昨日は北インドの山の州ヒマチャル・プラデシュのナハンという小さな街から、おんぼろバスに揺られて、ガンジス川の聖地ハリドワルへ移動しました。
インドの人ばかりが乗っている長距離バスでしたが、たまたま始発のマナリから乗ってきた日本の女の子が一人いて、久しぶりに日本語をたくさん話しました。
そのときのぼくは、ナハン近郊の小さなお寺で肝っ玉ばあちゃん的女行者と、どうにも濃厚な数日を過ごしたあとだったので、いつになく饒舌でした。
体の中に溜まっていた強烈なあくを、しっかりと吐き出してしまう必要があったようです。
その女の子は、インドは三回目ということで、新しい土地に行って新しい体験をすることが楽しくてしょうがない様子でしたが、日本の控えめすぎる言葉や感情のやりとりとは違う、インドの人たちの極めてあからさまなコミュニケーション・スタイルに、戸惑うと同時に大きな魅力を感じていることを話してくれました。
インドの人たちは本当に素直に感情を表現していて、喧嘩をするかと思うと仲直りをして、実にハッピーな時間を過ごしているのがうらやましいというわけです。
それでぼくは思ったのですが、結局のところ人生というものは、いかにハッピーにすごせるか、ということにすべてがかかっているのだし、あらゆる人は、人生を幸せなものにするために、最大限に自分の持つ力を使っているに違いないのです。
これを読んでくださっているみなさんの中には、毎日の生活がなかなか思うように回らず、なんでこんな人生を送らなきゃならないんだと思いながら、お金を稼ぐタメに必要な仕事を渋々とやっているような方もいらっしゃるかもしれません。
あなたがもしそんなふうに「人生をいやいやながら生きている」方であったとしても、それは生き延びるために自分にできる限りの努力をしてきた結果のはずです。
生き延びて幸せな時間をすごすために、誰もが一所懸命に努力をしているはずなのです。
そして、残念ながらその結果に今は満足できていないかもしれませんが、それがいつか幸せな瞬間につながることを信じられるからこそ、人間は生きていられるのだと思うのです。
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バスで乗り合わせた女の子にぼくが話したのは、人生というのは、どうやってハッピーな時間をできるだけ多く過ごすか、そしてそのハッピーな感覚を大きなものにできるか、にかかっている、ということでした。
そしてそれは、無理なく自然にできなければなりません。
素直な自分のままでいて、無理をしないで、自然に行動して、ありのままの気持ちを表わすことができて、それがハッピーな時間につながっていくことこそが、本当に幸せな生き方だと思います。
その女の子は、インドの人のようには生きられない自分をなんとか変えられないかと思って真剣な眼差しでした。
インドの人と比べて、自分はハッピーに生きていない、もっとハッピーに生きたいと、真剣にそう思っているのが感じられました。
それでぼくは言ったのです、あなたは十分にハッピーですよ、働くことばかりで精一杯の周りの日本の人たちを見て、どうしてこの人たちはこうなんだろうと思うから、今こうしてインドという日本とは非常に違う国に来て、まったく別の世界を見て、人生を楽しんでるんじゃないですか、あなたは10人中1人のハッピーな人ですよと。
すると、それまでの生真面目な表情が一瞬でほころんで、
「あたしハッピーですか!本当ですか!!」
というので、10人に1人か、100人に1人かはともかくとして、ハッピーなのは間違いありませんよ、とぼくは答えたのです。
インドで伸び伸びハッピーに過ごしている子どもたちを見ると、ああ、幸せってこういうことなんだな、と思います。そして、あまり幸せそうには見えない日本の子どもたちを思い出したりもします。
けれども、日本には日本の幸せと不幸があり、インドだってそれは同じことです。インドには日本にはない厳しい現実があり、例えば足のない物乞いの姿などインドではまったく当たり前の現実です。
そうした厳しい現実の前では、ぼくたちのくに日本のとてつもない物質的な豊かさと、そこで暮らすぼくたちの生活の圧倒的な「生ぬるさ」は、実に驚くべきものに感じられるのです。
でも「生ぬるい」などといういじけた言葉を使うのはやめにして、むしろ日本の暮らしの豊かさに目を開くことにしましょう。
景気は悪く、仕事はきつく、人生が灰色にしか見えないとしても、日本に生まれたというだけで、ぼくたちは「大きな幸せ」を手にしているのです。
その幸せをどう生かすかは、あなた次第です。
周りの人たちの鬱屈した思いに流されて、なんだかぱっとしない人生を送るのか、それともきちんと自分の世界を自分の中に作って、人生を楽しみながら生きるのか、それは結局あなたの気持ち次第なのです。
あなたが自分の人生をしっかりと歩み、あなたの毎日が輝きに満ちたものになることをお祈りして、この小文を終えることにします。
それではみなさん、ナマステジーっ♬
[初出: https://note.com/tosibuu/n/ne7095846c2f5 ]
みなさん、新型コロナウイルスの騒動で、不安を感じながら日々をお過ごしでしょうか。
また、トイレットペーパーが手に入らず困っている方もいらっしゃるかもしれません。
今や、政府の発表もメディアの報道も、眉に唾をつけて疑わざるをえない時代です。
そんな時代の中で、賢く生きるための一助になることを祈って、この記事では
「なぜデマや噂は広がるのか」
そして、
「それに対してどう向きあえばいいのか」
を考えてみたいと思います。
なぜトイレットペーパーなのか? あなたの落ち着きがデマを防ぐ最大の武器です ** デマはなぜ広まる? 不安の心理と人間行動
今回の「コロナ騒動」では、マスクとトイレットペーパーが店頭から消えるということが起きました。
マスクはウイルスを防ぐためにはあまり役立ちませんし、トイレットペーパーがなくなるというのは完全なデマです。
どちらも不安にかられた多くの人が、必要性の低いものをたくさん買うことによって、本当に必要な人が手に入れることが難しくなり、社会問題になってしまったわけです。
いつもは理性的に行動している人でも、強い不安・怒り・恐怖を感じると理性的な行動ができなくなります。
これを扁桃体ハイジャックと言います。
脳の中で感情を担当している扁桃体という部分が、その人の行動全体を支配してしまうことを、飛行機のハイジャックに例えた表現です。
※扁桃体ハイジャックについて詳しく知りたい方はこちらの本をどうぞ。
ダニエル・ゴールマン 「EQ こころの知能指数」
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ふだんから不安感の強い人は、「トイレットペーパーがなくなる」と聞いただけで、その情報の正しさを確認する前に「今のうちに買っておいたほうがいいのかな」と考え始めてしまいます。
ここで追い打ちをかけるのがテレビなどの報道です。人間は視覚的な情報を重視するし、映像に反応しやすいからです。
アメリカの心理学者メラビアンが提唱するメラビアンの法則は、非言語コミュニケーションの重要性を説くもので、その実験結果によると、
「言語情報は7%、聴覚情報が38%、視覚情報が55%」
となっており、視覚情報が最大です。*1
これは対面でのコミュニケーションを想定した実験ですので、誰かがあなたに
「トイレットペーパーがなくなるらしいよ」
と話しかけてきたときに、その人の
・「表情や動作」が一番重要で、
・「声の調子」が二番目、
・「言葉の内容」は一番あとになる、
というものです。
これを一般化して考えれば、同じ「トイレットペーパーがなくなる」という話を聞くにしても、
1. ツイッターで見る
2. ラジオで聞く
3. テレビで見る
の三通りの場合、1. < 2. < 3. でテレビで見る影響が一番大きいことになります。
ツイッターでたまたま「トイレットペーパーがなくなる」というデマを見かけて不安に思っていた人は、テレビを見てさらに不安を煽られれば、自分も買い占めに加担してしまいかねないわけです。
というわけでテレビ関係のお仕事の方にお願いです。
こうした心理学的情報を踏まえ、人の不安をあおりかねない報道はどうか控えてください。
「トイレットペーパーが売り切れ」を強調する画像を流すことは、誰のためにもなりません。「工場や倉庫にはたくさんのストックがある」ことを、映像ではっきりと伝えるようにしてください。
こうした倫理的な報道基準がきちんとなされるような社会になってほしいなと、切に願うものです。
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みなさん、こんにちわ、インドを好評漂流中のとし兵衛です。
ネットを見てると、「macbookを抱えて旅をしながらライター稼業」といったブログを時おり見かけます。
「お洒落ね」とは思うのですが、ノートPCってやっぱり重くないですか?
もちろんPCでないとできない作業もありますから、重いという理由だけでPCをやめるわけにはいかないでしょうけれど、単純に文章を入力して編集して、そしてネットにアップロードということなら、スマホで十分な時代だと思うんですよ。
ということで、この記事では先日完成したばかりの、ぼくの新しい執筆環境(アンドロイド・スマホ+USBキーボード)について紹介します。
安物の中国製USBキーボードで快適入力!! スマホは中国製 redmi a7 入力メソッドは「日本語フルキーボード For Tablet」、エディタは Jota Text Editor 安物の中国製USBキーボードで快適入力!! 上の写真、キーボードがはみ出していて分かりにくいですが、10キー付き中国製のスリムキーボードです。
ほんとは10キーなんていらないのですが、インドでは品数豊富なPC屋が見当たらず、日本円で700円ほどのこいつにしました。カーソルキーが独立してる分、使いやすくていいかな。
とはいえ、日本にいたらbluetooth キーボードを買ってます。日本の皆さんにはこちらがお勧めです。
☆MOBO 折りたたみ型 Bluetooth 日本語配列 キーボード【 ブラック 】専用ケース兼スタンド付き 「 MOBO Keyboard 」 AM-KTF83J-GB
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キーピッチ 19mm のフルサイズなのでブラインドタッチも楽々です。6,500円で快適な入力環境が手に入るんですから、安いもんですよね。
スマホは中国製 redmi a7 そして肝心のスマホですが、ぼくのはやはり中国製、redmi a7 です。
みなさんがやってみようという場合は、もちろんお手持ちのスマホを使えばいいわけですが、USBキーボードを使う場合は USB OTG の機能が必要ですのでご注意を。OTG = On The Go が使えれば、普通のUSBコネクタをマイクロUSBに変換するコネクタを用意することでUSBキーボードが使えるようになります。OTGが使えない場合は bluetooth キーボードを使ってください。
さてこの redmi a7 ですが、日本円で 8,000円くらい、スペックは次のようなもので、日本の割高アンドロイドと比べると格安でコストパフォーマンスが高く、十分さくさく使えます。
サイズ: 146.30 x 70.41 x 9.55 mm 重さ: 165.00 g バッテリ: 4,000 mAh ディスプレイ: 5.
このところ、どんな言葉が人を動かす力を持つのか考えています。
それで気がついたのは、確かに「言葉が人を動かす」ということもあるのだけれど、実際に人を動かすのは、言葉のもとになっている「人の気持ち」だということです。
当たり前と言えば、当たり前の話です。
けれども
「ネットでどんなふうに情報を発信すれば多くの人にとどけることができるんだろう?」
というような関心から表現について考えていると、これはどうしても引っかかり安い「落とし穴」だと思うのです。
表現に磨きをかけるのも大切 言葉は器でもあり、中身でもある 表現と承認欲求 囁きと叫びが、心の奥底で渦巻くとき 表現に磨きをかけるのも大切 どんなふうに言葉を使えば、たくさんの人に理解してもらえるのか。
そう考えて表現に磨きをかけていくこと自体は悪いことではありません。
けれどもそれをやり過ぎると、本末が転倒してしまい、枝葉のことばかり気にする結果になりかねません。
言葉って難しいなと思います。
言葉が難しい理由の一つは、言葉が器と中身の両方の役割を果たすためです。
何が器で何が中身なのかがすぐ分からなくなり、中身を食べるべきなのに器をかじってしまうわけです。
分かりにくい話でしょうか。
言葉は器でもあり、中身でもある ご飯と間違えて茶わんを食べる人はいません。
けれども「愛してる」と言われただけで、「この人は自分のことを本当に愛してくれているんだ」と勘違いしてしまうことはよくあることでしょう。
「愛」という言葉は器です。その器には優しさとか思いやりとか、いろいろな中身が詰まっています。
つまり「愛してる」という言葉に、実際に優しさや思いやりの気持ちからなされる行動が伴って初めて「愛されている」という器に中身が盛られたことになるわけです。
ところが、肉体というものが持つ過剰な欲求に心を奪われるとき、人は「愛」という言葉が中身と関わりなく、それだけで気持ちを落ち着かせてくれるという錯覚に落ち入り、自分をだましてまでも納得させたりもするのです。
中身のない空虚な器をかじって、なんとか心の飢えをなだめるのです。
表現と承認欲求 あなたが表現というものに取り憑かれた人間なのであれば、人に伝えることなど二の次で表現に取り組んでいらっしゃるでしょうから、ここで書いていることは、
「ああ、そんなことを考える人もいるんだな」
くらいのことでしかないでしょう。
けれども、ぼくのように中途半端で、表現を捨てることもできず、かといってそれに没頭することもできない人間にとっては、これは切実な問題です。
というのは、「書く=表現する」という内発的な行為が、承認欲求からなされるとき、「承認を得るために表現を調整する」という本末転倒が起こり、しかもその調整が必ずしも承認につながらない場合、あとに残るのは一抹の虚しさでしかないからです。
承認欲求のために書くことも、決して悪いことではないでしょう。けれどここでも本末を転倒させないことと、それにのめり込み過ぎないことが大切です。
囁きと叫びが、心の奥底で渦巻くとき 物書きを趣味とする旧友が「すべての言葉は魂の叫び」という題の文を書いていて、ホントにその通りだなと思ったことがあります。
そして、すべての言葉は呪文であり、祈りでもあります。
器ではなく中身としての言葉を発することができれば、それはきっと誰かに届いてその人に力を与えることになるでしょう。
願わくばこのつたない言葉が、あなたの心に響いて、あなた世界にほんの少しでも光をもたらしますように。
インドの片隅でバナナをかじりながら、ぼくはそんなことを想ったのです。
(初出: とし兵衛@note.com
https://note.mu/tosibuu/n/n85eff388c872 )
この記事はお題メモです。
どんな記事になるのか関心を持った方は、☆でもコメントでも何かしらの反応をお願いします。
今回のお題は、
「自分に厳しく、他人に優しく」は正しい考えなのか? です。
それではみなさん、よろしくねー!
マシュマロで相談のメッセージをいただきましたので、ぼくなりの考えを手紙形式で書きます。
相談内容は末尾に載せます。
- ご相談のメッセージを読んで、人生のしんどい時期にいらっしゃるのだなと感じました。
しかしながら、あなたにはこうやってしんどさを言葉に表し、人生の難局を打開しようという「強い想い」があるのですから、不安になりすぎず、悩みを抱えすぎずに日々を送るようにすれば、必ず状況は改善します。
そのためにはまずプライドを捨てる必要があります。
プライドを捨てるなんて無理だと思われるかもしれませんが、逆境から脱け出すためには思い切りも肝心です。
今の日本は長引く不況のため、楽に稼げる仕事はありません。
プライドを捨てて、しんどい仕事を誠実にこなす気持ちを持つことができれば、道は必ず開けます。
お世話をなさっている男性については、様々な想いが起こって、これもしんどい場面が多いことでしょう。
そのとき二人の関係をどうするかは結局あなた次第です。
覚悟を決めて、その方と過ごす時間を大切になされば、あなたの人生は必ずや輝きを増すことでしょう。
朝起きてすぐと夜眠る前に、三回ゆっくり深呼吸をして、体の力を抜き、今日を生きられる幸せを感じてみてください。
今日から始まるあなたの新しい人生が、暖かい幸せに満ちたものになることを心よりお祈り申し上げます。
☆次のリンクから マシュマロ の機能を使って、誰でも匿名でメッセージを送ることができます。極端にネガティブな言葉を含むメッセージは届きませんのでご注意ください。 https://marshmallow-qa.com/tosibee
・相談内容は以下の通りです。
ただ自分の本性で無計画に結婚しました勉強は余り努力せずただプライドは高く
郵便局勤めの旦那の給料と自分のパート代とか親が親戚の警察署長してた叔父と街の一等地にビル建てて10階タワーパーキングつけて損害保険の代理店をして
この業界弱肉強食世界で親から継いだ保険の仕事も私たちの客層を狙ってハイエナのよう人達の餌食になりそれでも頑張って死守するだけ死守して生活に余裕が無くなり30年いた酒にだらしない旦那と60歳で別れて子供は二人大学へ行かせて
も親が人生の負け組精神で綺麗な娘たちの元が頭のいい子たちを伸ばしてやれず
酒にだらしない旦那と別れて元保険代理店の男性87歳の世話をする羽目になり
脳梗塞で倒れて奥さん末期ガンで無くなり一人では生きていけないからと一緒にいますが倒れて4回の入退院をしながら
少しあった蓄えも底をつき頭が痛い毎日ですが今60で若い時の様に行きません
昨年は仕事の帰り自転車と横断歩道上で当たり仕事生活で必要な車もてばなして
罰金大金払い免許も返納
頼りたい人は介護5で全介助で大変です
今この悪い状況から抜け出したい
私には弟がいます
大手の電力会社の管理職していて生活もいい生活してますが助けてはくれません
大学も国立で大学院でてますが冷たいです
今居る介護5の男性高校時代は生徒会長したり親が日本で台所が竃の時代からガスにかわり日本で最初にガスプロパンを輸入したといってます
幼少時皆んなが藁草履履いてた時代編み上げの革靴履いていたと
俳句が趣味で県の同人という肩書きらしきものあるそうですが介護5です
今お金に困っています
なんとか現状を脱出したいです
タイのお坊さんアチャン・チャー師の悟りの説明が分かりやすかったので、自分の理解を書いておく。
仏教の目的は、苦からの解放であり、結果として心の平穏と幸せが得られると説明した上で、心が動くとき苦が生ずるとアチャン・チャーは説く。
そして苦が生じないようにするためには、心が動いた瞬間にそれに気づく必要があるというのだ。
この「鋭い気づき」を養うのが瞑想の目的である。
あなたの瞑想が深まって、気づきが最高に研ぎ澄まされたとき、心に生ずる動きは瞬時に気づきによって捉えられる。
そのとき、あなたは完璧な幸せを手にするのである。
参考:
Ajahn Chah "Unshakeable Peace"より
引用はじめ --- Please clearly understand that when the mind is still, it’s in its natural,
normal state. As soon as the mind moves, it becomes conditioned (sankhara).
When the mind is attracted to something, it becomes conditioned. When
aversion arises, it becomes conditioned. The desire
to move here and there arises from conditioning. If our awareness
doesn’t keep pace with these mental proliferations as they occur, the
動物と一緒に生活してますか?
それとも植物を育てていますか?
今日は子どもの頃の生き物とのつき合いを、思い出して書いてみます。
1970年代の東京・世田谷の、小学生時代の話です。 お祭りの縁日で金魚すくいをして、黒い金魚をうちに持って帰ったことがあります。
うちの玄関の脇に水槽がおいてあって、その中で他の何匹かの赤い金魚と一緒に黒い金魚も飼っていたのですが、ぼくは持って帰っただけでロクに世話はしませんでした。
母が餌をやってくれていたはずです。
特に気をつけて見ていたわけでもないのですが、それでもその黒い金魚は自分のものだと思っていました。
そのうち、ほかの赤い金魚は死んでしまったのに、黒金魚だけは生き延びていたこともあり、うっすらと愛着のようなものがあったのだと思います。
次の年か、二三年後か、お祭りで弟が金魚をすくってきました。
そしてその金魚を同じ水槽に入れたところ、黒い金魚も含めて全滅してしまいました。
自分で世話をしていたわけでもないのに、自分の大切なものが失われてしまったような気がして、子どもっぽい不満を感じたのをよく覚えています。
* * *
インコを飼っていたのは、たぶん弟がほしがって、それにつられてぼくも買ってもらったのでしょう。
緑っぽいインコと水色の入ったインコがいましたが、どっちがぼくのでどっちが弟のだったか思い出せません。
金魚と違ってインコは手に乗せたり手で抱えたりできるので、動物との触れ合いという意味では、一段深いものを感じます。
手の中のインコに、命のもろさを感じたことを思い出します。
インコの場合は、餌やりだけでなく、糞の始末などもそれなりにやる必要がありますが、これもぼくや弟はやらず、母任せでした。
二匹のインコがどうなったのか、はっきりと覚えていませんが、逃げてしまったのがいたような気がするし、死んでしまって庭に埋めたのもいたような気がします。
なんとなく一緒の時間を過ごしただけで、可愛がるというような思いは持てない子どもだったのです。
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* * *
鉢植えでひいらぎを育てていたことがあります。
育ったうちは小さいながら和風の庭があったので、そこに実生で生えていたものを、自分で気に入ってか、母の真似をしてか、鉢植えにしてみたのでしょう。
育てていたなどというと、きちんと気にかけて、水やりや植え替えなどやっていたみたいですが、たぶん夏休みにでもひと月ほどは水やりをして、そのあとは放ったらかしで枯らしてしまったのではないかと思います。
十センチかそこらの小さな実生のひいらぎに、濃い緑の独特の反り返りかたをしたとげのある葉が生えている様子がとても印象に残っています。
* * *
こんなわけですので、生き物の世話をすることで何かを学んだというわけではありませんし、生き物とのつき合いを通して情緒が育てられたというほどのこともないのですが、ここに書いたような小さな経験が、大人になってから自然環境に興味を持って、雑草の名前や、食べられる山野草を覚えてみたりすることにつながっていったような気がします。
みなさんの生き物とのつき合いはどんなものでしょうか。
こうして子どもの頃のことを思い出してみるというのも、たまには楽しいものですね。
てなわけで今回はこの辺で。
それではみなさんナマステジーっ♬
初期仏教の瞑想法であるヴィパッサナの練習を始めてから、そろそろ八年になります。
昨日までは西インドのプシュカルで、十日間の合宿コースにボランティアとして参加していました。
ぼくが練習しているのは、ビルマ生まれのインド人ゴエンカさんという人のやり方で、呼吸と体の感覚を丁寧に見ていくだけの単純明快な瞑想法です。
単純明快ではありますが、十日のコースではこれを朝から晩まで十時間あまりも練習することが推奨されていますので、実際に実行するとなると、これは本当に難しいことです。
ところでみなさんは、自分の人生が「もう少し楽しいものになったらな」とか、「もっと自分の思い通りに生きたいな」とか、そんなことを考えるときがないでしょうか。
つまり、
「自分の人生を変えたい!」
と思うときのことです。
ぼくは今年五十五になりましたが、もう三十年以上も自分の人生をなんとか変えようとして、切れ切れで散発的な努力を重ねてきました。
そうして最近気がついたのは、
「自分は今の人生に満足していない、なんとかこの人生を変えたい」
と思うときというのは、人生の最大のチャンスだということです。
このとき「変えたい」という強い気持ちは、必ずしも必要ありません。
「変わったら楽しいのにな」
というくらいの淡い期待でもいいのです。
変化を求める気持ちが起きたときにこそ、変化を実現するための第一歩を踏み出すことができます。
逆に言えば、自分がその気にならない限り、いくら人に尻を叩かれたって、人間変わることなんてできません。
そして変化を求める気持ちが起こったときに、
「変化に向けて正しい一歩を踏み出せるかどうか」、
これこそが重要なポイントです。
もちろん「何が正しい一歩なのか」は人によっても、時期によっても違ってきますから、それを見極める力を自分の中に育てることも大切なことです。
とはいえ、誰にとっても踏み出すべき一歩の方向性として、間違いなく大切なことがあります。
例えば、
「意志の力を育てること」
です。
なんでもかんでも意志の力で克服できるとか、努力すれば必ず成果が上がるとか、そういう話ではありません。
好きなことをやる場合にだって、物事の準備をし、何かをやりとげ、充実した時間を送るためには、そこには必ず意志の働きがあります。
人生を変えたいと思うのならば、意志の力を育てることは必須の条件といってもいいでしょう。
そこで意志の力を育てるために、この記事でみなさんにおすすめしたいのは、
「鼻から三回ゆっくり深呼吸をすること」 です。
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「鼻から深呼吸? それが変化を求める気持ちや意志の力とどう関係があるの?」と思われたでしょうか。
しかし、最近の心理学の研究では、
自分を変えるためには習慣を変える必要があり、 そのためには実際に何か行動を起こす必要がある ことが報告されています。
そしてその行動を起こす力こそが、意志の力なのです。
つまり「自分を変え、習慣を変え、意志の力を育てる」ためには、新しい行動を実際に起こすことが必要であり、
「鼻から三回ゆっくりと深呼吸すること」
はそのための打ってつけの練習になります。
「人生を変える」などと大上段に構えると、どうにも手に負えないものにも思えてしまいますが、「実際に変えること」こそが出発点としての大切な一歩になりますから、その一歩めは
「気がついたときに三回深呼吸すること」 といった実に簡単なことでかまわないのです。
だまされたつもりになって、まずは今これを読むのを一旦やめて、三回深呼吸をしてみてください。
今日はエルビスさんからのリクエストでインドの宗教の話です。
まず、バラモン教は初期のヒンズー教という理解でいいようです。
ヒンズー教は、インドの宗教の総称的なもので宗派により様々に異なるのですが、ここでは仏教と比べるために、アドヴァイタというインドの世界観を取り上げることにします。
アドヴァイタは不二一元論と訳されますが、この世界全体がブラフマーと呼ばれる単一の実在の現れであるという考え方です。
月も太陽も、あなたもわたしも、すべてはブラフマーという神あるいは宇宙原理の現れなのだと考えるのです。
そして現れているものは、いわば幻なのだとします。
ブラフマーがたまたまその形を取っているだけで、そこには物事の本質はないと考えるのです。
するとぼくたちが普段自分だと思っているものも幻にすぎないことになります。
このとき自分というものを詳細に見ていくと、自分の心の奥底に不変の実体が見えてきて、それが宇宙原理であるブラフマーと一つのものであると気がつく。
心の奥底の実体を真我=アートマンと呼び、ブラフマーとアートマンは一つのものであると捉えるのです。
これを梵我一如と言います。
(ここで、梵=ブラフマー、我=アートマン、となります)
アドヴァイタ派のお坊さんは、この梵我一如の境地を目指して修行することになります。
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仏教はどうかというと、この世界は法=ダルマによって成り立っていると考えます。
そしてこの世界に現れているものはすべて無常であると説きます。
また、普段自分と思っているものは、不変でもなければ、自分以外のものと必ずしも区別できるものではなく、それは自分と呼べないと説き、これを無我と言います。
また無常で無我であるこの世のものに執着することから苦しみが生まれるので、執着を捨てれば涅槃の境地に至り、すべての苦しみから逃れられると説きます。
仏教のお坊さんは、もともとはこの涅槃の境地を目指して修行を積むわけです。
ここでアドヴァイタと仏教を並べて考えると、
ブラフマー≒法(ダルマ) この世は幻≒無常 真我≒涅槃 という対応が見て取れます。
真我≒涅槃という部分は、それぞれの立場の方からすれば、「まったく違う」と言われてしまうところかもしれません。
けれども「あらゆる欲求を超越している」という意味では、真我も涅槃も同じですし、仏教で無我というのはいわゆるエゴを自分と同一視することを戒めているのであって、この世界や自分の心を意識している「存在」自体を否定するものではありません。
仏教では修行に関係ないものについては語らないという伝統がありますから、真我については語っていないだけだとも考えられ、涅槃の境地ではすべての欲求から離れて意識が法そのものを具現するのだ、と考えれば、涅槃即法、法即涅槃であり、結局は梵我一如と同じことを言っているように思えます。
ということで、表面的にはいろいろな違いがあるものの、根本的な世界観としては、ヒンズー教も仏教もほとんど一緒といっていいほどに似てるんじゃないですか、というお話でした。
それではみなさん、ナマステジーっ♫