叱られるに違いないと考えていたそうです。 だからぼくが書いた言葉を、観音さまのように優しい言葉でありがたい、と言ってくれました。 でも、ぼくが本当に優しい人間かというと、これは怪しい話です。 実際には大して優しくもないのに、優しいふりをすることだけがうまかったりもするからです。 とはいえ、ふりをして、形から入って、行動や考え方を変えていくのも悪くない方法です。 それで最近のぼくは、人にも自分にも優しくするよう心がけているのです。 * * * 酒をやめたいという人がいるとき、酒の害を説いて、やめなさいというのは簡単なことです。 でも酒に害があることは、やめたいと思ってる本人が、一番よく分かってるんですよね。だからそうやって道理を説いても、あまり意味はありません。 分かっていてもやめられないから、依存症というのは難しいのです。 ですから、そこでやめられない人に対して、あいつは依存症だからダメなやつだ、などと言ったりしたら、これは最悪です。 依存症をこじらせる手伝いをすることにもなりかねません。 自分はダメなやつだと思うと、その気持ちをごまかすために、さらに飲むことにもつながるからです。 依存症には、人間関係の困難を、物質や行動で置き換えるという側面があります。周りの人との関係がうまくいかないために、社会の中で生きる意味を見失うことが、依存症の大きな原因の一つになるのです。 だから、知り合いに依存症で困っている人がいたら、できる範囲でその人に優しく接してあげてください。優しくできないのなら、距離を取るのが次善の手になります。 * * * ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ☆ここでちょっと一休み、<スポンサーのリンク>です。 ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ここで一つ難しいのは、優しくするのは、甘やかすのとは違うということです。 酒をやめたいのにやめられないでいる人がいるとき、好きなだけ飲みなさいといって甘やかしては、その人のためにならないのは当たり前のことです。 では、実際にどのような対応を取ればいいかというと、これは場合によって違ってきますので、具体的なやり方を書くのは難しいところです。 原則としては、やめたいと思っているのにやめられないでいるとき、酒を飲んでしまったこと自体は否定はせずに、その人のやめたいという意志を確認し、その気持ちを励ましてあげることです。 あなたがその人のことをきちんと心配して、その人のやめたい気持ちと、やめられない苦しさに寄り添うことができれば、あなたはその人の力になることができるでしょう。 ただし、これはあなたの人格がしっかりとしたものであるときの話です。もしもあなたの人格が十分にしっかりしていない場合には、共依存の関係に落ち入って、かえって二人の間に困難な関係を作ることにもなりかねないので、注意が必要です。 相手に優しくすることが目的になってしまわないように、まずは自分に優しくすることで、バランスよく自分の人生を生き、周りの人にも優しくできるようになりたいものです。 * * * さて、実をいうと、ぼく自身が依存症圏の人間であり、最初に書いた友だちとは、一緒に酒をやめましょうと言いながら、実際にはやめることができないでいるのが、現状なのです。 自分自身が酒をやめられず、その自分の弱さにも優しく振る舞うことで、自分の体を使って人体実験をしているといってもいいかもしれません。 ここに書いたことは、見聞きしたことも含めて、自分の経験をもとにしていますので、決してただの空想ではありませんが、人間の心というものは一人一人異なるものですから、現実の誰かに対応するときには、ヒント程度にとどめて、慎重になさっていただければと思います。 ぼくの場合には、子どもの頃から、自分の欲求を抑えつけてきてしまった傾向が強いので、問題にならない程度に欲求を解放していくことで、心のもつれを解いていこうと試行錯誤している状態です。 瞑想の力も借りて、心の奥深くのもつれを解いていく作業は、難しく、痛みも伴うものですが、行きつ戻りつしながらも、少しずつ前に進んでいる実感はあるので、今回はこんな文章を書いてみました。 この小文が少しでもどなたかのお役に立てたら、望外の喜びです。 最後までお読みいただきありがとうございました。 それではみなさん、ナマステジーっ♬ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─

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みなさん、おはこんばんわ。 この記事では、スティーブン・キング「書くことについて」とマイクル・クライトン「トラヴェルズ --旅、心の軌跡」という二冊の本を簡単に紹介します。 「シャイニング」の原作者であるキングと、「ジュラシック・パーク」の原作者であるクライトンという、アメリカのベストセラー作家二人の舞台裏が覗けるノンフィクションの二冊です。 スティーブン・キング「書くことについて」 マイクル・クライトン「トラヴェルズ --旅、心の軌跡」 スティーブン・キング「書くことについて」 キングのこの本は、小説の書き方についてがテーマになっています。 ですから、どちらかと言えばこれは、作家志望の人向けの作品だと言えます。 けれども、前半三分の一程度は「履歴書」というタイトルで自伝的な内容がつづられていますから、作品だけでなく作家に興味を持つタイプのあなたならば、興味深く読めること間違いありません。 想像力豊かだった子どもの頃の話から始まり、売れなくても書き続けた貧乏作家時代、ベストセラー作家になってからの酒とドラッグなしには生きていけなかった苦境など、どのエピソードも心をつかみます。 後半は小説の書き方になるのですが、作家を目指す方でなくても、ここから文章術を学ぶこともできますし、また小説に限らず、人間が表現することの意味を学ぶこともできるでしょう。 そして「後書き 生きることについて」では、この本の執筆中に車に轢かれて九死に一生をとりとめた体験がつづられます。 度重なる手術の結果、再起し、執筆を再開するに至る過程は涙なしには読めませんでした。 書く力を回復したキングはこう書きます。 ものを書くのは、金を稼ぐためでも、有名になるためでも、もてるためでも、セックスの相手を見つけるためでも、友人をつくるためでもない。一言でいうなら、読む者の人生を豊かにし、同時に書く者の人生も豊かにするためだ。 この言葉は、「書く」ということを「生きる」という言葉に置き換えても十分に通用します。 生きるということは、金や名誉や人間関係のためにあるのではありません。あなたが人生を真摯にそして楽しく生きるとき、そのことがあなたの人生を豊かにし、周りの人の人生をも豊かにするのです。 この本を読めば、キングという作家の書くことに対する情熱が、きっとあたなの人生を豊かなものにしてくれるに違いありません。 「書くことについて」 (2013 小学館文庫) スティーヴン キング https://amzn.to/2KdWanp ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ☆ここでちょっと一休み、<スポンサード・リンク>です。 ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ マイクル・クライトン「トラヴェルズ --旅、心の軌跡」 クライトンの「トラヴェルズ」は、人生という旅を描いた自伝的ノンフィクションです。 この本の最初のエピソード「解剖死体」は次のように始まります。 弓鋸(ゆみのこ)で人間の頭を切開するのは用意ではない。 これはクライトンがハーバード大学で医学生として勉強をしていた時代のエピソードなのです。 ぼくのように血を見ると背筋に悪寒が走る人間には、ちょっと読むのがつらい話が続くのですが、クライトン自身が血を見るのが苦手だというのですから、どうして医学を志したのだろうと、なんとも不思議な気持ちになります。 医学生のうちから小説で金を稼ぎ始めていたクライトンは、医学部を出たものの医師の資格は取らず、そのまま小説と映画の世界に身を投じることになるのですが、この医学部での経験は彼に取ってきわめて重要な「旅」だったのでしょう。在学中に書いた彼の出世作「アンドロメダ病原体」は、医学的なアイディアで成り立つ緊張感あふれるサスペンス小説なのです。 さて、クライトンは映画の世界ハリウッドに関わるようになったことで、スピリチュアルというもう一つ別の世界にも導かれていくことになります。 ハリウッドの女優とつき合い、その女優に霊媒を紹介され、自分が関わっていた映画が今は座礁しかかっているが、じき軌道に乗ることを予言され、その予言は的中します。 その映画「ウエストワールド」の制作がうまくいったとき、クライトンは次に何をすればいいのかが分からなくなり、深いうつ状態に落ち込んでしまいます。 そして関心の持てないまま大量の本を買い、それを読みますが、どれにも興味が湧きません。 そんな状態で彼は「ビー・ヒア・ナウ」という本に出会います。これは元ハーバード大学の心理学教授ラム・ダスが書いたスピリチュアルの古典的作品で、精神的バランスを失っていた一人のアメリカの知識人が、インドの聖者に出会うことで、新しいパースペクティブを見つけたことを語るノンフィクションです。 科学的な思考に信を置くクライトンは、ただちにインドの神秘世界に飛びつくことはしませんが、ハリウッドから距離を取り、ハワイのマウイ島に行っては、スピリチュアルに関わる本を読んで、自分を取り戻していきます。 そしてタイのバンコクを皮切りに世界中を旅し、自分の心の中を旅していく経験をこの本につづったのです。 科学的な思考を大切にしながらも、神秘主義的なものの見方にも心を開いて、自分の経験を観察していくクライトンが、肉体的にも精神的にも続ける冒険旅行は上下二巻の大冊ながら、あなたの心をきっと揺さぶることになるでしょう。 合理性や経済性が優先されがちな現代社会に息苦しさを感じているあなたには特におすすめの作品です。 「トラヴェルズ―旅、心の軌跡〈上〉」 (2000 ハヤカワ文庫NV)

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※記事最後に掲載していた会田氏のエログロ画像は、リンクを掲載する形に変更いたしました。 京都造形芸術大学が開催した、画家の会田誠氏らの公開講座を受けた美術モデルの女性(この記事ではオーさんとします)が、環境型のセクハラを受けたとして大学を訴えたことが、ネットの片隅で話題になっています。 この記事では錯綜する情報を整理し、訴えられていない会田誠氏と、大学を訴えた女性オーさんには「ほとんど問題は見られない」ことと、 公開講座を主催した大学には大きな問題があること を説明します。 ちなみにぼくは、会田さんの作風は割と好きなんですが、題材にはちょっとエグすぎるものもあるなあと思ってます。 また被害女性は「おばかなアカデミズム」にやられちゃって、ホントに可哀想だと思います。 美術モデルをしている女性オーさんの訴えはこうです 過激なエログロ画家・会田誠氏はこのようにもっともな説明をしています 古っぽくて営利主義的な大学運営こそが問題なんじゃない? 「問題」を解決するため、会田氏が積極的な関与をすることを提案します。 [追記 2019.3.6] 本記事を書いた意図の説明です。 [追記#2 - 2019.3.6] 講座を企画した鈴木芳雄の発言です。 美術モデルをしている女性オーさんの訴えはこうです オーさんは、京都造形芸術大学の通信教育部を卒業後、美術モデルをやっている39歳の女性です。 彼女は、京都造形芸術大学・東京藝術学舎で開かれた社会人向け公開講座(全5回、2018年4月から6月にかけて開講) 『人はなぜヌードを描くのか 見たいのか』 を受講しました。 三回目の講師の会田氏は、過激なエログロの画風で知られる画家ですが、オーさんはそのことを知らなかったといいます。 18年4月~6月に全5回行われた「ヌードを通して、芸術作品の見方を身につける」という社会人向け公開講義を受講したとのこと。会田氏がゲスト講師を務めた第3回の講義では「涙を流した少女がレイプされた絵」「全裸の女性が排泄している絵」「四肢を切断された女性が犬の格好をしている絵」などがスクリーンに映し出されたといい、会田氏は「デッサンに来たモデルをズリネタにした」などと下ネタを口走ることがあったという。女性は大学側に抗議したものの、その後も別のゲスト講師の講義で勃起した男性の写真の投影などがあったといい、急性ストレス障害の診断を受けていた。 ヌードの美術講義が「セクハラ」と大学を提訴 講師の会田誠氏が反論 - ライブドアニュース 会田氏の講義の後にオーさんは「すぐに、大学のハラスメント窓口に苦情を申し立てた*1」*2とのことで、この時点で大学側がきちんと対応できなかったことが問題の始まりと思われます。 (女性は)学校側に抗議。学校側は事実を認める一方で、示談の条件として校舎の立ち入りや学校関係者との接触を禁じるなどの対応をし、「外部に出したら名誉毀損として法的措置を検討する」などと大原さん側に伝えたという。 会田誠さんらにゲスト講義で自慰写真など見せられ「セクハラ受けた」 美術モデルの女性が学校法人を提訴 | ハフポスト オーさんは、 「講義内容が本当にひどいものだった」「セクハラを訴えたあとも、大学側の対応が、教育者としてあるまじき姿だった」「生徒を守ってくれないのは本当に残念だ」*3 「有名人を守るため、生徒側の口封じをした教育者としてあるまじき行為が許せなかった」*4 と語っています。 なお、三回目で嫌な思いをしたのに、なぜその後も講義を受け続けたのか疑問に思う方もいらっしゃると思いますが、こうした公開講座というものは有料ですから、苦情を申し立てた上で受講を続けたことは特別おかしなことではないでしょう。問題は、五回目にも同じようなことが起こる可能性があったのに、十分な対応をしなかった大学側の姿勢ということになるはずです。 *5 さて、「講義内容が本当にひどいものだった」のかどうかを、会田氏の発言を見て確認してみましょう。 過激なエログロ画家・会田誠氏はこのようにもっともな説明をしています 会田氏はオーさんの記者会見の報道を受けて、ツイッターで詳しく事情を説明しています。*6 (その日の講義は)学者や研究者のやる講義からはほど遠い、実作者としての言葉だった。 落ち着いた文化教養講座をイメージしていたなら、すごいギャップがあったでしょう。 そもそも西洋から来た「ヌード」という美術のジャンルが、歴史的に「妙なもの」であるという点を軸に話したつもりでした。研究者でないので結論なくグダグダ話しただけと思いますが。全体的には「人類にとって芸術とは何か」という僕の人生を賭けたシリアスな問いの一環だったはずです。 「モデルをズリネタに」云々という文字がありましたが、おそらくこういう文脈で出てきたものです。美大油絵科の学生としてみんなとヌードモデルを描いていた時に、はたと気づいた。裸の女性が真ん中にいて、たくさんの男たちが(当時美大は男子学生が多かった)それを凝視している。 そして言外に欲情は禁じられてる。これってなんなんだ? 何ゆえなんだ? 歴史的経緯は? 美術・芸術の領域(具体的には芸大上野キャンパス)から一歩出た世間は、まったく違う風か吹いているじゃないか? どっちが嘘をついているんだ? どっちが病的なんだ? そういう問いです。 だからこそ、このあたりの僕の主張は強めになってしまう。近代美術を愛している人々の心の平和を根底から揺すぶってしまう。今回の件と関係あるかどうかはわからないけれど。 会田氏の説明は、自作と講義内容が決してセクハラを意図したものではなく、「今日的な意味で十分に芸術的であること」を明快に説明しています。 また、オーさんが会田氏の講義によって精神的苦痛を受けたことについては、ご自分が訴えの対象になっていないこともあるのでしょう、まったく触れていません。 会田氏の画風は極めて特殊なものですから、これに接することで精神的苦痛を感じる方は当然いるだろうと思います。 とすれば、そうした点について事前に大学側が十分に配慮をしていたか、また、オーさんからの抗議があった時点できちんとそれに答えたかどうかが問題になってきます。 なお、オーさんは会田氏が「酒に酔ったような状態で現れた」*7と言っているのですが、これについては会田氏は次のようにはっきりと否定しています。 僕の(研究者でも学者でもないのでこれしかできない)フリートーク的スタイルと、肝臓の弱りからくる赤面(30年にわたる飲酒が原因で、僕の知り合いならみんな知ってること)ですが、この時はけして【まだ】飲んでません。彼女の単純な誤解です。 https://twitter.com/makotoaida/status/1100732706759962625 古っぽくて営利主義的な大学運営こそが問題なんじゃない? すでに書いたように、五回中三回目の会田氏の講義の後、オーさんは「すぐに、大学のハラスメント窓口に苦情を申し立てた*8」*9にも関わらず、大学側はこれに十分な対応をすることができなかったと思われます。 その結果、五回目の写真家・鷹野隆大氏の講義で同様の「事件」が再発してしまったわけです。 大学側の問題対応は、この後の話し合いでピークに達します。 「大学側は同年7月、環境型セクハラについて、対策が不十分だったと認める内容の調査報告書をまとめた」*10にも関わらず、次のような示談条件をオーさんに伝えたというのです。 学校側は事実を認める一方で、示談の条件として校舎の立ち入りや学校関係者との接触を禁じるなどの対応をし、「外部に出したら名誉毀損として法的措置を検討する」などとオーさん(本記事筆者により仮名化)側に伝えたという。

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先日書いた記事 にfuyu (id:yagawafuyu)さんが「としべえはインドに滞在中で、四ヶ国語が操れて、文章を生業にしている」という由のコメントをつけてくださいました。 ですが、これは実際のぼくとはちょっと違っているので、今日はそれをネタに自己紹介の記事を書きます。 確かにインドにいます。 四ヶ国語は操れないかな。 文章を生業にしてるの? 確かにインドにいます。 インドに滞在中なのは間違いありません。パスポートをばらばらとめくってみると、2016年9月 - 2017年2月(約6ヶ月)、2017年5月 - 2017年10月(約6ヶ月)、 2017年11月 - 2018年3月(約4ヶ月) と二年のうち16ヶ月近く滞在した上で、昨年10月から来月(3月)までの5ヶ月の滞在をしているところです。 インドはビザを取れば最長6ヶ月いられる上、日本でなくネパールなど近隣の国でもビザが取得できるので、所用で2015年の春から半年マレーシアに滞在したのを皮切りに、たまにしか日本には帰らないままでの海外暮らしが、そろそろ丸4年を経過しようとしています。 さらに言えば、その前も2011年9月から2013年8月までも丸二年日本を離れてましたし、遡れば2004年の夏から一年間もアジアをあちこちふらふらしていたという塩梅で、定住と言えるような海外経験はほとんどないのですが、長期滞在・沈没型のバックパッカー風ヒッピーもどきな人生を、奥さんと二人で送っているというわけなのです。 四ヶ国語は操れないかな。 冬さんが四ヶ国語と数えてくれたのは、日本語、英語、タイ語、ヒンズー語の四つのことかなと思うのですが、北インドの共通語であるヒンズー語はまだまだ片言程度で、喋れるとまでは言えません。でも、百までの数字が不規則に変化して、覚えるのがとっても難しい数字だけは練習して言えるようにしたので、買い物はヒンズー語でできるのが自慢です。 大体ぼくは、喋るのがそもそも苦手なんです。だからタイ語も、辞書を引けば文の意味は分かるくらいに文字も文法も覚えたのですが、喋る方はてんでダメ。ただし耳から聴いて口で話して練習しましたから、声調は結構まともにできるのでタイの人もほめてくれます。 タイ語は中国語と同じで声調言語なので、イントネーションが違うと意味が違って全然つうじないんですよ。 最後に英語ですが、最近ようやく「話すの苦手」の意識が取れてきて、先日知り合った英国紳士ジョンさんとは、割と楽しく英語で話すことができました。「きみの英語はイギリスっぽいけど、イギリスは行ったことあるの?」と聞かれたので、 「いや、ないけど、ブリティッシュ・ロックが好きでね」と言うと、 「なるほど、ぼくはローリング・ストーンズが好きでね」という感じに話が弾みました。 いやあ、英語ってホントに楽しいもんですね。 文章を生業にしてるの? 残念ながら現状では生業にしているとは到底言えません。 このはてなのページとhttp://note.mu/tosibuu を使って、なんとかサラリーマンの小遣い稼ぎのレベルまで持っていけないかと挑戦中ですが、現状は月数千円がせいぜいで、小学生のお小遣いにもならないくらいの悲しい状況です。 でも、note.muは途切れ途切れの投稿ながら四年になるし、はてなでのアドセンスも二年ちょっと続けていて、少しずつ形にはなってきているので、もう少しがんばっちゃおうかなー、と思っているところです。 あと、フロリンダ・ドナーというアメリカで文化人類学をやってた女性のアマゾン生活体験記「シャボノ」という本を翻訳していて、これをどこか出版社が拾ってくれないかなと、こちらにも望みをつないでいます(もうじき完成の予定)。 下記のページから前半部の未完成原稿が読めますので、気が向いたら読んでやってください。感想などいただけると望外の喜びです。 魂の次元: 本の紹介: フロリンダ・ドナー「シャボノ」、アマゾンの奥地のヤノマミ族の暮らし というわけで、簡単な自己紹介のような、近況紹介のようなお話でした。 それではみなさん、ナマステジーっ♬

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今日はちょっと重い内容の本を紹介します。 矢川冬さんは小学生のときに実の父親から性的虐待を受けました。50年も昔の話です。 助けを求めた母親にも拒絶され、冬さんは一人でその絶望的な状況を乗り越えるしかありませんでした。 こちらが彼女の30年にも及ぶ孤独な闘いの記(しる)された本です。 矢川 冬「もう、沈黙はしない・・性虐待トラウマを超えて」(2018 NextPublishing Authors Press) 性暴力の問題は、重たすぎて、ぼくの力量では書ききれないのですが。 実父からの性的虐待という恐ろしい烙印 女が一人で生き抜くために。ボーボワールとフェミニズム 冬さんの底力 アマゾンで、初期費用無料で自分の本を出版して売れる時代なのね。 矢川冬さんのことはわっと (id:watto)さんに教わった。 性暴力の問題は、重たすぎて、ぼくの力量では書ききれないのですが。 はじめにお断りしておきますが、ぼくはまだ冬さんの著書を読んでおりません。現在インドにいるため、著書を取り寄せて読むことが難しいのです。 けれども、アマゾンで読者のレビューを12編全部読んで、この本はぜひ多くの人に読んでもらいたいと思いましたので、見切り発車的ではありますが、冬さんの経験について、今書けるだけのことをこの記事で書いて、わずかばかりでも冬さんを応援したいのです。 また、ぼくの性別は男であり、LGBTというわけでもありませんから、女性に対する性暴力について、当事者的な立場で実際の体験にもとづいた発言をすることはできません。 ですからここに書くことは、ぼくなりの思考実験による一つの解釈の記述ということになります。 ただし、ぼく自身、社会における少数者としての「苦しみ」を自分なりに知っていますので、決して傍観者的な発言をするものではありません。 性暴力という極めて過酷な体験について、実感としては理解できないことを承知の上で、自分の経験してきた「社会からはみ出したもの」としての苦しみにもとづいて、自分にできる範囲で「冬さんの人生」を表現してみようと思うのです。 実父からの性的虐待という恐ろしい烙印 冬さんは9歳のときに性暴力事件を経験し、それについて何も言えなかったことを知った父親から、10歳から12歳のときまで性的虐待を受け続けることになりました。 アマゾンの著者紹介にはこうあります。 性虐待が10歳で始まると同時に成長はとまり、感情消失、言語の障がい、うつが出現する。性虐待を受けていた頃の体形そのものがPTSDを誘発する。24時間365日なぜ辛いのか。 http://www.amazon.co.jp/gp/product/4802094310?ie=UTF8&tag=ksatmblr-22&linkCode=as2&camp=247&creative=1211&creativeASIN=4802094310 彼女はまさに「生き地獄」を生き抜いてきたのです。 「被害者のトラウマから発生する乖離症状が次の性被害を呼び込む」という構図の中で、冬さんはのちにさらなる性暴力を受けることになります。そのとき、実父から受けた性的虐待という「烙印」があるために、冬さんは「こんな被害を受けるのは自分が悪いのだ」という思い込みに苦しめられます。 ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ☆申し訳ありませんが、<スポンサーのリンク>です。 ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ 女が一人で生き抜くために。ボーボワールとフェミニズム 冬さんは10歳のときに「子どもは入らない、結婚もしない」と決心し、家族から離れることを第一の目標にします。 性虐待のトラウマから「自分は何もできない無能な人間だ」と信じ込んだ冬さんは、唯一の逃げ道を勉強に見いだし、地域で一番の公立高校に入り、有名私大に合格して実家を逃げ出します。 けれども、家族から離れても彼女の「生きにくさ」は減るどころか増すばかりでした。 虐待の後遺症であるPTSDは遅れてやってくるのです。しかも当時は誰にもなんの知識もなく、一人の専門家すらいませんでした。 パニックや鬱の症状がどうして起こるのかも分からず、自分の性質のせいだとしか考えられず、孤軍奮闘せざるを得なかった彼女の救いになったのは、女一人で生き抜くために、教育と経済力をつける過程で出会ったフェミニズムでした。 なかでもボーボワールから強く影響を受け、ご著書の中でもボーボワールの「娘時代」を含め、自分の経験にもとづいて、女性の自立に役立つさまざまな書籍を紹介してらっしゃいます。 冬さんが本当に一人で切り抜けなければならなかった五十年前と比べれば、性暴力の被害者にとって今の状況は多少なりとましなものになっているはずですが、実のところ社会的な偏見は根強く残り、医療・福祉関係者の無理解もまだまだあり、男性による女性の抑圧自体が、未だに十分認識されているとは言えません。 本書のような書籍が多くの人に読まれることで、少しでもよい方向に社会が変わっていくことを切に願うものです。 冬さんの底力 冬さんは、実父からの性虐待を受けるまでは、きっと聡明な子どもだったに違いありません。お母さまからも事件以前は必要十分な愛情を受けていたのではないでしょうか。

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としべえ2.0β

北インド・ハリドワル辺りに出没中。

物好きな物書き

宇宙のど真ん中