Ψインドの古くからの考え方で、人というものは真の自分を知らずにいる、 それを知れば即、悟りである、というような考えがある。 Ψその真の自分をアートマンという。 Ψ日本語に訳すときは真我とする。 Ψインドで真我に当たる言葉にはプルシアという言葉もあり、時代やら 何やらで変わってくるようだが、だいたい同じ概念をさすようだ。 Ψカスタネダの書く世界で言えば、ナワールに相当するものと言えば 当たらずとも遠からず、だろう。 Ψ人が生れ落ちて以来、日々身につけてきた、言葉でできた装い、 それを剥がしたところに、もともとの自分がいる。 Ψ言葉では表しようのない、言葉で表そうとすると逃げていってしまう 奇妙な存在。 Ψ「ミルトン・エリクソン―その生涯と治療技法」を読んで、エリクソンが 自分の精神療法を理論化しなかったことを知ったのだが、 彼はこうした言葉の硬直性をきらったのだろうな、と思った。

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Ψまとまったものを書くよりは、日々の感覚を並べていくことを先にしてみようと 思うに至った。 Ψ一人の人間が一体どれほどまとりを持っているかと言えば、たいてい大したまとまりなど ない。内部矛盾の集積、つぎはぎ細工の進行形、つまりはそんなもんだ。 Ψだから、まとまりのことは気にするのはやめた。切れ切れの断片でいいから、 切れ切れなるままに書き記すことにする。 Ψ年末に飲み過ぎて以来、胃腸の調子が悪い。悪いのは承知の上で酒を飲み続け、 タバコを吸い続けているので、一向によくならない。 Ψというか今日はさらに悪い。で、タバコは吸わないでいる。 Ψ酒を飲まずにいられるか、それが問題だ。 Ψ人はなぜ生きていけるのか、時に不思議に思う。死ぬのが怖いから、と思うときも あるし、そういう場合もあるのは確かだが、多くの場合は、もう少し積極的な 理由があるのだろう。なんだか毎日がつまらないにしても、気休め程度でしか ないにしても楽しみ、喜び、笑いといった気持ちの良さがある。 Ψそれは分った上で自分の体をいじめる。もっと体を大切にして、毎日を気持ち よく送ったっていいのにと、われながら思うのだが、どうも今はそういうところ まで辿りついていないようだ。 Ψあなたはどうですか。毎日たのしいですか。 Ψ体いじめを続けながらも、なんとか楽しみを見つけながらぼくは生きてます。

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ナワールの領分

カルロス・カスタネダの書く中米の呪術的世界観では、 人間の認識の領域をトナールとナワールに分けて考える。 トナールは言葉で切り分けられた世界、 ナワールは言葉で切り分けられない世界である。 この世に生れ落ちた瞬間から、わたしたちは外界との接触、 特に周りの人間から言葉をかけられることを通して、 言葉で世界を切り分ける能力を発達させていき、 逆に言葉以前の世界を見る力を失っていく。 ふつう現実と呼ばれるものは呪術師にとっては記述でしかない、 という台詞が出てくるのだが、こういう思考法を続けていると 徐々にそういう見方ができるようになってくるもので、まあ、 こうして書いたものは所詮ことばにすぎないのだけれど、書くことで ある程度、方向付けができる部分もあるので、とにかくこうして ぼくはだらだらと書いてみるのだ。 さあ、これを書き終わったら頭を空っぽにしてみよう。 そうして、少しでもナワールの領分に近づいてみよう。 [追記]カスタネダを読んだことのない方には、まずは 「呪師に成る ― イクストランへの旅」をお薦め します。 ドン・フアンものの三作目ですが、十分独立した作品として読めます。

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岡本太郎「今日の芸術」光文社1999 ぼくにとって岡本太郎は大阪万博の太陽の塔であり、あるいは 「グラスの底に顔があったっていいじゃないか」である。 彼の作品がどう評価されているのか知らないし、それほど好みというわけでもない。 けれど、彼の「芸術はバクハツだ!」という言葉の力強さには惹かれる。 「今日の芸術」が世に出たのは1954年、遠い昔の話。 1999年に再刊され、横尾忠則が序文を、赤瀬川原平が解説を書いている。 時代の流れが感じられて面白い。 この本を、1911年生まれで1929年にパリに渡った岡本の、1954年における 文明論として読むと、工業化された今の社会の中でぼくらが楽しく生きていくには どんなやり方があるのか、そんなことを改めて考えたくなってくる。 芸術の<新しさ>に対する思い入れで書かれているから、新しければいいの? とか、 芸術じゃなくてスポーツでも疎外された自分を取り戻せるよね、とか思ってしまう 部分もあるのだけど、つい冷めた見方ばかりしてしまうぼくとしては、伝わってくる 熱い思い、特に第一章の「なぜ、芸術があるのか」には、なかなか心地よい波動を 感じたのであります。 なお、tade氏のページにこの本からの引用あります。

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テッド・チャン「あなたの人生の物語」早川書房2003 テッド・チャンの名前はしばらく前から気になっていたのだけれど 元sfファンの身でしかなく、最近はロクに小説も読まないものだから、 わざわざ読もうとはせず放っておいた。 それが夏に横浜でワールドコンがあった関係で旧友のst氏と会う機会が あったものだから、テッド・チャンはどうかと聞いてみたところ 「あれはおもしろいよ」と。 というような経緯でようやく読んだわけだが、なかなかおもしろい。 この本に収められた八篇のうち、特におもしろいと思ったのは二つ。 一つは表題作の「あなたの人生の物語」。 異星人との接触を扱ったものだが、世界、特に時間の認識の描き方が 秀逸で、ある意味、ガルシア=マルケスの「百年の孤独」を思い出させる。 もう一つは「顔の美醜について--ドキュメンタリー」。 こちらは近未来において美的な認識を技術的にコントロールできるように なったときの社会的な様相を書いたもので、ハインラインの「光あれ」を 思い出した。 各編の出来不出来は感じるし、人それぞれ好みもあるだろうけれど、 全体的に哲学的・科学的な思考実験の楽しさを思い出させてくれて、 楽しく読むことの出来た一冊である。 なお、こちらにワールドコンのときのインタビューの映像あり。

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過去と未来

人はなぜ未来を知りたいと思うのか。 過去は確固としたもの、未来は漠然としたものと勘違い していることに理由の一つがある。 過去は過ぎ去って今はもうないのだから、記憶やら何やらの 痕跡としてしか確認できない。 未来と同じくらい過去は不確かなものだ。 もちろん人は過去についても知りたいと思う。 未来とは別の形で過去が不確かであることは、誰もが ある程度は知っていることだから。 ぼくたちは過去を作り出すし未来を思い出す。 それがぼくたちの意識の機能であり、それは結局 今を十分に生きるために必要なことなのだ。 過去や未来に過度にとらわれず、気持ちよく今を 生きてみよう。

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苛立ちや怒りの感情を自分がどんなときに感じるかを考えてみたところ、 おおむね二つのパタンがあるなと思った。 ひとつは自分より愚かに思える他者が自分の気に入らない事をしたとき。 なんだこのバカヤローと思う。 もうひとつは自分よりいい境遇にあると思える人間が自慢そうに しているとき。 いい気になりやがってと思う。 どちらもこっちの勝手な判断に基づく身勝手な怒りである。 相手がなぜそうしているかにもう少し思いをめぐらせて、こうした 愚かな苛立ちや怒りを減らしたいものである。 できれば、すべてを笑い飛ばして。 以上、「グラッサー博士の選択理論―幸せな人間関係を築くために」を ネタにした勉強会をやったあと考えたこと。

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意識のこと

processkamakiri氏の「自己意識の不変神話」とそのコメントを読んで、 意識について考えたことを書いてみる。 ぼくは、長い間じぶんというものは連続して存在していると、 無反省に思って生きていた。 しかし、少し仔細に実情を見てみれば、人は一瞬一瞬変化を 続けているわけだし、それどころか、過去の記憶に基づいて 今を認識し、未来を推察している以上、直(じか)の認識としては<今>以外ありえないのだから、連続もへったくれもなくなってしまう。 そこをつきつめると社会的な暮らしが成り立たなくなって しまいがちなので、我々はいろいろな詰め物をして、 なんとか日々を生きることになる。 とりあえず、今日と似た昨日の自分を想定し、その自分が明日も 続くと想定し... 世界についても同様。 と、そのように自分というものを想定したとき、意識という作業を 行なっている、移ろいやすい自分より深いところに、無意識と呼ばれるような、 普段自分では意識していないシステムがあることに気づくことになる。 そこのところをウパニシャドではアートマンと呼んだのかなと思うし、 仏教ではそれはもはや「我」ではないとして無我を言ったのかなと思う。 お釈迦さんが、無我を言い、輪廻について語らず、日々の暮らしについてのみ 指針を指し示したことは当時としては画期的なことであったのだろうけど、 どういうわけかぼくの実感としては、真我としてのアートマン、それと 一体としての宇宙原理ブラーフマン、というほうが分りやすく気持ちよい。 お釈迦さんのいう涅槃は、僕には寂しすぎるということかもしれない。

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不安の感覚

このページは、文章の練習がてら、そのときどきに思ったことなどを 適当に書いているのだが、もっともらしく、まとまったものを書こうと 思うあまり、つい滞りがちになってしまったりしている。 今日もここに何を書こうかと考えて、ああ、めんどくさいなあ、 やめちゃってもいいんだよな、などと思う自分がいたのだが、 なぜそうなるのか、という気持ちの動きの部分を少し書いてみる ことにする。 これが文章の練習であるのなら、とにかく少しずつでも書いていった ほうがいいわけだが、あれこれ言い分けして書かないですませる 自分がいるわけで、それはたぶんある種の不安感から生まれてくる 感覚なのかなと思っている。 文章を書く、書いたものを誰か読んでいるのか、読んでいても くだらないと思っているのではないか、いや、誰かは面白がって いるかもしれないが、だからといって、それが何になるのか。 書くことが、ただの時間つぶしにしかならないのなら、 酒でも飲んでだらだら本を読んでいるほうが楽でいいじゃないか。 それはまったくそのとおりなのだ。まったくそのとおりなのだけど、 それでも書きたいと思う自分もいる。ところがそれは、おおむね 誰かに褒められたいとか、あわよくばそれで金が稼ぎたいとか、 そういうつまらない欲求から来ているにすぎなくて、自分の心の 奥底に書きたいという情熱のかけらも感じられない。 そのとき、書いても認められないのではないかという不安や、 情熱の不在という自分のあり方に対する不安のようなものが 邪魔をして、ぼくは書くという、ときに喜びにつながる作業を、 簡単にあきらめてしまう。 認められなくても書きつづけるひともいるし、情熱という言葉とは 違う動機で書きつづけるひともいる。 不安とともに書きつづけるひとも、たぶん大勢いるのだろう。 簡単にあきらめ、あきらめてはまた思い直し、なんとか今まで 書いてきた。そしてたぶんこれからも書きつづけることになる。 不安とともに少しの興奮を感じる -- だいたいそんなふうな 今日のわたしです。

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言葉の力

言葉の力について考えてみた。 話す言葉で考えると、言葉は音であり、エネルギーを持っている。 そして、ある人の口によって発せられた音は、別の人の耳に働きかけ、 その人の神経系の状態に影響を与える。 というわけで、ある人の発した言葉は、別の人に物理的に働きかける。 それが言葉の基本的な力だ。 ところで、言葉には意味というものが伴うと考えられていて、 ある人が言葉を聞くと、その人の頭の中にはその言葉の意味が 浮かぶ、というふうに考えられている。 さて、言葉と意味の結びつきは人それぞれなので、ある人が なにげなく発した言葉が、別の人に強烈な怒りを引き起こすことも あるし、あるいは、ある力のある人が発したさりげない言葉が、 相手に強烈な呪縛を与える、といったようなことも日々起こっている。 このようなことを考えれば、言葉が持つこうした力を言霊(ことだま)と 呼び神秘的な力を持つと考えることは間違ったこととはいえない、 という以上に、理解のしやすさからいって十分役に立つものと思える。 というような文脈において、すべての言葉は呪文であり、呪いであり、 寿ぎ(ことほぎ)である。 人の呪文に縛られず、人を呪文で縛ることなく、この世界の流れの中、 自由に泳いでいければ理想である。

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としべえ2.0β

北インド・ハリドワル辺りに出没中。

物好きな物書き

宇宙のど真ん中