肩と腰の緊張

よほど心と体に注意を払っている人でもなければ、誰もが余計な緊張が体のどこかに 表れているはずと思うが、ぼくの場合は右肩と腰にそういった緊張を特に感じる。 何かをやるときに失敗してはいけないというような思い込みが、この緊張のもとになって いるようで、右手は使う機会が多いから四六時中といってもいいくらい、右肩は余分な 緊張を背負っていて可哀想なくらい。気がつくと力を抜くようにはしているのだが、 スッと楽になる、という風にはなかなかうまくいかない。ゆっくり時間をかけて 変えていきたいと思っている。 腰の方は、最近気づいたのだが、台所に立って包丁仕事をするとやたらと力が入る。 習慣になっているというか、条件反射的に力が入ってしまうので、これも簡単に なくすわけにはいかなさそうだが、このところ包丁を使い始めると割とすぐに 腰の緊張に気づいて力を抜けるようになってきたので、こちらの方が早く 変えられるかもしれない。 今、この文の下書きを、卓袱台に向かいあぐらを組んでノートに書きながら、右肩と 腰の緊張に意識を向けてみている。かなり気をつけていないとすぐに余計な力が 入ってしまう。呼吸に注意してゆっくり長くするのがよいようだ。 そんなこんなで、ぼくの体遊びの日々は続いてゆくのです。 [関連記事: ヨガもどき、気功もどき]

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カスタネダの "tales of power" (邦訳「未知の次元」)に having to believe という話が出てくる。 それをここでは「信じることにすること」とする。 たとえば、あなたが作家になりたいとする。 だけれど、作家になれるかは分らない。 そのとき、自分が作家になれると「信じることにする」。 ただ、楽観的に信じるのではない。 なれなかったときのことも頭の片隅においておく。 そして、なるために最善を尽くす。 そんなふうな話。 そんなやり方が有効であると、ぼくは信じることにする。

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明晰夢

明晰夢、英語でいうとlucid dreaming 、夢の中で夢であることに気づいている、 そういう状態のこと。 カスタネダの本で、そういうことができると知って、その晩ためしにやってみたら、 一時間半おきくらいに起きながら、ってことは rem 睡眠のたびだったんだろう、 何回目かで、夢の中で自分の右手を上げて意識的に見ることができた。 (カスタネダの本では、手を上げて見ろって指示があるんです) それ以来、時に明晰夢を見る。 たいていは、空を飛んだり、女の子といいことをしたりと、気持ちはいいけど 埒もないことをしてしまう。 カスタネダ的な流れからすれば、もう少しためになることができるはずなんだけどね。 それはともあれ、夢の中で、夢が覚めないように意識を保つのは、少なくとも ぼくにとって結構むずかしいことで、うっかりすると意識が覚めかけて、 すると、そのまま普通に眠ってしまったり、あるいは金縛り的状態に入ったり、 はたまたうまくいくと、またもとの明晰夢の状態に戻れたりと、いろいろな 場合がある。 座禅や瞑想、呼吸法とも関係があるところですが、夢見も意識の絞りをうまく 調節できるかが問われる、そんなふうに思っとります、はい。

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声が聞こえる

夜半、目が覚めてトイレに行き、再び床につく。 しばらく眠れず考えごとなどしているうちに、やがて夢の領域に 入っていくのだが、意識はあるのに半分寝ているような、 ある種、金縛り的な状態になることがある。 こんな状態の時に、人の声が聞こえることがある。 非常にはっきりとした声で、まさに耳に聞こえてくる感じなのだが、 誰とも知らない人の声で、こちらとは関係ないような何かを 話している。 空耳の類とは思うのだが、異常なまでにはっきりとしているので、 かなり恐い気持ちにもなる。 こういう経験は誰にでもありうるものだと思うが、すこし気のふれた 感じの体験でもあり、わざわざ人に話した覚えはあまりない。 気が狂う、ということを恐れている感じもありありとある。 戻ってこれなかったらどうしよう、というような... (恐がるのをやめちゃえば大丈夫なはずなんだけどね) 悪口が聞こえてこないのは幸いだが、どうせなら何か役に立つことでも 教えてくれないものか。 知らない人が知らないことを話していることに、人間の認識力・創造力の 底知れなさを感じると同時に不気味さも感じる。 みなさんは似たような経験ありますか? 明晰夢とも関連する話題だけど、そっちのほうはまたいずれ。

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ぼくは造物主としての万能の神というものは信じない。 そうした神を信じている人のことを否定するつもりはないし、この宇宙を つらぬく非人格的な法則を神と呼んでいいのなら、ぼくは神を信じる。 なぜそうなるか、というと、人間に理解出来るような、人格としての 万能の神がいると考える、どうもヘンなことになる気がするのだ。 つまり、絶対的な善をなす、万能の神がこの世を創ったのだとすると、 神の言葉を信じない人々も、悪逆非道の限りをつくす人々も、神の造った、 神の御心にかなう存在ということになる。そうとしかぼくには思えないし、 だとすれば、そのとき、その神という存在は悪魔とどう違うのだろうか。 万能のその存在がこの世に悪を放置しているのだとすれば、その存在の 名前は神より悪魔の方がふさわしいようにぼくは思ってしまう。 となれば、悪魔が支配するこの世は地獄であり、地獄であるにも かかわらず、こんなに美しく、こんなに喜びがこの世には溢れているのだから、 とりあえず生きつづけるのも悪くない。 そんなふうに考えてしまうぼくは、ちょっとひねくれているのだろうか。 processkamakiri氏の記事とコメントを読んで上のようなことを考えた。

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藤田西湖「最後の忍者 どろんろん」新風舎2004 1900年生まれ、甲賀流忍術14世を名乗る藤田西湖の回想録はまったく 波瀾万丈である。 甲賀流13世の祖父から忍術を習い、三峯山で山伏の修行をする、 透視能力を身につけ、生き神様に祭り上げられ、十五年戦争では 満州事変の調査をし、果ては蒋介石の暗殺を命じられる... どこからどこまでが事実かはさておいて、カスタネダやトム・ブラウンと 肩を並べる、滅法おもしろく示唆に富む物語として読んだ。

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ジェフリー・K・ザイグ、W・マイケル・ムニオン「ミルトン・エリクソン―その生涯と治療技法」 理論にもとづいたいかなる心理療法も誤っていると思います。 なぜなら、人はみなそれぞれ違うのですから。(ミルトン・エリクソン) 前項でもちらりと触れた精神療法家ミルトン・エリクソンに関する本である。 上にも引用した通り、根源的(ラディカル)な物言いをする人だ。 ぼくの理解ではエリクソンは、カスタネダとレインの間にぴたりとはまる。 催眠の研究で名を成し、治療技法を理論化せず、一人一人にあつらえた形で 実践し、その方法論を伝えることで、この世界に積極的な生き方を残して いった人だと感じる。 カスタネダは呪術指向なので、ややもすればうさんくさく見られる。 レインは社会に対する見方が絶望的過ぎるきらいがある。 この二人をつなぐ、科学的でありながら、人間の社会性を見据えた、 しかも生きることに積極的なエリクソンが面白い輝きで見えてくる。 エリクソンは、17歳のときポリオを患い、聴力と視力以外のほとんどすべてを 失うことになる。そこから立ち直った彼は、人間の生命力とは何かを痛いほど 実感したことだろう。そして、その力強い生命力を伝えていくことに人生の 一つの意義を見出したにちがいない。 彼から学ぶべきことは多いと感じるが、はてさて私のようなチャランポランな 人間にどれほどのことができるのやら?

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としべえ2.0β

北インド・ハリドワル辺りに出没中。

物好きな物書き

宇宙のど真ん中