いや、なに、今日はまた かなり だめっ てな感じです。 朝おきたときはわりとよかったんでありますが、マクドに来てネット遊びをしはじめたら、 これが一気にだめになりましてね。 昨日あらためて ふと気づいたのは、やっぱりこの世界の見え方は、強烈に自分の心のあり方に 影響されるな、ということで、ぼくのような根がなげやりな人間には、どうしてもこの世って やつは薄ら哀しい場所に思えてしまうわけで、さて、そこんとこをどうやってかして そこは一発背負い投げでもかまして やっつけてやりたいもんですが、根性なしですから無理ですな、 とにかく今のところは。 だめでもともとで当たって砕けろも、悪くはないなと思っても、こちとら もともとだめな 人間なんで、当たる前から砕けて散って体から力が入らずにのびちまってるような次第、 こいつばかりは まだまだ当分どうにもなりそうにありませんわ。 そんなこんなで今日のところは、ほな さいなら!

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ネット的やりとり

岩崎夏海さん、こんなとこから、こんにちわ。 ぼくがこんなこと書いても別にどうってこともないのはそのとおりなんですけど、 ネットはやっぱり西部的開拓者的無法地帯だとおもったほうがいいんじゃないかなって気がして。 もちろんその中で傷つく人はいるし、ひょっとしたらそれは命に関わるかもしれないし、 だけどもその中で、みんな表現してるんじゃないかなって。 いや、こんなこと、余計なお世話です、それもわかってます、どうでもいいんです、 生きてること自体が、無意味で、しかも矛盾の中から別の何かが立ち上がってくるんです。 ま、だから、いいですよね。 きょうも こうして生きてます。 てなことで、また、ね。

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人生の無意味

いや、だから、生きるということに特別な意味なんてないわけでね。 それは別に、「わたしの生きる意味はこれです」って人の、その意味を 無にしようってわけではなくてさ、客観的かつ一般的な、誰もが納得するような 意味なんて人生にはないっていう、そういう当たり前の話なんだけどさ。 そいで、そういう見方からして人生には意味がないってこと、 「大人」がこれのために生きろ、なんていうのは、ほとんど役に立たないんだってことに 気づいたときから、自分なりの意味を意識的に立ち上げていくことになるんだから、 まあ、いいじゃないの、こんな文章、それこそ大した意味なんかないけど、 ぼくにとっての確認の作業なんだよ、みんなもそれぞれに確認してるはずだよ、 だからさ、ぼくはこうやって「大人」にならないままに この限られた人生という 時間を自分なりに切り取っていくだけだよ。 で、それだって結局みんなも おんなじことだよね? [写真はタイのドライブイン、夜の看板]

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頭の先走り

書くことを暮らしの中心に置きたい、などと頭では考えているのですが、 全然きもちがついてきてない。 ...ので、ここにちょっと短い文章を書くことすら、なかなか続きません。 でもまぁ、それはそれでいいんであります。 やりたいようにやって、なるようになる、結局人生はそういうことなんだと、 そんな、いい意味での開き直りが、わりと素直にできるようになってきたようだなと、 感じるんです。 頭の先走りを、もう少しなんとかしたいなと思いつつ、しばらくは このまま勝手に走らせておこうかと、そんなこんなの今日この頃です。 [雲が多いけど少し夏らしくなったさわやかな風の朝に]

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おもちゃ

psp に赤外線キーボードをつないで、macdonald でネット遊びをしている。 見た目はもっともらしいのだが、sony 製の on screen keyboard 経由で入力することになるので、十分快適とは言い難いし、ブラウザがまた何とも使いづらい。 しかし、この使いづらさを長所と考えることもできる。 使いやすいとついどんどん使ってしまう。見なくてもいいようなページまでばんばん見てしまう。 このシステムなら、その点、安心だ。なんともまったりとした使いづらさが、使いすぎを未然に防いでくれるのである。

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なるほど、ヴィシュダ・チャクラは喉か。 じゃ、この 喉にきてる夏風邪が過ぎたらヴィシュダ・チャクラが少し浄化されると、 そういうことにしておきましょう。 んでもって、もう少し気持ちよく表現できるようになるとありがたいですわ。

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表現と伝言

人が、たとえば weblog に何かを書くということによって、表現をするとき、 その人なりの表現の意味というものはもちろんある。 それは、単なる暇つぶしかもしれないし、知人に近況を知らせているのかもしれないし、 あるいは、孤独な独白(ひとりごと)ではあるにしても その人にとって必要不可欠な 切羽詰まった心情の吐露なのかもしれない。 そうした個人的な側面とは少し距離をおき、いくぶん抽象化したところで考えてみると、 文章にしろ写真にしろ、表現と呼ばれるものが何か特殊なものだ考える必要は必ずしもなく、 表現というものも人が生きるという形態の中でおこなっている様々なほかの活動と 特に代わりはないと考えることができるし、その表現の意味として伝言という機能を 想定することができる。 つまり、意識しているか していないかは さておき、人の活動はすべて表現であり、 その表現は伝言であると考えても構わないわけだ。 この世界で人間がやっていることは伝言ゲームなのだと考えるとすっきりすることに、 しばらく前に気がついた。 言葉を使ってする活動だけでなく、動作であれ心理的な状態であれ、人は表現し、 それを見た人は反応を返し、そのようにしてなにがしかのメッセージがやりとりされ、 そこに現れたパターンというものは、進化論的な意味合いで、生き残ったり、数を 増やしたり、死に絶えたり、という歴史を辿っていく。 まったく同じものが伝わっていくわけではない。遺伝子が変異するように、伝言が 聞き間違えられるように、なんらかの意味で生き残りやすいものが、変化しながら 伝わっていくのだ。 そんなこんなで、ぼくは今日も伝言ゲームを続ける。 そこに特別な意味があるわけではない。自分なりの心の落ち着きを求めて、 あれやこれやと試してみているだけのことだ。 近所の macdonald でバロックの音楽が流れる中、ぼくなりに言葉の流れを 調節してみているだけのことだ。

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ディーノ・ブッツァーティ「神を見た犬」関口英子訳、光文社文庫2007 みさなん、お元気でお過ごしでしょうか。 この本については前にもちょっと書いたけど、また読み直したので感想を追加します。 ブッツァーティは独特の味わいの幻想的ないし寓話的短篇を書いたイタリアの人だけど、 「呪われた背広」は星新一とも似た感触の話。 料金を請求しない奇妙な仕立て屋が作った背広。その背広を着てポケットに手を入れると 一万リラ札が一枚ずつ、いくらでも出てくる。 ところがそこで手に入れた額だけ、世間では不幸な事件が起こる... 人間の愚かさを笑うブラックユーモアが効いた作品です。 さて、とっても苦いブラックであったり、どうにも救いがなかったりといった作品が多い ブッツァーティ なのだけど、「驕らぬ心」はニヤニヤしながら読んでいたのに最後の場面では思わず泣いて しまいました。 ちょっと長めにストーリーを紹介。 都会で隠遁生活をする修道士のもとに、ある日若い司祭が告解に来て言う。 高慢の罪を犯したというのだ。 修道士が詳しく聞くと、若い司祭は「司祭さま」と呼ばれる度になんともいえない 喜びを感じてしまうのだという。 修道士はまさかこんなこととはと思いながらもその敬虔で純真な司祭に赦し(ゆるし)を 与える。 三、四年が経ち、またその司祭が修道士のもとに訪れる。今度は前よりももっとひどい 状態だと言い、「司教さま」と呼ばれる度に喜びを感じてしまうのだという。 修道士は、この男は哀れな愚者でまわりの人間からからかわれているに違いないと 思い、再び赦しを与える。 それからまた十年。同じ司祭が修道士のもとへ。修道士はまだ同じことで悩んでいるのかと 尋ねる。すると司祭はもっと情けない状態だと言う。「大司教猊下」と呼ばれる度に 喜びを感じてしまうのだと。 お人好しのこの司祭は年をとるにつれて愚直になり、まわりの皆が調子に乗って彼のことを からかっているに違いない、修道士はそう思い、三度(みたび)司祭に赦しを与える。 やがてある日、老いさらばえた修道士は、死が間近に迫ったことを知り、ぜひヴァチカンに 行って聖ピエトロ寺院や法王さまのお姿が一目見たいと思う。 そして、ヴァチカンに行った修道士が見たものは... ぼくとしては、「おもしろくて、しかもいい話」海外短篇部門第一位の栄誉をこの短篇に 与えたいと思います。 ヴォネガット、カフカ、カルヴィーノ、ボルヘス、そんな作家が好きなあなたに お薦めしておきます。 それではみなさん、また来週*1! *1:「来週」という表現に特別な意味はありません(笑)。

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更新

一週間に一度くらいは更新したいと思っている。 だが、今日は特に書くことが思いつかない。 書くことがない、と書くのは最後の手。 この weblog ではそこまではしない方針でいたのだが、 その場の気持ちに任せ宗旨替えをすることになった。 あからさまに言ってしまえば、すべての表現は所詮 暇つぶしにすぎない。 タチの悪い人の便所の落書きのごときも、才能ある人の読んで面白い言葉も、 何もかもがこどもの遊びに毛が生えたものでしかないし、 逆に言えばどんなものであれ、そこに輝きを見出すならば、 それはその人にとっての宝物になる。 ここに叩き出された言葉が誰かの宝になると思うほどには自惚れていないが、 こうやって人目に晒すからには、どなたかの暇つぶしとして役に立つこともあろう。 少なくともすでに、僕自身の暇つぶしにはなっている。 それ以上何を望むべきか。

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としべえ2.0β

北インド・ハリドワル辺りに出没中。

物好きな物書き

宇宙のど真ん中