四ヶ月ほどの長逗留をして、すっかり住み慣れた西インドは砂漠のほとり、プシュカルの街をあとにし、今日、昼過ぎの列車で、インド東部のヴァラナシに向かいます。
16時間ほどの列車の旅となります。
ヴァラナシは、ガンジス川に沿って沐浴場が連なっており、信仰心篤いインドの人たちが、聖なる川の水で体を清めている姿が、日常の中に溶けこむ街です。
久しぶりのヴァラナシが、その迷路のような細い路地が、どんな顔をして迎えてくれるのか、今から楽しみです。
...... ということもあり、しばらくこちらの更新は、お休みさせていただくかもしれません。
で、昨日書いた鍋料理の話とは、特に関係もありませんが、インドの鍋のある風景、ということで、写真を一枚
。
プシュカルのお菓子屋さんでは、こんなふうに店先で、揚げ物をしている光景をよく見かけます。写真のさつま揚げのようなものを、シロップ漬けにして、あまーくしたものが、プシュカル名物なのだそうです。
ぼくは甘いものが苦手なので、食べたことがないのですけど。
てなことで、今日はこの辺で。
ほいでは、みなさん、またーー。
今日はマミー(id:mamichansan)さんのリクエストにお答えし、インドに鍋料理はあるのか、という疑問にお答えしようと思います。
結論から言うと、ないようです(あっさり)。
インドにはヒマラヤの山岳地帯のように相当冬の厳しい地域もありますが、残念ながら、寒い冬に心もぽかぽか温まる、鍋料理の文化は伝搬・発達しなかったものと思われます。
以下、インドに鍋料理が存在しない理由を、極めていい加減に、考察します。
さて、鍋料理の起源はどこにあるのか。
これをまず、特に資料にはよらず、勝手に臆測しますと、やっぱりこれは、中国がかなり怪しいでしょう。
鉄鍋は中国じゃないかなぁ、かなり間違いなく。中国のことはよく知らないので、どこの地方とかいうのは、やめておきますけども。
中国には火鍋という、見るからに辛そうで、食べたらほんとに辛い、真っ赤なとうがらし鍋があります。しかも油ぎとぎと。これは鉄鍋。
むかし中国の雲南省の街で、これを食べたところ、辛いのは得意なので問題なかったのですが、油にやられて食べてすぐに腹を下したことがあります。
海外旅行の際、水や氷に気をつけろ、と言われますが、ぼくの経験では、油が断然あぶないです。
そして、土鍋もいいですよね。日本で鍋といえば、まずは土鍋でしょうか。いや、そんなことはないか、地方によるでしょうね、たぶん。
中国では砂鍋といいます。これは、一人用の小さな鍋をよく食べました。随分前なので何が入っていたかよく思い出せませんが、とにかくやすくておいしかったことだけが記憶に残っております。
とまあ、勝手に鍋の起源は中国と決めたところで、韓国、日本には順調に鍋料理が伝わり、また、タイ、マレーシアなどでも砂鍋はよく見かけます。
しゃぶしゃぶの鍋も使ってますよね。
しかし、どうしてインドに鍋は伝わらなかったのでしょうか。
ちなみに、ヒマラヤの北側チベットには、ギャコックという鍋があるようです。きのこのだしということで、日本人好みかも。
ここで、インドにおける中華料理の影響を考えますと、イギリスの植民地化と関係があるのか、はたまたチベット、ネパールなどを経由してのことなのか、インドの屋台料理には、やきそば、やきめし、そしてそれらの餡かけなどといった中華風の料理はわりと普通にあるんですよね。
見た目に騙されて、普通の焼きそばのつもりで食べると、唐辛子味で辛くて食べられない、といったこともありうるので、要注意ですが。
また、モモというチベット、ネパール風の、中華まんじゅう、ないし、餃子的な食べ物も見かけます。
きのう、ひさしぶりにモモを食べました。大きさや質感は小籠包に近いでしょうか。ベジタリアンで具は野菜だけのものを、唐辛子の辛いタレでおいしくいただきました。
ところで、そもそも、鍋とはいったいどういう食べ物なのかを考えますと。
じっくり考えだすとめんどくさくなるので、簡単に結論だけでいきますが、鍋料理とは、大鍋でみんなと食べる、具と汁、その汁にご飯や麺を入れて楽しむのも嬉しい食べ物、とでもしておきましょう。
このとき、インドにおける対抗馬はといえば。
カレーです。
日本人からしたら、インドにはカレーしかない、とすら思われている、究極のインド料理。
ちなみにカレーというのは、南インドはタミル語でカリーというのが汁料理のことなんですね。
インドの食堂では、こうした汁っぽい料理を、小分けできるように区切られた大皿(ターリーと呼びます)に何種類か乗っけて、チャパティやナン、そしてご飯と一緒に食べます。このセットの定食自体もターリーと呼びます。そして給仕さんがお代りを追加で持ってきてくれたりするのも普通です。
とまあ、そういう食堂では、鍋料理はちょっと馴染まない。屋台でもまあ無理。家でそんな外来のものを食べるわけもない。
というような事情で、ターリーと呼ばれる大皿料理にはばまれて、さすがの鍋将軍も天竺へと攻め入ることには、たたらを踏む結果になったものと思われます。
ですから、カレー鍋が食べたい方は、間違ってカレーの本家・インドにいらっしゃったりせず、どうか鍋の元祖・日本で探して召し上がってください。
以上、今回は、なけなしの食への好奇心を振り絞って、インドの鍋事情を考察してみました。
それでは、みなさん、またねーー。
みなさん、おはようございます。
今日は「蝶科学的ぷちブッダ論」をやり倒そうと思います。
ブッダことゴータマ・シッダルタさんは、フロイトを超え、アインシュタインにも迫る天才だった、というトンデモ論議です。
夜中たわしさんが、こちら
http://www.tawashix.com/entry/yamataikokuHaDokodesuka
で、鯨 統一郎さんの「邪馬台国はどこですか?」という一風変わった推理小説を紹介してます。
なお、この本のブッダに関するエピソードについて、がんがんネタバレさせちゃいますので、よろしく。
たわしさんによれば、
一応「歴史ミステリ小説」という謳い文句なんですが、内容はバーで4人が歴史談義をしているだけというもの。会話の内容は突拍子もなく面白いんですが、バーで殺人事件が起こるわけもなく、話をしているだけで終わります。
とのこと。
ぼくは読んでません。
けど、歴史トンデモ話を、会話形式で楽しめる人だったら、おもしろいんじゃないかな。
さて、ぼくがそそられたのは、「悟りを開いたのはいつですか?」という最初のエピソード。ブッダは悟りを開いていなかったという説です。
この説自体は、科学的な観点から考えれば、多くの人が思いつくことだと思いますが、ネットで内容を検索してみたところ、話のディテールがなかなか凝っています。
そこで、今回は、この「お話」の説を叩き台に、ブッダとはどんな人だったのかを検討してみることにします。
ただし、何ぶん、もとネタの「お話」を読んでいませんので、記述があいまいになるところも出てきますが、そこはご愛嬌ということで。
シッダルタは商人の息子だったって、ほんとかね。 奥さんのヤショーダラ姫が産んだ息子ラーフラは、不義の息子で、それが出家の原因だったのかしら。 悟りを開いてからも、いろいろな誘惑を受けて悩み、座禅を続けたの? それって悟ってないじゃん。 フロイトを超え、アインシュタインにも迫る「ブッダの天才」 シッダルタは商人の息子だったって、ほんとかね。 ここから先、「悟った者」を意味するブッダという言葉の代わりにシッダルタというお釈迦さんの本名を使います。
そして、のっけから曖昧論理でもうしわけありませんが、この商人の息子説の詳細が分かりません。
ここは勝手に、シッダルタの本当の父は、釈迦族の王ではなく、別に本当の父がいて、その父が商人だった、そしてその商人との不義の結果、母マーヤーが産んだのがシッダルタだった、と解釈させていただきます。
たわしさんのところにも一部引用されていますが、「母マーヤーが、天から六本の牙を持つ白い象が降りてきて、お腹の中に入る夢を見たときに、シッダルタを授かり、母の右脇の下から生まれた」という不思議な伝説があります。
これを神話学的に解釈すると、シッダルタは、実際には、父王の子どもではなかった、という読みが出てきます。
つまり、現実にはありえないような不可思議な記述は、世間的には公にしがたい事実を「婉曲的」に表現したものである可能性があるわけです。
イエスさんが、処女懐胎という、現代的観点からすればありえない出自を持つこととも、たいへん似ており、考慮に値する説だと思われます。
このことと、母マーヤーがシッダルタの出産後すぐに亡くなってしまったことが、シッダルタのこの世に対する苦悩の大きな部分を産み、のちのシッダルタの出家につながるものになるのではないでしょうか。
奥さんのヤショーダラ姫が産んだ息子ラーフラは、不義の息子で、それが出家の原因だったのかしら。 このことと関連して、シッダルタは性的に不能だった、という説が述べられているようです。
不能だったかどうかは分かりませんが、シッダルタが性的な快楽にたいした興味を持たなかったことは、出家した、という事実からして明らかなことに思えます。
また、不能かどうかはともかく、性的関係に興味を持てなかったシッダルタが、妻を性的に満足させることができず、その結果、妻が不義の子を持ったということも、ありそうな話です。
そして、自分自身が不義の子であり、さらにまた、妻も不義の結果、子をみごもる、ということが、シッダルタの出家の直接のきっかけになったということも、実にありそうな話です。
ちなみに、このラーフラというシッダルタの子は、妻ヤショーダラがシッダルタの出家前にみごもったにも関わらず、出家の五年後に生まれたという不思議な伝説が残っています。このことも、ラーフラが不義の子であったことの傍証となると思われます。
悟りを開いてからも、いろいろな誘惑を受けて悩み、座禅を続けたの? それって悟ってないじゃん。 ようやく核心の問題に辿りつきました。果たしてシッダルタは、悟りを開いたのか。開いたにせよ、開かなかったにせよ、悟りとは何なのか。
まず、この記事で「悟り」という言葉をどういう意味で使っているのかを、ざっと定義しておきましょう。
生まれてから、生きる必要のために、着々と身につけてきた「十分に検証されていない知識」を、すべて検証しなおして、間違いのない「知恵」とし、しかも、その「知恵」が頭だけのものではなく、気持ち・考え・言葉・行動のすべてが一致している状態。
これを「悟り」の定義とします、おおざっぱで恐縮ですが。
このように定義した場合、その「知恵」には「誤り」はないはずですが、あらゆる「真実」を知っているわけではないので、「悟り」を開いたあとも、「知恵」を増やし、「真実」にちかづくためには、絶え間ない努力が必要なことになります。
この考え方でいくと、かりにシッダルタが「一切皆苦」や「八正道」といった「悟り」を得たのちにも、修行をおこなっていたことは、べつに矛盾でもなんでもありません。
むしろ、「ブッダは究極の真実を知った」というような、仏典上の記述こそが「伝説」にすぎないと考えられますから、シッダルタさんが実際に言ったことというのは、「自分は完全な悟りを得た」ということではなくて、
「悟りに至りうる、すんごく確実な方法を見つけた」 というくらいのことだったのではないかと、思うのです。
フロイトを超え、アインシュタインにも迫る「ブッダの天才」 そして、このくらい控えめにシッダルタの主張を考えるとき、彼が「悟っていたかどうか」に関わらず、「悟りに至りうる現実的な方法」を、2500年前もの昔に示しえたということは、たとえていえば、フロイトを超え、アインシュタインにも迫る天才だった、といえるのではないでしょうか。
フロイトは近代科学の枠組みの中で、無意識を「再発見」しました。そのことが、現代の我々の暮らしに与えている影響には計り知れないものがあります。
けれども、フロイト自身は、その無意識の働きを、自身の歴史背景の限界から、もっぱら性的な抑圧の問題に帰着させるという、いささか狭い仮説に閉じこもることになってしまいました。その点を乗り越えるためには、ユングをはじめ、そののちの様々な研究者の力を要しました。
そのフロイトと比べたとき、西洋的な科学的概念など皆無だった時代に、それまでの宗教的実践をベースにして、フロイトと同じく「快・不快の原理」から出発しながら、呼吸を利用した無意識に至る確実な身体技法を開発し、「身体的なレベルで知恵を確立する方法」をシッダルタが示しえたことは、「奇跡的」といっていいことに思えます。
しかも、その実践法を支える世界認識が、「神を必要としない、世界の法則のみによること」は、まったく科学主義的と言えます。
また「この世界というものは、現実を作り出している微細な要素の、生成と消滅の繰り返しから成り立っている」としたところなどは、量子力学的世界観とも一致する点があり、その素朴な洞察力は、アインシュタインにも迫るものと思われるのです。
ですから、このシッダルタさんの類まれなる洞察力を前にすれば、彼が悟りを開いてたかどうか、なんてことは、はっきりいって「どーでもいー」話であって、「アインシュタインは悟りを開いてなかったから、相対性理論は認められん」という人がいないだろうことと同じで、
「シッダルタさんが畳の水練でにしろ、悟りに至りうる『相当ただしい道』を指し示してくれたこと」 に、わたしとしては、感謝感激雨あられなのでありまして、今日も昼から酔っ払いつつ、三宝に帰依する、「なんちゃって仏教徒」のとし兵衛なのでありました。
というわけで、以上、鯨 統一郎さんの「邪馬台国はどこですか?」の最初のエピソード「悟りを開いたのはいつですか?」を肴に、「蝶科学的ぷちブッダ論」を展開させていただきました。
なお、シッダルタさんの説いた、日々の暮らしにも役立つヴィパッサナ瞑想については、こちらにちょろっと書いてますので、興味のある方はご一読ください。
☆10日間の瞑想コースで頭すっきり - *魂の次元*
ほいでは、みなさん、またねーー。
ぼくはこう見えても、ってどう見えてるか、分かったもんじゃないですが、もともとは、プログラマのはしくれだったんです。
というか、今でもandroidでdroidscriptを使って「毎日が日曜プログラマ」という感じで楽しんでますので、「元sfファン」でしかないのとは違って、「わし、現役のプログラマなんよー」と胸を張って言ってもいいくらいのものなんです。
そこで、たわしさんの記事(http://www.tawashix.com/entry/hitokuiWani)の舞軀眞(ぶくま)には、どなたかにお任せ、と書きましたが、人喰いワニさんのジレンマに、よし、きょうは挑戦してしまおうではないかと、ビールに酔った頭で考えてしまったのです。
というわけで、以下は、酔っぱらいのたわごとですので、間違いがあっても、「あらまあ、おかわいそうに」くらいに思える方だけに、読んでいただければ幸いと存じますです、はい。 さて、分九間(ぶくま)のほうで、ku__ra__geさんがおっしゃっているように、
『人喰い(行動予定, 予言)
= if (行動予定 != 予言) then
「喰う」 else 人喰い(!行動予言, 予言)』
#ku__ra__geさんの「喰わない」を「!行動予言」に変えています。
としたとき、「人喰い(喰う,喰う)」の結果は、「喰う」になってしまいます。
これは単なる実装ミスですね。予定と予言が合っているときは、食べてはいけないのですから。
別の実装、というか、一番シンプルな実装はこうです。
『人喰い(行動予定, 予言)
= if (行動予定 != 予言) then
「喰う」 else 「喰わない」』
この場合は「人喰い(喰う,喰う)」の結果は、「喰わない」になってしまいます。
しかし、これも実装ミスですね。「喰う」という予定なのに、「喰わない」という結果が出ているのですから。
ここまで考えてぼくが分かったのは、なーるへそ、これこそ、論理階梯の問題だったのか、ということです。
つまりですね、人間には、この問題に対して、上の二つの実装があることが理解できて、しかもそのどちらも、当初の問題の解決になっていないことが分かるわけです。
ところが、それは、いわば「コンピュータ」には理解できないわけです。
つまり、コンピュータのレベルで問題解決を与えると「間違った」プログラムしか書けない。
たわしさんが書いたような、「止まってしまう」プログラムは書けない、ということです(たぶん)。
これって、ゲーデルの不完全定理とも関係するような、結構、重要な話って気がするのですが、なにぶん酔っぱらいのおじさんが書いているたわごとにすぎませんので、おかしなところがあったら、びしびし指摘いただけたら幸いです。
てなことで、みなさん、またーーー。
みなさん、おはようさんです。
今日はわっとさんのネタを拝借して、ちょいと書きます。
『おんな城主直虎』の「托鉢は、施す方も受ける方も、見返りを期待してするものではない」という台詞をもう一度もじって、「読者登録はする方もされる方も見返りを期待してするものではない」あるいは「ブログは見返りを期待して継続するものではない(ブログをやっていること自体を楽しめない人はブログに向いていない)」と偉そうなことを言って、締めにしたいと思います。 いやー、しみる言葉ですよね、初期仏教より伝わるヴィパッサナ瞑想を実践しているものとしては、ほんとに。
いやいや、本当はそうじゃなくて、日頃みかえりを期待しては、読者登録をしたりしなかったりしているものとしては(笑)。
ぼくの人生は不純度99%です。
残りの1%でなんとか人間性を保ち、今まで生き延びてきました。
まぁ、しかし、それはそれとして、今回の本題はわっとさんの言う「ブログには失敗こそ書くべきだ」という話です。
ぼくは今までに、「ぷち」とか「ナノ」とかいって、「バズ」の話を小さな成功のように書いていますけれども、まー、こんなのは「成功」にはふつう入らないですよね。自慢できるようなものじゃあない。
☆ぼくのぷちバズ報告と、インドのバス旅の愉しみ - *魂の次元*
☆はてな村まであと何歩。あるいは、ナノ・バズしたの、ほんとなの - *魂の次元*
気持ちとしては淡々と事実を書いているつもりなんですが、どちらかというと恥をさらしているようなもので、こんなのも考えようによっては「失敗」のうちかなー、と思ったんです。
「成功」ではないもの、それは「失敗」である、というわけで。
そんな失敗話のついでで書きますと、ぼくは何か一つのことをきちんと続けてやるというのが苦手なんですよね。
☆アマゾン・アフィリエイト、note.mu 、そしてアドセンスまで - ぼくのネット上小遣い稼ぎの黒歴史 - *魂の次元*
こちらにも書きましたが、あちこちのサービスをつまみ食いして、どれもロクな結果が得られていないという体たらくです。
とはいえ、一つのことを継続してはできなくても、「なんとなくこの辺のこと」は続けてやってるらしいのが、ぼくの人生で、ヴィパッサナ瞑想も、途切れ途切れに六年ほどやってきて、ようやく最近、形がついてきたような次第で、ネット遊び自体は嫌いじゃないし、こっちももうしばらく適当に遊んでたら、なんかしら目鼻がついてくるのかなーー、などと思って、こんな記事を書いてます。
ある意味で、「失敗」を続けることが成功につながるかも、みたいな。
もちろん、わっとさんのような先輩が、着実に書いて、しっかり読者がついてるのを見ると、ぼくもがんばらんとなぁ、などと、うっかり思ったりもするのですが、いえいえ、それはぼくにはできない相談なんです。
わっとさんのおっしゃる通り、見返りを期待しないのが大切で、自分の気持ちのおもむくまま、自分のペースにしたがって、ただ淡々と記事を書いていく、それしかやりようはないのであります。
てなことで、今日のところはおしまい。
それではみなさん、またーー。
☆別サイトで「あーす・じぷしー」というおもろい双子の姉妹の本の紹介を書いてます。こちらもよろしければ、どうぞ。
魂の次元: あーす・じぷしーの物語 - 「思い込み」から自由になるって、どーゆーこと?
みなさん、おはようございます。
ぷちウェブ作家のとし兵衛です。
昨日、ゴエンカさん方式のヴィパッサナの瞑想コース10日間の旅を無事終え、西インドはラジャスタン州、砂漠のほとりの聖地プシュカルの街に戻ってきました。
10日間のコースを受けるのはこれで三回目になるのですが、今回はとてもすばらしい10日になりました。
頭がすっきりしすぎて、この瞑想の話を書かずにはおれない、という感じです(笑)。
というわけで、この記事では、ヴィパッサナ瞑想の簡単な紹介と、その話からいろいろと展開して、最後は昨夜みた夢の話を書いてみます。
瞑想にもいろいろあります。ヴィパッサナにもいろいろあります。 瞑想、夢、変性意識 「思い込み」と「判断」の違い 「判断の停止」と「思い込み」 「思い込み」を解きほぐしたいあなたへ 瞑想から夢の世界へ ぼくが見た夢、ちょっとエッチな内容あり 瞑想にもいろいろあります。ヴィパッサナにもいろいろあります。 瞑想と言っても、特に関心のない方は、「なんか、座禅みたいなやつ?」
くらいの捉え方かもしれませんが、まあ、それは、大雑把に言うと、当たってます。でも、細かく言えば、いろんな瞑想法があります。
マントラと言って、呪文(真言とも言いますね)を唱えたり、神さまの姿や、いろいろな情景を頭の中で思い浮かべたり......。
けれども、初期仏教として実践されたヴィパッサナと呼ばれる瞑想法は、そういうことはしません。
基本的に、自分の呼吸と体の様子を意識するだけのものです。
ヴィパッサナと呼ばれるものの中にも、いろいろな流儀があって、呼吸だけ意識するものや、自分の動作を意識するとき、その動作を言葉で確認するもの(息を吸っているときは、「息を吸っている」と頭の中、言葉で確認し、息を吐いているときは、「息を吐いている」と頭の中で確認する)などなど、です。
日本では、この言葉で確認する、ラベリングのやり方が比較的知られているかもしれません。
さて、ぼくがやっているのは、ヴィッパサナの中でも、インドのS. N. ゴエンカさんがやってらっしゃる方式で、これは「自然な呼吸を観察し、体に起こる感覚を観察する」ということが基本になっています。
この単純明快な観察を続けることで、自分の体と心の仕組みを体験を通して理解し、ひいてはこの世界の法則を理解し、その法則にかなった、健康で意義ある生活を送れるようになることが、この瞑想法の目的ということになります。
「自分の人生は、まずまず楽しいし、苦労してまでそれを変える必要はないよ」という方は、それでよいと思うのですが、「なんか、今ひとつ人生が楽しくない。多少たいへんなことでも、もっとすっきり生きるために何かをやってみたい」という人には、おすすめの瞑想法です。
☆なお、次の本に、ゴエンカさん方式のヴィパッサナー瞑想のことが詳しく書いてありますので、興味が湧いた方は、どうぞアマゾンでご覧ください。
瞑想についての、いろいろなヒントが得られると思いますよ。
〔ウィリアム・ハート「ゴエンカ氏のヴィパッサナー瞑想入門―豊かな人生の技法」(春秋社1999)〕
[なお、ゴエンカさん方式については、ネット上での「批判」も目にしますが、当たっているものもあり、誤解もあり、といったところです。
実際、ゴエンカさんの講話の録音を聞いてみますと、いろいろな問題点を感じます。
けれども、欠点を見て全体を否定するのは、もったいないんじゃないかなぁ。一部が悪くなってるりんごを、まるごと捨てちゃうみたいなもんで。
もちろん相性はありますから、「ゴエンカ方式は合わない」という人も当然いると思います。
ちなみに、ぼくはあくまで「半信半疑」の立場でありまして、必ずしも指導の通りにはやっていません。けれども、「ゴエンカ方式」には他の方法とは違う利点があると思っていますので、こうやって「ゴエンカ方式」をおすすめしている次第です]
瞑想、夢、変性意識 変性意識という言葉があります。altered states of conciousness の訳語で、「意識の普段とは違った状態」といったような意味です。
催眠状態や向精神性の薬物を摂った状態も「変性意識」ですし、瞑想も「変性意識」、また夢を見ているときの意識も「変性意識」です。
......というように、この「変性意識」という言葉は、『「普通の意識」があって、それとは違った意識がある』ということを意味しているわけですが、「普通の意識」って、なんなんでしょうね?
ぼくたちの「普通の意識」は数々の思い込みによって成り立ってるんじゃないでしょうか。
とすると、これって「洗脳」されている状態とそんなに変わらないことで、「催眠状態」にあるってことになっちゃうんですよね。
でも、これは別に悪いことではありません。社会生活を円滑に行なうためには、ルールというものが必要で、ルールに従うためには、いちいち、「この行動はしてもいいのか、悪いのか」などと考えていたら大変なことになってしまいます。
そこで、たとえば、「人のものを盗ってはいけない」という「思い込み」を持つことで、ぼくたちは、社会生活を円滑に送っていけるようにしているのです。
ちょっと分かりにくいでしょうか?
「思い込み」と「判断」の違い 「人のものを盗ってはいけない」というのは「思い込み」だ、というのは、ちょっと変じゃないか、と思われた方がいるだろうと思いますので、そこのところを少し説明します。
もちろん多くの方は、「人のものを盗るのは、その人に害を与えることになるからいけないのだ」と論理的、倫理的な判断をした上で、そのことに納得した上で、そのようなルールにしたがっていらっしゃることでしょう。
けれども、「人のものを盗る」ということ自体は、どのようにして判断すればいいのでしょうか。
つまり、『こうするのが「盗る」ということ』であり、『こうするのは「盗る」ことにはならない』という区別するための方法です。
野山に行って、木になっている柿を取って食べたとします。
これは「盗った」ことになるのでしょうか、どうでしょうか。
法律にしたがっていえば、これは人の土地にあるものを「盗った」のだということになるでしょう。
ですが、それは日本での話であり、スウェーデンの法律では「盗った」ことにはならないのだと、聞いたことがあります。
すると、ぼくたちはいつでも法律にしたがって生きているのだから、それが「判断」の結果ということであり、したがってそれは「思い込み」なんかじゃない、ということになるのでしょうか。
けれども、「法律にしたがわなければならない」というのが、そもそも「思い込み」にすぎないのではないでしょうか。
世界的に有名な多国籍企業はみんな、「法律にしたがって」活動しているのでしょうか。
法律の網の目をかいくぐり、灰色の活動をすることで利益を増やしている企業は、少なくないのではないでしょうか。
「判断の停止」と「思い込み」 このように考えていくと、何が善で何が悪なのか、だんだん分からなくなってきますし、実のところ切りがなくなってしまいます。
そこでぼくたちは、一旦「判断を停止」して、『とにかく「ものを盗る」のは悪いのだ、だからやめよう』と「思い込む」ことにしてしまうのです。
しかし、これを誠実に実行するためには、一旦「停止」した「判断」を必要に応じて、きちんと考える必要があるのですが、そこがまた、普通には難しい。
難しいので、裁判所に任せるのですが、裁判所がいつも正しいとは限りません。
「裁判所はいつも正しい」と思っている人がいるとしたら、それはやはり「思い込み」と言わざるをえないのではないでしょうか。
「思い込み」を解きほぐしたいあなたへ とまあ、話が大風呂敷になってしまいましたが、ぼくたちの「普通の意識」は、かなりの部分が「思い込み」で成り立っていて、「普通」のはずの意識が実は「変性状態」にあるのだ、というのがここで言いたいことです。
吉本隆明さんの「共同幻想」というような考え方とも似ていると言えましょう。
そのとき、この「幻想」とか「思い込み」を解きほぐす道具として、瞑想が役に立つ、というのが、不真面目ながらもヴィパッサナを実践してきての、今のぼくの実感ということになります。
昨日ゴエンカさん方式の瞑想10日間コースがいったん終わって、今は西インドはラジャスタン州、梵天さんの聖地、プシュカルの街にまたいます。
今日はそのコースで知り合った若い友だちと、半日プシュカルの近郊を散歩して、とてもいいリフレッシュになりました。
明日はまた瞑想センターに戻り、もう一度10日間のコースを受けて、今回のヴィパッサナ三昧の締めとなります。
というわけで、みなさん、お元気で。
また、10日ほど後にお目にかかりましょう♬
前の記事
http://dimofsoul.hatenablog.com/entry/2017/01/04/155953
では、夜中たわしさんの悪夢の話
http://www.tawashix.com/entry/brainVat
に相乗りさせてもらい、明晰夢や悪夢、そしてその意味やら対処法やらを書いてみました。
そして、たわしさんの威を借りて、ナノ・バズ成功。当のたわしさんにも拙ページをご購読いただき、無上の幸せに感激の涙を流す者であります、よよよ。
ナノ・バズしたの、ほんとなの はてな村まであと、何歩 ナノ・バズしたの、ほんとなの 前回、「レイア姫」の追悼記事
http://dimofsoul.hatenablog.com/entry/2016/12/29/104651
でぷちバズがあったときは、1000 を超える閲覧数がありましたが、SmartNews の威を借りたものだったため、数だけはすごいんだけど、なんとなく薄べったい印象がありました。
今回は、たわしさんの記事に相乗りして、はてな・しおりから来ていただけたので、閲覧数は 100 ちょいの可愛いものですが、購読いただいたり、しおりをお気に入りに入れていただいたり、はてな的厚みを感じる初めての体験となりました。
ご覧いただいたみなさん、ありがとうございました。
はてな村まであと、何歩 さて、はてなには、はてな市民というものがあります。
https://www.hatena.ne.jp/help/citizen
ぼくも市民になってますけども、どうもこの言葉の語感が落ち着かないんですね。
で、ネット上では「はてな村」という言い方があって、こっちを使って「村民」というほうが、しっくりくるのです。
(からかい半分の言葉と知りましたが、ぼくはいい意味で使います)
市民は冷たくて乾いた感じ、村民のほうが暖かみを感じるのかな。
村社会を知らない都会者の、妄想的感覚ですけどね。
で、自分としては、はてなのサービスはずいぶん長い間使ってきているけれど、まだまだ、村はずれをうろうろしているだけで、村民として腰を落ち着けるところまではきてないよなと思っています。
ですから、年末から毎日記事を書いてきて、ぷちやらナノやらのバズを経験して、少しずつはてな村の人々と顔見知りになってきたところで、いずれ隠居後ははてな村でのんびり暮らす、みたいな空想をして楽しんでおります。
というわけで、みなさん、改めまして、今年もよろしくお願いします。
なお、明日より、ヴィパッサナーの瞑想センターに行きますので、当分こちらへ書き込むことができません。
ではみなさん、また会う日まで、会える時まで、ごきげんよーー。
夜中たわし(id:tawashix)さんが、恐ろしい夢の話を大変ユーモラスに書いている。
・思考実験「水槽の脳」と最悪の初夢 - 夜中に前へ
そして記事の最後に、
夢に詳しい方、こういう夢を見る心理状況は一体何なのか教えてください
とあるので、それに答える形で、こうした夢の枠組みの意味と、対処の仕方を、ぼくの経験を交え、考えてみたい。
夢の中で夢であることに気がつく明晰夢 夢から覚める方法 夢から覚めても、まだ夢の中 なぜ人は夢を見るのか 夢の中で夢であることに気がつく明晰夢 明晰夢ってどのくらいの人が見るのだろうか。
ぼくもたまに見るが、夢であることに気づいた場合、「えいっ」と思い切ってしまえば、壁を突き抜けたり、空に飛び上がったりできる。
うまく飛び続けられないで、苦労したりすることもあるが、悪夢的な状況に陥ったことはない。
うまく飛べた場合は、実に爽快だが、気分が高揚しすぎると夢が終わってしまう。そこのところはなかなかコントロールができない。
夢から覚める方法 夜中たわしさんの場合は、明晰夢が悪夢につながりやすいとのことで、夢を中断している。
「起きようと念じながら体に力を込めると、簡単に起きることができる」のだそうだ。
この点は、「金縛りから抜け出す」方法と同様だ。以前記事を書いているので参考にしてほしい。
http://meratade.blogspot.com/2016/10/blog-post_22.html
人によって違いがあるのだが、手足の指先を動かすのが、比較的多くの人に向いているようだ。
夜中たわしさんも、悪夢のレベルが深まっていったときには、ふだんとは別の「目覚めのテクニック」を使ったらいいかもしれない。
夢から覚めても、まだ夢の中 この夢の入れ子構造も、一定数の人は体験するようだ。
ぼくも一度だけ、夢から覚めてもまた夢だったことがある。
これが意味するのは、まだ、「心が夢を必要としている」ということだろう。
そして、金縛りも含め、悪夢一般に共通することだが、すべての夢には意味があるのだから、いたずらに怖がらないのが吉。
「何が起きても、別に怖くないんだ」という気持ちを持つことができれば、逆に、悪夢からでも、力をもらうことができる。
たとえば、夢に化け物がでてきて恐ろしい思いをしたとしよう。夢から覚めた段階で、
「あー、怖かった。でも、次はあの化け物と友だちになるぞ」
と考えるのだ。
すると、次に化け物が出てきたときに友だちになれることもあるし、もう化け物が出てこなくなることもある。
夜中たわしさんは、すでに板尾創路と一体となっておられるので、これは友だちになったことを意味するのかもしれない。
しかし、また別の「板尾創路」が出てくる可能性があるので、そのときは怖がる気持ちを抑えて、友だちになってしまえば、素晴らしい力をもらうことができるだろう。
なぜ人は夢を見るのか 夢については、十分に科学的な説明は今のところできないと思われる。
けれども、夢を見ることが記憶の定着に役立つのは分かっているし、夢には心理的な葛藤の解決の役割があるだろうとも考えられている。
たわしさんの夢に出てくる「板尾創路」が何を意味するのかは、たわしさん自身の無意識に直接聞かない限り分からない。
しかし、ここで「夢に出てくるものはすべて自分である」という説を採用すれば、それは、たわしさんの中に潜む、意識的に向き合うことが難しい何ものかだったのだろう、ということはできる。
そして、たわしさんは、四段階のステップを踏んで、その何者かと一体化することによって、無意識のレベルで何らかの葛藤が解決されたのだと推測される。
たわしさん、おめでとうございます。
そして、また、楽しいお話聞かせてください。
というところで、この記事はおしまいである。
最後までお読みいただいたみなさん、ありがとうございました。
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・秘伝・悪夢解消術・悪役編 - *魂の次元*
プシュカルの冬は、昼間、日差しが強いと暑いが、日陰に入ると肌寒いほどで、朝晩はそれなりに冷え込む。
といっても、最低気温 10 度前後なので、日本の冬とくらべたら、暖かいものだけど。
そして、プシュカルは砂漠の入り口に当たるので、冬の乾季には砂が舞い散り、埃っぽい。
昼間、街道を歩くと埃っぽい上に、日が照っていると影になるものもないし、暑くてかなりきつい。
......というのは、一週間くらいまえの話で、今日はそれほどでもなかったのだけど。
この記事では、その街道沿いで見た、三つのオートバイにまつわる光景を書く。
バスの屋根の上で 足蹴り遊び 手放しで褒めていいのだろうか バスの屋根の上で インドやネパールのバスは、たいてい屋根の上に荷物を積めるようになっている。
そして、荷物だけでなく、人も乗る。
暑いときは厳しいが、今くらいの季節、昼間にバスの屋根の上に乗るのは気持ちのよいものだ。
五年前、プシュカル近郊のヴィパッサナー・センターで瞑想のコースを受けたとき、帰りのバスは、屋根の上に乗った。
頭が瞑想ですっきりしているところを、風を切って走るバスに揺られて、実にいい感じだった。
一緒にコースを受けた白人のひとたちと一緒で、その中の一人、フランスの若者が巨大な横笛を出して、バスの屋根の上で吹き始めた。
すばらしいひと時を過ごした。
旅の醍醐味は、こうした瞬間を味わうことにあるのだと思う。
* * *
さてそれで。
一週間ほど前に、街から少し歩いたところにある店に買い物に行った。
その帰り道、暑くて埃っぽい街道を歩いていると、少し先の方にバスが止まっていて、何か大きな荷物を屋根の上に積もうとしているのが見えた。
何を積んでるんだろう、と思ってよく見ると、なんとオートバイを積もうとしている。
上から三人がロープで引っ張り、下から二人が押し上げている。
125 c.c. くらいの小さめのバイクだが、日本のスクーターなどとは違い、がっちりした作りの、それなりの重量があるバイクだ。
けれども、手慣れたもので、しばらく時間はかかったが、特に大変なことをしている、という感じもなく、無事に屋根の上にバイクは載った。 日本ではありえない光景だが、インドの人たちにとっては、朝飯前のことなのだろう。
足蹴り遊び アルゼンチンの作家、フリオ・コルタサルに「石蹴り遊び」という〈その筋〉では有名な長編がある。
どう有名かというと、この小説はふた通りの読み方ができるのである。
「ふた通り? 読み方は読者の数だけあるんじゃないの!」と思った、そこのあなた。
あなたの意見には、ぼくも完全に同意するのだが、これはそういう話ではないのだ。
なんとも奇妙なことに、この本は冒頭で、作者自身がふた通りの読み方を指示しているのである。
第一の読み方は、初めから順番に読んでいって、第二部まで読んだら終わっても良いというもの。この作品、第三部まであるんだけど。
この読み方をすると、第二部までは割とふつうの物語に読めて、第三部を読もうとすると、なんだか支離滅裂に思える。
作者の分身と思われる青年を主人公とした、パリとブエノスアイレスを舞台とするデッドエンドの青春苦悩ロマンスなのだが。
そして、第二の読み方は、冒頭にある著者指定の順番にしたがって、155ある各章を行ったり来たりしながら読む方法。
こうやって読むと、一番目の読み方とは、違ったメタフィクション的物語が見えてくるという、なかなか手の混んだ実験的趣向の作品なのである。
で、この作品にオートバイが出てくるかというと、別にそういう話ではない。いや、ほんとうは出てきたかもしれないが、ずいぶん昔に読んだので、出てきたとしても憶えていないのだ。
なお、この本を読んでみたい方は、次の水声社版を図書館で探すのがおすすめである。
[水声社版「石蹴り遊び」]
アマゾンで見ると四つの版があるのだが、すべて絶版のようで、また、昔の全集版は訳が古く、新訳は値段が高い。
文庫版は上下巻なので、第二の読み方をするとき、不便だ。なお、値段は今見ると揃いで 4,000 円。ちょっと高いが、買うならこれだろう。
[文庫版]
* * *
ここで、インドの道端に舞台は戻る。
四、五日前のこと、またぼくは買い物のため街道を歩いた。この日も暑い日だった。
そして、やはり帰り道のことである。前方からやってくるオートバイが見える。
しかし、そのオートバイは、やけにゆっくり走っている。
この街道は、新しく舗装されて十分な道幅があるから、ほかのオートバイは、みなかなりの飛ばし方だ。
その中をなぜか、そのオートバイは、ゆっくりと、しかも妙に静かに走っているのだ。
んっ? と思ってよく見ると、オートバイに乗ったインドのおじさんの左足が動いているのが見える。左足が前に行って後ろに行く、また前に行って後ろに行く、前に行って、地面に足をついて、後ろに蹴る......。
世に稀に見る、足蹴りオートバイ。
ぼくは「石蹴り遊び」ならぬ、「足蹴り遊び」を目撃したのだった。
手放しで褒めていいのだろうか 三つ目の話は手みじかにいこう。
これは、おとといのことだ。この日も暑かった。