前回の記事、 ・最近のニッポンに何かとうんざりしている皆さんへ - いかにして「うんざり」を昇華させるか - *魂の次元* に対してid:ad2217 さんより、次のようなコメントをいただきました。 投票はしてるけどね。関係ないように見えるだろうが、進化だって種間の競争よりも種内の競争が重要に思えるわけで。 「うんざり」してても、ちゃんと投票してる ad2217 さんは、すばらしいっ。 そして、「種間の競争より種内の競争」というお題をいただいてしまいました。 このお題はちょっと難しいので、勝手に話をずらさせていただいて、「競争も大事やけど、協調も大切なんとちゃう?」というような話を書いてみようと思います。 繰り返し「囚人のジレンマ」ゲームと「協調」戦略 それなのになぜ、人は裏切り合いを続けるのか 「親分・子分」の関係を越えるために 繰り返し「囚人のジレンマ」ゲームと「協調」戦略 世の中には「ゲーム理論」というものがありまして、この場合、ゲームと言っても人生自体をゲームに見立てたような話なんですがね。 で、「囚人のジレンマ」というのは、二人のプレーヤが、相手と「協調するか」、「裏切るか」の2つの選択肢があるときに、強調し合ったほうがお互いにいい結果が出るのに、「合理的に考える」と裏切り合わざるをえないというけったいなシチュエーションを設定して「ジレンマ」と呼ぶものなわけです。 詳しい話は囚人のジレンマ - Wikipediaをご覧ください。 裏切り合わざるをえない、と書きましたが、実は、この「囚人のジレンマ」を一回限りでなく、繰り返してずっと続ける場合は、必ずしも「裏切り」続けることが「最適」な行動になるわけではなく、 相手が裏切ったら、裏切り、相手が協調したら、自分も協調する、 というような形で、「協調」することは有効であることが、実験的に知られています。 (1984年にロバート・アクセルロッドによって行われたものです) それなのになぜ、人は裏切り合いを続けるのか まったく残念なことではありますが、「共謀罪法」のようなものが成立することは、現実の社会において「裏切り合い」が続いていることの証左としか言いようがありません。 これについては、「繰り返し囚人のジレンマ」ゲームに関しても新しい知見があり、「主人と奴隷」のようにプレイヤに役割分化があり、「主人と奴隷」の関係をよしとするグループ化があるときには、「主人から奴隷への裏切り」、「奴隷から主人への服従」、「自分のグループ以外への裏切り」が有効な戦略であることが、示されています。 (https://ja.m.wikipedia.org/wiki/主人と奴隷 およびhttps://www.wired.com/2004/10/new-tack-wins-prisoners-dilemma/を参照ください) このようにグループ化によって「協調戦略」が無効化される可能性は、アクセルロッドの著書「つきあい方の科学」でも、指摘されていたことですが、それがコンピュータによる実験でも示されたところに、現在の科学的な知見をきちんと見ることの重要性を感じます。 ちなみに、この「主人と奴隷」という言い方は、ちょっと強すぎるかと思うのですが、「親分と子分」的な考え方は、現実の日本で、普通にあることではないでしょうか。 「親分が言ってるんだから、仕方がない」、「難しくて分からないから親分の言うとおりにしよう」、そんな考え方を、ぼくたちはついつい、してしまいがちではないでしょうか? 「親分・子分」の関係を越えるために 大抵の場合は、「親分」の言うとおりにしていればいいのが現実かもしれません。 けれども、ある「限界点」を越えるとき、「親分」にしたがってはならない場合がありえると思うのです。 そのとき必要なのは、いつもは「自分たち」ではない人との「協調」です。 自民や公明を支持するみなさんの中にも、『「共謀罪法」はまずい』と思ってらっしゃるかたは、少なくないはずです。 「共謀罪法」自体はもう成立してしまいましたが、憲法を改変することにより、「戒厳令」を自在に実行できるようにしてしまおうという危険な「流れ」があります。 こうした「憲法の改変」を、今の流れのままに許してしまうのかどうかということは、日本の未来に、「極めて大きな影響」を与えると思われます。 ですから、今の日本の与党を支える、自民・公明の支持者の方にこそ、お願いしたいのです。 「現行の憲法」を改変することは、欧米の「独善的グローバリズム」に利することでしかありません。 「日本の民主主義」的なあり方を守り、欧米の「独善的なグローバリズム」に対抗するためには、どうか、「現行の憲法」を守ってほしいのです。 ......と、いうわけで、なんだか話が随分よれてるような気もしますが、まあ、いいことにしましょう。 言いたいことは、「親分・子分の関係」にも限度があるよ、「長いものに巻かれろ」も大概にしといたほうがいいんじゃないの、ってな話です。 そして、これを逆向きに言わせてもらいますと、 与党嫌いのみなさま、喧嘩を売ってるだけでは、ニッポンの流れは変わりませんよ。 与党の中にも、あなたの志を理解してくれる方々がいるはずです。 それを「く○みそ」で全部ゴミ箱に捨ててたら、やっぱり支持は得られないんじゃないかなー。 「流れ」を作るには、「協調」が必要なんじゃないかなーー。 そんなことを思って、つらつらと書かせていただきました。 てなところで、この記事はおしまいになります。 ほいでは、みなさん、ナマステジーっ♪

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前回の記事、 ・共謀罪法という名の「凶暴」な法律について考えてみたよ - *魂の次元* に対してid:ad2217 さんより、次のようなコメントをいただきました。 国民と独立して政府が存在するわけではないので、政府にうんざりする時には同時に、国民にもうんざりしてしまうんですよ。 確かに、政府の現状にはいい加減「うんざり」させられますし、政府を「支持している」国民の「多数派」のみなさんに対しても「うんざり」したくなる気持ちは分かります。 けれども、その「うんざり」感こそが、現政権を支えてしまっているのではないか。 そして、その「うんざり」を、現状を変えるためのエネルギーに昇華することはできないのか。 今日はそんなことをつらつらと考えてみます。 「政治不信」こそが「うんざり政権」の支持基盤ですので、ぜひ選挙には行きましょう 選挙に行っても変わらない現実を前に、とにかく動いてみよう あらためて、「政府」や「国民」にうんざりしてしまうあなたに 「政治不信」こそが「うんざり政権」の支持基盤ですので、ぜひ選挙には行きましょう ニッポンの政府、国会、司法、官僚、財界、メディア、教育機関、その他もろもろのあり方に、良識あるみなさんが「うんざり」しているだろうことは、想像にかたくありません。 とはいえ、ニッポンが曲がりなりにも「民主主義国家」を標榜している以上、こうした現状を変えていくためには、政治のあり方を変える、というのが、一つの王道としてありましょう。 ところが残念なことに、あるいは為政者の方々には好都合なことに、ニッポン国には「政治不信」が蔓延しています。 たとえば、先日の千葉県船橋市の市長選の投票率は過去最低の 28.1% であり、市長に当選した現職の松戸徹氏は、有権者の 17% からの信任しか受けていないことになります。 今回投票しなかった有権者は、71.9% にものぼるわけで、仮にその4分の1の人が松田氏以外の人に投票した場合を考えても、結果は大いに違ってきた可能性があります。 別サイトの記事、 ・魂の次元: 政治なんてアホらしいですか? ライフネット生命の出口治明氏はこう言ってます にも書きましたが、もしあなたが現状の政治に満足していなかったら、ぜひ選挙に行って、現在の与党ではない候補者に投票してください。 ライフネット生命の出口さんによる、ヨーロッパにおける選挙の常識はこれです。 ヨーロッパの人と話をすると、選挙は学校で次のように教えられるのです。メディアが事前に選挙結果を予想しますが、その予想通りで良かったら三つ方法があります。投票に行ってその通り書く、白票を出す、棄権をする。すべて同じ結果になります。もしメディアの予想に反対なら、方法は一つしかない。行って違う人の名前を書く。これが選挙ですよと教えるのです。 日本ではこういう当たり前のことが教えられていないから、「ろくな候補者がいなかったら堂々と棄権しなさい」などと変なことを言う評論家がいたりするのです。ヨーロッパでは中学生以下のリテラシーです。 出口治明さん「日本はお金の教育をしていない」 ライフネット生命会長に聞く教養とは というわけで、以上 「政治にうんざりしているあなたにこそ、選挙に行ってほしい」 という話でした。 選挙に行っても変わらない現実を前に、とにかく動いてみよう しかしながら、ぼくがこんなところで、「みんな選挙に行こうっ」と言ったからといって、 明日から投票率がうなぎ登りに上がって、日本の政策が大幅に変わる、 わけはありませんよね。 メディアぐるみ、社会ぐるみの「出来レース」になっちゃってますから、この事態は簡単には変わりません。 そのとき、自分が投票に行くだけでは、やはり状況は変わりませんから、その他に自分ができることはないのか、ちょっとしたことでもいいので、少しずつでも動いていくことが大切でしょう。 ネット上で「うんざり」した気持ちを表現することもいいでしょう。 ネット上で共感できる人の存在を知るだけでも力になります。 けれども、そうやって表現して、仲間内でやりとりするだけで何かをした気になってしまってはもったいありません。 その「うんざり」に秘められたエネルギーをさらに昇華して、現実の行動につなげていくことが大切です。 デモやパレード、あるいは学習会に参加してみたらどうでしょうか。 そうした行動に、なんの意味があるのか、という疑問や、そんな行動をして大丈夫だろうか、というためらいも、あるかもしれません。 けれども、一歩踏み出すことで、新しい人との出会いが生まれ、他の人からエネルギーをもらうような経験も得られるかもしれません。 とにかく、現実に体を動かしてみる。そこから何かが生まれるはずです。 無理のない範囲で、一歩を踏み出してみることをおすすめします。 あらためて、「政府」や「国民」にうんざりしてしまうあなたに 限りのあるあなたの一度きりの人生ですから、わざわざ「うんざり」する人たちと付き合う必要はありません。 そういうあなたは、もう政治のことなど忘れて、自分の世界をきちんと生きればいいのです。 その代わりに、「うんざり」する現実を、ただそのまま受け止めることにすれば、いいでしょう。 多分これは、ヒトという種族の愚かさからして避けることのできない事態なのかもしれません。 あなたがあなたの世界をきちんと生きていれば、社会がどうあろうと、あなたの人生は完璧です。 ヒトが「病」を完全に克服できないのと同じで、人間の社会も「共謀罪法」のような「病んだ」法律を克服することはできないのかもしれません。 「病」を過度に恐れてもしようがありません。 あるいは、医者の宣告通りに死期を受け入れてそのまま死んでいくのも莫迦ばかしいことです。 今日も明日も、ぼくたちは自分自身で人生を選んで生きていくだけのことです。 願わくば、あなたの人生が、そして生きとし生けるものの命が、輝きに満ちたものでありますように。 てなわけで、この記事はおしまいです。 それでは、みなさん、ナマステジーっ♬

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みなさん、こんにちわ。 2017年6月15日は、いわゆる「共謀罪法」が成立した日として、戦後ニッポンの歴史の一つの転回点になったと思われます。 そこで。 改めまして「共謀罪法」の問題点を簡単に説明するとともに、今後の総天然色全体主義国家ニッポンを生きるヒントを考えてみたいと思います。 共謀罪法のどこが「凶暴」なのか 共謀罪法が通ったからといって、それだけで社会が突然「治安維持法の世界」に変わるわけではない 雨の日も嵐の日も、雪の日も吹雪の日も、日々是好日 共謀罪法のどこが「凶暴」なのか テロ等準備罪こと共謀罪法ですが、名前に「テロ」とあるにも関わらず、「テロ」とは全く関係のない、さまざまな行動を取り締まりの対象にしているところが、大変「凶暴」なんですよね。 ・共謀罪(テロ等準備罪)の3つの問題 : 東京法律事務所blog という記事で東京法律事務所の弁護士・今泉義竜さんが具体例を上げています。 ・会社の社長が税理士に節税の相談(所得税法、消費税法違反の共謀) ・住民団体が高層マンション建築に反対する座り込みを計画(組織的威力業務妨害の共謀) ・消費者団体が不買運動を組織しようと相談(組織的業務妨害の共謀) といった具合で、この法律の対象になるのが「長期4年以上の刑を定めている犯罪」であることから、およそテロとは関係のない、あなた自身が巻き込まれかねない、様々な行動が対象になりうるわけです。 おまけに「そうした計画をした疑い」だけで「捜査機関が逮捕や捜索・差押えをすることができる」ようになってしまいましたので、身に覚えのない話で、突然あなたのうちに警察が家宅捜索にやってこないとも限らない世の中の「いっちょ上がり」というわけです。 また、そうした「共謀の証拠」をつかむためとして、盗聴、メール・SNSの監視や各種団体への捜査官の潜入捜査などが、これまで以上に広範に行なわれるようになることも予想され、社会的な息苦しさが増し、一般市民の自由な行動が、だんだんとしずらい世の中になっていくことも想像されます。 以上、簡単に共謀罪法の「凶暴」さを見ましたが、普段そういうことを考えたことのない方には、いまひとつピンとこない話かもしれません。 共謀罪法が通ったからといって、それだけで社会が突然「治安維持法の世界」に変わるわけではない ・衆院通過した「共謀罪」、何が問題なのか? – 田原総一朗公式サイト という記事で田原総一朗さんが指摘してらっしゃいますが、この共謀罪法は、戦前の治安維持法を現代に蘇らせたものといって間違いないと考えます。 田原さんも指摘なさっている通り、 「治安維持法ができた昭和初期と現代では、民主主義の成熟度が違う。心配のしすぎだ」 とお考えの方も多いでしょう。 「しかし」と田原さんは言います。 昭和初期の日本というのは、大正デモクラシーを経て、きわめて自由な時代だったのだ。それが治安維持法ができたことで、不自由な時代へと変わっていった。そして、ついには、あの戦争へと突入してしまったのだ。 現在、政府は共謀罪については、「一般国民には関係ない、大丈夫」と言う。だが、治安維持法が成立した際、時の政府は、「無辜(むこ)の民にまで及ぼすというごときことのないように十分研究考慮を致しました」と答弁したのだ。ところが戦争が始まると、少しでも戦争や政府への批判を口にすると拘束され、ひどい場合は拷問の末、殺されるようになる。 法律によって意図された政治の方向性は、一夜にして社会を変えるものではありません。 それは、徐々に社会に浸透し、じわじわとぼくたちの首を締めていくのです。 あなたが「ほんとかな?」とか「違うんじゃない?」などと思われる気持ちには、同情いたしますが、五十年以上の馬齢を重ね、2011.3.11. 以降の日本社会の急激な変化を、体の感覚として実感しているものとしては、 『「凶暴」な法律による、超管理社会の到来』 という不吉な予想を、わざわざこうして書かざるを得ない動機というものがあるのです。 雨の日も嵐の日も、雪の日も吹雪の日も、日々是好日 共謀罪法が通ったからといって、今日からあなたの言論が制限されるというものではありません。 ですから、昨日までと違った何かを心がけていく必要は特にありません。 昨日までと同じく、今の日本で保障されている自由を謳歌して、毎日を楽しく生きていけばいいのです。 とはいえ、多くの日本の方々が愛する「ことなかれ主義」と「長いものには巻かれろ」式の思考の放棄が、現状のニッポンの「息苦しさ」を招いてしまったことは確かなものと思われますので、もしもあなたがこの「息苦しさ」をなんとかしたい、と思っていらっしゃるのでしたら、たった一つでもかまわないので、あなたが大切とする「価値観」を守るために、自分を偽らないで、きちんと実践をすることをお願いしたいのです。 堀田善衞の「広場の孤独」という小説に中国に兵隊として行ったときのエピソードがあります。 そのエピソードでは、農村出身の同期の兵隊の一人が、戦場においても、農作物だけは傷つけないように行動しているという話が出てきます。 現に戦争に行き、敵兵と戦っているときに、人間としてどういう「良心」を持ち、どんな「価値観」を大切にできるのか、ということを示す、一つのエピソードだと思います。 毎日の仕事の中で、あるいは毎日の仕事ができないときに、ただその日常に埋没してしまうのではなく、自分は人間として何を大切にしていくのか、そういうことを多くの人が考えることができるようになったとき、社会というものも、その進む方向を変えていくことができるのではないかと、思うのです。 晴れの日ばかりではない毎日を、それでも今日もいい日だ、と思えるように、一歩いっぽしっかりと歩いていきたいものではありませんか。 以上、舌足らずな文章ではありますが、共謀罪法の成立を期に書かせていただきました。 平成末期のニッポンを生きていく上で、なんらかの参考にしていただけたら幸いです。 それでは、みなさん、ナマステジーっ♬ ☆こちらのサイトにも関連記事がありますので、よろしければどうぞ。 ・魂の次元: 共謀罪法成立の日に、100年後の世界を見据えて

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このweblogのタイトルは「*魂の次元*」となっていますが、今までその説明をしたことがなかったので、今日はちょっとその話をしようと思います。 ぼくたちが住んでいるこの世界は、縦・横・高さの三次元に、過去から未来へ流れる時間の次元を合わせて四次元の世界ということになっています。 これは物理的な時空間の話ですね。 ぼくたち人間は、しかし、ただ物理的な存在ではありません。 物理的というよりは、生物的な存在ですし、それ以上に、心理的な存在であると言えます。 そこで、物理的な時空の四次元に加えて、心理的な次元というものを考えることで、別の視点が得られたら面白いんじゃないかなぁ、というところから、「魂の次元」ということを考えてみたのです。 * * * たとえば、あなたが、街なかの車通りの多い道端にいるとしましょう。 車の騒音がうるさいでしょうし、排気ガスが臭いかもしれません。また、歩道に少しばかりの植え込みがある以外は緑もなく、人間以外の生き物は見当たりません。 ここで、時空をジャンプして、南の国の小さな島の浜辺に行ってみましょう。 寄せては返す波の音以外は耳に入らず、日本の海のような磯のにおいもしません。夕暮れ近い砂浜では、たくさんのカニが巣穴を掘っており、掘り出してきた小さな砂団子をたくさん並べて、無数の幾何学模様を描いています。 この2つの情景を比べてみたとき、そこには「音・におい・視覚」といった人間が感じ取ることのできる、様々な指標が考えられます。 ここではこの指標を「次元」と呼ぶことにします。 「音」についてもう少し考えると、「大きさ」だけではなく、心地良い音と不快な音の違いもありますから、そうした質についても指標が考えられ、たとえば、「金属的なもの」、「機械的な繰り返し」、「波や風など自然の音」、「生き物の声」などなど、無数の次元を見出すことができます。 それぞれの指標をどうやって数値化するかという問題はありますが、ここでは科学的に意味のある厳密な議論をするのではなく、ぼくたちの住んでいる世界が、いかに多種多様な次元から成り立っているかを見ることを目的とさせていただき、そちらの話には深入りしません。 * * * さて、「音・におい・視覚」といったものは、人間以外の生物も感じているという意味で、生物的な次元とも言えますが、同時に心理的な次元とも言えます。 人間は他の動物とは違い、巨大な脳を持ち、論理的に考えることができるところに大きな特徴があります。 同時に、他の動物同様に、快不快の感覚を持ち、怒りや恐怖、喜びや悲しみの感情を持ち、そうした「内側」の心理的な次元が、人間の思考に大きな影響をもたらします。 そして、この「内側」の心理的な次元が、「音・におい・視覚」といった「外側」の次元から大きく影響を受けるだろうことは、みなさんにも納得いただけるだろうと思います。 道を歩いていて、焼きたてのパンの香りでも漂ってくれば、「おいしそうだな」と感じていい気分にもなるでしょうし、逆に不快なにおいに対しては、どうしたって嫌な気分になりますよね。 * * * さて、このような「心理的な次元」というものの存在は、分かりやすいものだと思うのですが、今までの意識できる「心理」の話から、もう一歩話を踏み出して、無意識の領域のことを考えてみます。 これはカルロス・カスタネダというアメリカの作家が書いている話なのですが、カスタネダはメキシコの呪術師ドン・ファンに弟子入りします。 ドン・ファンが言うには、土地には土地の持つ力があります。それは良い力ばかりではなく、悪い力の場合もあります。 呪術師には、どの場所が良い力を持ち、どの場所が悪い力をもつかが分かるのですが、普通の人間には分かりません。 ところが普通の人間でも、その行動をはたから見ていると、「良い力の場所」と「悪い力の場所」を見分けているのがはっきり分かる、というのですね。 普通の人間が歩いていて、「悪い力の場所」に差し掛かったとします。すると急にスピードを上げて、そこを通りすぎようとします。もしその人にどうしてスピードを上げたかを聞いたなら、「元気が出てきたからだ」というような答えが返ってくるのだと言います。 逆に「良い力の場所」に差し掛かると、スピードを落としてゆっくり歩き始めます。どうしてなのか聞くと、「ちょっと疲れたんだ」というような返事が返ってくるというわけです。 * * * この話は、ぼくたちが「意識的」には気がついてない何かを知っている、というある意味「当たり前」の話を分かりやすく説明してくれているエピソードではないでしょうか。 みなさんは、 「理由は分からないけれど、こっちが絶対いい」とか 「うまく説明はできないけれども、これは今やっちゃダメだ」 というような感覚を持ったことがありませんか? アインシュタインも言っていますが、ぼくたちは、「無意識」の領域で、大部分の「思考」を行なっていて、「意識」的な部分というのは、実は本当に氷山の一角なんですよね。 「言葉で説明できないなんて無意味だ」と思われるかもしれませんし、社会的にものごとを進めるためには、確かに言葉による説明が必要なのですが、現実の話として、人間は「言葉以前の思考」によって生きているのかもしれない、ということを考えていただきたいのです。 * * * こうした「無意識」的な感覚・知識というものも、外側の「知覚の次元」によって、ある程度は説明できるものだとは思うのですが、頭の中の無意識的な領域に構築された知識のネットワーク自体を、要素に分解して指標化することは実質的に不可能なように思われます。 この「次元」として指標化して取り出すことのできない無意識が持つ「次元」を、「魂の次元」と呼びたいと思うのです。 この「魂の時空間」は、「空想・幻想・仮想」の時空間ですから、不可能なことはありません。 にもかかわらず、それはあなたの中に実在する時空間ですから、ただの夢まぼろしとは違うのです。 あなたの思う通りのことがそこでは起こり、そこではあなたは完全に自由なのです。 ただし、それは、あなたが「魂の次元」の性質をよく知り、その力に親しみ、その法則にかなった生き方をするときに限ります。 この世界の法則をじっくりと学び、魂の次元を深め、楽しい日々を生きたいものではありませんか。 てなわけで、最後はぶっ飛んで、スピリチュアルというか、ちょっとオカルトめいた話になりました。 それでは、みなさん、ナマステジーっ♬

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ニッポンのがんばりすぎの皆さん、おはようさんです。 ぼくは五十を過ぎて、奥さんともどもインド辺りをふらふらし、ロクに仕事もしないで、瞑想ごっこをしているような人間です。 世の真面目に働いている方々のうちには、「ダメ人間の典型」みたいに思われる方もいらっしゃることでしょう。 けれどもぼくは、自分にはこの生き方しかないんだし、それでいいんだ、と思っています。 そして、今の日本の「しんどい」状況の中、「がんばれない」で悩んでいるあなたに、 「無理にがんばる必要はない」 ということを伝えたいんです。 「がんばるのをやめて別の道を選ぶ」ことには、勇気がいるかもしれません。 でも、先のことばかり考えていると身動きが取れなくなって、自分が潰れてしまうこともあります。 人生には、長い目で見なければ分からない、不可解な経験がつきものです。 その意味では、自分が潰れる危険をおかすのも、一つの経験なのですが、できれば、そうならないうちに手を打ったほうがいいかもしれない……。 「思い切りよく、その場その場の感覚だけで、人生を生きてきた」ぼくのこれまでの経験が、ひょっとしてあなたの参考になったらいいなと思って、この記事を書いています。 ちょっと、無茶苦茶すぎる人生なんで、あんまり参考にならない気もしますけど(笑)。 そして、「あなたの参考に」とは書きましたが、途中まで書いてみて分かったのは、ぼくは、心の底に淀んでいる澱を、こうやって記事にして、きれいさっぱり捨て去ってしまいたいんだなぁ、ということ。 結局のところ、それがこの記事の意味ですので、ぼくのカルマの成仏を手伝ってくださるみなさん以外は、これ以上読み進める必要はないかもしれません。 はじめて会ってからひと月ちょっとで結婚した話 二回目の結婚も知り合ってひと月ちょっとでした話 そして数々の修羅場を越えて今に至った二度目の結婚 はじめて会ってからひと月ちょっとで結婚した話 それは、バブル景気もそろそろ崩れ始めたころ、ぼくが27歳になる年の5月のことでした。 当時はインターネットというものはまだなかったのですが、パソコン通信というテキストベースでやりとりをするシステムは世の中に存在していました。 東京の江戸川区に住んでいたぼくは、友だち数人と一緒に小さなパソコン通信のサイトを運営していたのですが、そこで友だちの友だちである、二歳年下の女の子と知り合ったのです。 そして、知り合ってひと月も経たないうちに「結婚しない?」と軽くプロポーズしてしまったのです。 すると意外なことに、相手の女の子から、イエスの返事が貰えてしまい、しかも彼女が「ジューン・ブライドがいい」というので、なんの準備もないまま、とにかく双方の親に挨拶だけは済ませ、6月中のある日に役所に婚姻届だけを出したのです。 その頃、ぼくは男の友だちと鉄筋アパートをシェアしていて、彼女の方はアパートで一人暮らしでした。 それで、ぼくらは一緒に住むこともせず、最初の半年ほどは、ぼくが彼女のアパートに頻繁に遊びに行くという形で、通い婚のようなことをしていたのでした。 とまあ、そんな次第ですので、全然普通の結婚じゃありません。 この調子で話を続けると、超大作になってしまうので、はしょりますが、そんな普通でない結婚に応じてくれた彼女でしたが、ぼくの余りの常識知らずな行動にそのうち見切りをつけることになります。 ぼくは無謀にも東京を捨てて、南伊豆に引きこもる計画を立て、彼女はそこまではついてきてくれたのですが、いつまで経っても仕事もせずに、畑のまね事をする以外は、ぼーっとしているだけのぼくに、やがて愛想をつかし、離婚すると言い出したのです。 今から考えれば、まったく当たり前の話ですが、ぼくの頭の中はどうも少し普通ではないようで、どうして彼女がそんなことを言い出すのか理解することができず、なんとか考えを変えてもらえないかと、しばらくの間、彼女を説得しようとしました。 けれども、そんな状況で説得がうまくいくはずもなく、彼女の意志が固いことを思い知らされて、離婚を受け入れました。 結婚して四年ほど経ったときのことでした。 喧嘩別れしたわけではありませんでしたので、離婚してからも時々顔を合わせることはあり、なんとか復縁できないものかと、ぼくのほうは思っていたのですが、あるとき、彼女から「最終的な別れ」の手紙をもらい、「あー、これでもう、彼女とはお別れなんだな」と分かりました。 今思い出しても、悲しさが込み上げてきますが、ぼくという人間の身勝手さを教えてもらった彼女には、本当に感謝しています。 彼女は再婚して、子どももおり、幸せに暮らしているということを、ネットづてで知り、ああ、やっぱり、あれでよかったんだなと、今では納得しています。 二回目の結婚も知り合ってひと月ちょっとでした話 前の項を読んで、このこの項のタイトルを見たあなたは、 「きみは一回目の結婚から何も学ばなかったのか」 と思われたかもしれません。 たぶん何も学んでいなかったのかもしれません。 人間って、何度でも同じ間違いを繰り返すものですよね。 えっ、あなたはそんなことはない? それはすばらしいことです。 でも、世の中にはぼくのように、何度でも同じ間違いを繰り返す人間は少なからず存在するのです。 これがカルマってやつでしょうか。 最近は瞑想をやって、カルマ落としに励んでるんですけれども。 それは、ともあれ、一回目の結婚から十分には学んでいなかったと思われるぼくは、離婚してから四年が経ち、33歳のときに再び、出会ってひと月ちょっとの、今度は同い年の女性と結婚することになったのです。 そして、十分な学びができていなかったぼくは、結婚して二年ほど経った頃に、またしても奥さんから「別れ話」を切り出されてしまうのです。 そして数々の修羅場を越えて今に至った二度目の結婚 ぼくという人間は、「人の気持ちを感じ取る能力」にかなりの「欠損」があるようで、最初の奥さんについても、ぼくの身勝手な行動で彼女が「どれだけ困っていたか」をまったく理解できていませんでした。 同じように、二番目の奥さんについても、ぼくと一緒に暮らすということが、彼女にとって「どれだけ負担になっているのか」が、これもまったくといっていいほど理解できていませんでした。 けれども、彼女に別れ話を切り出されたとき、ぼくは 「きみがどうしても別れたいというのなら、それでかまわない。だけれども、今までぼくたちが一緒に暮らしてきた時間には意味はなかったんだろうかねぇ」 と言って、涙を流しました。 彼女はとても優しい人なので、それで思い直してくれて、それ以降、そのような形で「別れよう」と言うことはありませんでした。 とはいえ、それで問題が片付くはずもありません。 というか、それからが本番だったのです。 ことあるごとに、彼女は、ぼくの行動の身勝手さや嘘やずるさを、巧みな論理と感情に対する揺さぶりで、情け容赦なく攻撃してきます。 (なお、攻撃の内容は、ぼくの行動が彼女の気持ちを傷つけたことや、ぼくがロクに働かないこと、金銭に意地汚いこと、などです) そのたびにぼくはノックアウトされて謝り、彼女の言うがままに約束をするのですが、その約束を守ることがぼくにはできません。 まさに、ダメ人間です。 けれども不思議なもので、ノックアウトされるごとに、こちらの覚悟もできてくるというのか、彼女の言う正論の中にも「身勝手」さがあることに気づいてきますし、お互いの関係性というものが、徐々に変わってくるんですね。 そうして、この六年ほどは、二人ともヴィパッサナ瞑想をやるようになったことも手伝って、互いに感情のぶつけ合いをするようなことが、だんだん少なくなってきました。 ぼくの身勝手な言い分としては、「どうしてぼくばかりこんなに責められなければならないのか」という気持ちでいたのですが、ある意味それは自分で撒いた種なんですよね。 でも、同時にそれはお互いの関係性の問題でもあるので、彼女のほうがぼくを「変えよう、変えよう」としても、ぼくはやっぱり変わらないし、変えられない。それぞれが少しずつ変わっていく中で、それが相手にも伝わって、また互いに変わっていく。 そういうことなんだと思います。 そんなこんなで、今の奥さんとの結婚は、もうじき18年になろうとしています。 この18年、ぼくはぼくなりに頑張ってきたのだと思いますが、何かを無理に我慢するというのは、嫌いなんですよね。 もちろん、好き勝手にすればいい、というものではないのですが、「社会的な常識」とか「人の思い込み」に勝手に嵌めこまれても困る、といった感じでしょうか。 日本ではどうしても「周りに合わせるためにがんばる」ことになりがちです。

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「問題は」とハンプティ・ダンプティが言いました「僕と言葉のうちのどちらが相手の主人になるかということ、それだけさ」 ハンプティ・ダンプティ - Wikipedia ルイス・キャロルの「不思議の国のアリス」と「鏡の国のアリス」おもしろいですよね。 「鏡の国」に出てくる、このハンプティ・ダンプティの、一見奇妙に思えるセリフにヒントを得て、今日は言葉が持つ「呪文」としての性質を、「21世紀的」な視点から考えてみようと思います。 ここで「21世紀的な視点」というのは、「コンピュータが暮らしの中に入り込んだ文脈の中で」という程度の意味です。 *1 プログラミング言語も言葉なの? 「呪文の実現」としてのコンピュータ言語 ぼくたちが毎日使っている「呪文」のこと コトノハ 2.0 、あるいは言葉を「呪文」として使いこなす方法 プログラミング言語も言葉なの? みなさんはプログラミング言語を使ったことがありますか? プログラミング言語というのは、コンピュータに何かをやらせるために、命令を組み立てるための「言語」ですよね。 これはぼくたちが日常使っている「言葉」とはちょっと違います。 「日常言語」は、「命令」だけで成り立ってるわけじゃないですもんね。 けれども、プログラミング言語も「人間が機械に指令を与える=人間と機械がコミュニケートする」ためのものなのだ、と考えれば、「言葉」の一つとして捉えることができるでしょう。 ここではまず、プログラミング言語というのがどんなものなのかを、ごく初歩的な部分だけ、紹介します。 たとえば、python というプログラミング言語があって、これには、print という命令があります(「命令」ではなくて「関数」というんですけど)。 そこで、 print(1+2+3) と、pythonに指示してやると、 6 という結果を表示してくれるわけです。 (print といっても印刷するわけではなく、画面に表示するんですね) これだけだと、計算機を使うなり、手で計算するなりしても特に変わりませんが、仮に学校の宿題で、 「1 から100までの数の自乗(ある数同士を二回かける)のを計算してきなさい」 という宿題が出たら、どうでしょうか。 計算機を使うにしても、これをいちいち、 1x1, 2x2, 3x3 .... と100までやるのは大変ですよね。 コンピュータだったら簡単にできそうです。 これをpythonでやるには、 for i in range(1,101): print(i*i} という「呪文」を使ってやることになります。 ここで、 「for 〜」は「〜の間くりかえす」 「range(1,101)」は「1から100まで」(指定するのは101なんですけど、100までになります) 「*」は掛け算 を表していて、結果として、 「i という変数が 1 から100になるまで、i x i の結果を表示しなさい」 という「呪文」を表すことになるわけです。 お仕事で excel をお使いの方などは、こういったタイプの「呪文」が使えると、手作業をコンピュータにまかせられて便利なことは、よくご存知のことと思います。 「呪文の実現」としてのコンピュータ言語 さて、コンピュータというのは融通が効かないものですから、先ほどの「呪文」は、単語を一つ、記号一つ、打ち間違えても、せっかくの「命令」は実行されなくなってしまいます。 「ひらけー、ゴマ」と言えば、秘密の扉が開くのに、「ひらけー、コマ」では開いてくれないのと、これはよく似ています。

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みなさん、こんにちわー。 以前の記事、 ・新卒で「プログラマ」として入社した一部上場精密機器メーカーを、ぼくが2年足らずで辞めた「理由」: #00 販売実習をやめたいと言ったら上司に呼び出された話 - *魂の次元* では、入社時の新人研修で、販売実習があり、あまりに向かないので「やめたい」と上司に相談したものの、「丸め込まれて」やめられなかった話を書きました。 今日は、少し話をさかのぼって、どうしてぼくがその会社に勤めることになったかを書いてみます。 ぼくは東京の大学でコンピュータの勉強をしていたのですが、コンピュータや勉強が大好き、というほどのことはありませんでした。 それで、学部四年のとき、修士課程に進むかどうか迷ったのですが、同じ研究室の修士二年の先輩で、いい感じの方がいて、自分もあんなふうにやれたらなあ、みたいな「雰囲気だけ」の気持ちで、修士に進む方向で考えてみました。 とりあえず内部推薦の制度があったので、それに申し込み、また、大学院の入試も受けることにしましたが、実のところ、大学の成績は特によいわけではなく「内部推薦は通ったらもうけもの」くらいのいい加減さで、しかも入試に向けての勉強などもまったくしていませんでした。 それで、内部推薦の面接のときのことなのですが、ぼくの所属していた研究室の先生が、こんなことを聞くんですね。 「きみは成績がずいぶん悪いけれど、これはどういうことかね?」 いやー、身も蓋もない、サイコーの質問じゃないですか!! しどろもどろに何を答えたものか、さっぱり覚えていませんし、ほかに何を聞かれたのかもすっかり忘れてしまいましたが、当然推薦は受からず、そのうち、大学院の入試の日付が迫ってきました。 自分がそのとき、何をどう考えたのかは、あまりよく覚えていないのですが、結論だけははっきりしていて、 「やっぱ入試はやーめた」 と思って、誰にも相談せず、一人勝手に就職することに決めました。 ぼくは実家が世田谷なので、渋谷あたりが行動範囲だったのですが、たまたま渋谷の本屋で高校のときからの友だちとばったり出くわしたので、 「いやー、おれ、大学院受けるのやめようと思って」 とか軽い調子で話したら、その友だちは、 「それはやっぱり受けといたほうがいいんじゃない?」 と親身に忠告してくれたのですが、ぼくは人の話が耳に入らないほうなので、「そんなこと言われてもなー」と思ったくらいのもので、結局そのことは誰にも告げないまま、入試当日ばっくれてしまったのです。 あとから研究室の同級生に、「先生かなり怒ってたよ」とか聞きましたが、別になんとも思いませんでしたから、ぼくという人間の「非社会性」が知れるというものです。 * * * さて、これで大学院に行く道は断たれましたから、就職口を考えなければなりません。 この頃ぼくは、高校時代の同級生が先輩とともに立ち上げたソフトウェアハウスでプログラマのアルバイトをしておりました。 某通信関係大手の研究所の孫受けで、マルチウィンドウ端末*1用のソフトウェア開発環境をコーディングする仕事で、ぼくはそのシステムにエディタのソースコードを埋め込むのを担当しました。 で、そのソフトウェアハウスをやっている友だちが、 「きみはうちに就職する気はないか? プログラマとしてのきみの能力はまだまだだが、十分将来性はある。今うちの会社は小さいから、きみが来てくれるかどうかは、うちにとっては大きな問題だ。 さあ、どうだ、来てくれるのか、来てはもらえないのか。 はっきり答えてもらおうじゃないか! さあ、さあ、さあ!!」 というような文面ではありませんでしたが、かなり熱気のあるお誘いのお手紙をもらいました。 しかし、ぼくは薄情な人間で、友だちの会社に就職するつもりは全くなかったので、あっさり断りました。 どこかの会社の下請けで何かをやる、というようなタイプの仕事には興味がなかったのです。 こんな選り好みをしていたら、仕事なんてできないよなあと、今は思いますけどね。 それで結局どうしたかというと、修士の人たちの就職活動におまけでついていって、某精密機器メーカーの中央研究所の見学に行っていたぼくは、 「ぼくはそもそも会社勤めがしたいわけじゃないし、この機会を逃したら、大企業に勤める機会なんてないだろう。社会経験としてあの会社に入れてもらって、中央研究所で働かせてもらおう。まあ二年くらいが目処かな」 とまったく自己本位に勝手なことを考えました。 (会社側の立場で働いているみなさん、ごみんね、許してねっ) 世間知らずの自己中心的な人間にのみに可能な、「妄想感」溢れる考えとしかいいようがありませんが、ここでも幸いなことに、当時はバブルの全盛期で引く手あまたの時代でしたから、形式的な集団面接を一回受けるだけで、簡単に内定は出ました。 今の時代、就職を決めるのも大変で、就職してからもさらに大変なみなさんのことを考えると、全く申し訳ないようなものですが、そういう時代の、そういう人間の話ですので、どうかご寛恕いただけたらと思います。 * * * とまあ、そんなようなことで、就職先は簡単に決まってしまいました。 とはいえ、人生そんなに甘くないのは当たり前のことで、配属先の希望には「中央研究所」と書いたものの、いつの時点で分かったのか、忘れてしまいましたが、そうは問屋が卸すはずもなく、レーザープリンタのファームウェアを開発する部署に配属されることが分かったときは、一人がっくりとうなだれたものです。 ぼくのようなただ「世間知らず」なだけの脳天気な人間の場合、一人がっかりするくらいですみましたが、今のようなご時世ですと注意が必要です。 「世の中」のことが分かっていない「生真面目」な人は、就職先を間違うと体や心を壊したり、ひどい場合には「死」に至る場合もありえますので、若い皆さんには、よくよく注意をしていただきたく思います。 というようなところで、今回の記事はおしまいとさせていただきます。 それでは、みなさん、ナマステジーっ♬ *1:なんていっても今の人にはなんだかさっぱり分かりませんよね。

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はてな村のみなさん、こんにちわ。 別サイトにしてありますが、ぼくはこんな「怪しい」記事も書いてます。 ・瞑想で、無限の時間を、あなたのものに。 - 24 時間の瞑想術 瞑想が深まると、「今」という瞬間が「永遠」になるので、無限の時間が得られる、という趣旨です。 この記事では少し違った角度から、瞑想で無限の時間を得られるのか、ということを考えてみます。 科学的といっても割と数学的な話で、時間が連続なら、一分間も永遠も同等と見なせるから、やっぱり無限が手に入っちゃうよね、というような話です。 0から1までと、0から無限までは、数学的には一緒、という話 でも、時間ってほんとに連続なの? 知覚・認識の最小時間はどうなの? 時間は連続で、一秒の中に無限が見れるのは分かった。でも、認識や近くの限界を考えたら、無限なんてとても無理じゃない? 0から1までと、0から無限までは、数学的には一緒、という話 さてみなさん、0から無限までの数を考えてみてください。 0、1、2、という自然数だけじゃなくて、0.1, 0.01, 0.001 というような少数も含めての話です。 割り切れない少数、1/3 とか 1/7 とか、そういうのも全部含め、さらには、平方根とか円周率とか自然対数とか、分数でも表せないような数も含めます。 そうやって、作り上げた数、実数というのは、連続で切れ目のないものになります。 この連続な実数の観点から見ると、0から1までと、0から無限までは、同じ濃度を持っていて、それぞれの数に一対一の対応をつけることができるんですね。 ですから無限(ここで言っているのは、数学的には非可算の無限ということになります)という、人間には非常につかみ難い概念を考えるとき、0から無限、ということを考える必要はなくて、0から1までのことを考えれば十分ということになります。 これを時間にあてはめたとき、人の一生は有限ですけれども、その中に無限を見出すことが可能になりますし、もっと言えば、一分、一秒の中にも無限を見出すことが可能になるわけです。 以上、ぼくは数学、あまり得じゃないので、かなり雑な話です。おかしなところがあったらごめんなさい。 でも、時間ってほんとに連続なの? 現代の物理学では、時間は不連続なものとして扱われるようです。 量子力学的な世界観では、観測の限界というものがあり、これ以上短い時間については観測できない、という限界があるんです。 プランク時間と言って、wikipedia によると、 5.39116(13) × 10 ^ −4 4 秒 となっています。 ( 「^」 はべき乗の意味。小数点以下0が44個続く、めっちゃ短い時間ということです) けれども、これは物理的な観測限界の話であって、ぼくたち人間が知覚・認識できるレベルとはかけ離れた世界の話です。 ですから、ここでの議論としては、時間は連続として扱って差し支えないでしょう。 知覚・認識の最小時間はどうなの? 知覚については、聴覚、触覚、視覚の順で長くなって、0.0045〜0.03秒程度、 認識できる時間の最小単位は脳内の神経振動によって決まり、0.03秒程度、 脳内で感覚情報は3秒単位でまとめられているため、「現在」として意識されるのは、3秒単位、 という研究結果があるようです。 この辺の話は、こちらのページに詳しく書いてあります。 ・知覚の時間錯覚効果:日々の覚え書き 時間は連続で、一秒の中に無限が見れるのは分かった。でも、認識や近くの限界を考えたら、無限なんてとても無理じゃない? 前節で「現在意識」は3秒単位という話を書きましたが、ぼくたちは1秒、2秒、3秒、と数えられるんだから、ある知覚情報のまとまりとしては、3秒というのが意味をなすのでしょうが、実際にはもっと短い単位で時間を認識していることは間違いないでしょう。 そして、瞑想の練習を深めていくことで、とても短い時間感覚の中で、自分の体の中にさまざまな反応が連鎖的に起こっていることが、だんだん分かってきます。 もちろん知覚の限界はありますから、それ以下の時間単位については、知りようがないのですが、瞑想によって「無駄な思考」が減ることによって、 脳内で無数に同時進行している「計算」が自分に与える影響を、以前よりも精密に「認識」することができるようになり、結果として、同じ1秒の「密度」が何倍にも感じられるようになるんですね。 そのとき、「現実の知覚の最小時間がどうか」ということではなく、「実感としての最小時間」はいくらでも小さくなっていきます。 それを数学的に「無限」というわけにはいかないでしょうが、 「練習次第で、時間の最小単位は『いくらでも小さくできる』し、 時間の密度は『いくらでも濃密にできる』」 のですから、普通にいうところの「無限」と考えることができるだろうと、いうことなのです。 だいぶ雑な議論ですので、うまく説明できたか不安なところですが、以上で、「瞑想をすることで無限の時間が手に入る」という命題の証明の概略とさせていただきます。 ちなみに、みなさんが瞑想の練習をして「無限の時間」を手に入れたとしても、その時間を「無限のお金」を稼ぐために使ったりしたら、だめですよ。 瞑想は心の浄化のためにあります。 瞑想の副次的効果として「無限の時間」が手に入った場合は、利己心を捨て、生きとし生けるもののために、その時間を使ってくださいね。 それが、仏の慈悲心であります。 てなわけで、おあとがよろしいようで。 それでは、みなさん、ナマステジーっ♬

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はてなブックマークでたまたまこちらの記事を見かけました。 ・日本に、この人がいて、本当に良かった。 | milieu(ミリュー) 塩谷舞さんという女性の運営する個人メディア milieu の記事なのですが、デザインも内容もプロフェッショナルで素晴らしい。 その記事は、高木正勝さんのインタビュー記事で、高木さんは細田守監督のアニメ映画「おおかみこどもの雨と雪」や「バケモノの子」の劇中音楽を担当した方なので、ご存じの方も多いかと思います。 塩谷さんは、記事の冒頭で、milieu というサイトを、 「社会的に意義のある記事を、広く届けなければいけない」とか 「記事を読んでくださる相手の時間を、1秒たりとも無駄にしてはいけない」とか そんな勝手な責任感により、一所懸命にやってます。 と書いてらっしゃり、それを見てぼくは、ニッポン社会のあまりの「忙しさ」と「頑張り加減」にちょっと驚いてしまいました。 というわけで今日は、塩谷さんの記事を題材にさせていただき、「ニッポンの消耗」について考えてみたいと思います。 高木正勝の純粋欲求にしたがった「遊び」が「仕事」になる生き方 「遊びを仕事に」できないなら「仕事を遊びに」しよう 「人の時間を1秒たりともムダにしない」から「人と一緒の時間をたとえ1秒でも大切にする」生き方へ 高木正勝の純粋欲求にしたがった「遊び」が「仕事」になる生き方 塩谷さんのこの記事は、『「全力でがんばる」症候群』にかかりやすい日本人に向けた、いわば「解毒剤」として書かれています。 高木正勝さんは、2009年のNewsweek日本版で「世界が尊敬する日本人100人」の1人に選ばれるほどの音楽家にして映像作家ですが、彼は京都との県境に近い兵庫県の山深い里、丹波篠山に住んでいます。 古民家を直して住んでいる高木さんの家で、人間型のカリンバをはじき、太鼓を叩く塩谷さんの様子は、彼女の記事で見ていただくとして、ここでは、彼女が使う「純粋欲求」という言葉を拾ってみます。 昨年、京都岡崎音楽祭2016「 OKAZAKI LOOPS 」での高木さんの演奏が『「純粋欲求」で成り立っていることに感動した』ことが今回の取材につながったと塩谷さんは言います。 そのときの演奏では、お客さんみんなが立ち上がり、西洋的なスタンディングオベーションとは違う、祭りのような状態で、「自分のズタボロな精神の穴にいのちが注がれる」感覚だったというのです。 それに答えて、高木さん自身が「あのときは、すごかったなぁ」と言っているので、それはいつもとは違った、演者と観客が一体となる「最高」の状態だったに違いありません。 ぼくもこちらのビデオを見ましたが、素朴さの中に心を動かされる何かが響いてきて、その場の雰囲気が伝わってくる、なかなかいい映像だと思います。 ・高木正勝 大山咲み「めぐみ」/ Takagi Masakatsu 'Megumi' - YouTube インタビューは、時として「仕事」に押しつぶされそうになる塩谷さんが、「仕事」から距離を取って「遊び」を「仕事」にしている高木さんの、その「最高」の状態を生み出すための「魔法」について聞き出すような展開になっています。 僕は、もうちょっとはみ出していくものが好きやねんな。歌が好きな人と一緒にいて「楽しくなってきたから、歌おう!」とはじまって、どんどん、どんどんその中だけで魔法が起こっていって、その場があって、そこに参加してる人がいて、自分も参加して。踊りだしたりとか。 と高木さんは言います。 この「魔法」を起こすのが、塩谷さんのいう「純粋欲求」ということであり、高木さんが「純粋欲求」によって生まれ、形になったものを「作品」として発表している様子がインタビューからうかがわれます。 「遊びを仕事に」できないなら「仕事を遊びに」しよう 「純粋欲求」にかなった活動をして、それが「仕事」として評価されるのは、最高のことでしょう。 けれども、それは誰もができるものではありません。 となれば、収入を得るために仕事をする必要があります。 その「仕事」の重圧に押しつぶされないためには、どうしたらいいのでしょうか。 一つの方法は、「仕事」を「遊び」にすることです。 「仕事」を生真面目に考えすぎていませんか? あまり真面目になりすぎず、「仕事」を「ゲーム」としてとらえたらどうでしょうか? 生真面目になりすぎて緊張して、いつもピリピリした気を放っていたら、うまくいくものもうまくいかなくなり、周りの人にも悪い影響が出かねません。 「ゲーム」だと思って、ゆったり構えることができれば、あなた自身も周りの人もリラックスして失敗が減り、却って仕事もはかどるのではないでしょうか。 「人の時間を1秒たりともムダにしない」から「人と一緒の時間をたとえ1秒でも大切にする」生き方へ weblog の指南術をネットで見ていると、 「せっかく訪れてくれた読者の貴重な時間をムダにしてはいけない」 というようなことが、よく書いてあります。 weblog運営の方法論として、それはそれで「正しい」考え方だとは思うのですが、人生に「ムダ」はつきものですよね。 というか、もしあなたの人生に「ムダ」とか「遊び」とかがなかったら、窮屈すぎてつらくないですか? 仕事でも同じことです。 わざわざムダなことをする必要はありませんが、どんなに忙しい仕事でも、大抵なんらかの「隙間」時間はあるはずです。 そういう「隙間」の時間に、「遊び心」をもって自分の「仕事」を振り返り、こんなのはただの「ゲーム」にすぎないんだ、と思えたら、張り詰めた心に、少しの余裕が生まれると思うのです。 スーパーのレジの仕事をしている方などを見ると、本当に「人の時間を1秒たりとも無駄にしない」ために、「必死」で仕事をしていますから、頭が下がります。 けれども、中にはそういう仕事を「余裕で」こなしてる人もいるんですよね。 これは「才能」の問題もあるかもしれませんが、どちらかと言えば「気持ち」の問題だと思います。 「必死で」こなしてらっしゃるみなさんには本当に申し訳ないのですが、「余裕で」こなしてる方に当たった方が、お客の立場としては気が楽です。 「結果」優先で考えるとどうしても、「ムダにするな」というような話になりがちです。 でも、人生で大切なのは「結果」だけじゃないですよね。 「過程」も大切ですし、その「過程」を楽しむことができれば、結局それが「結果」につながってくるのではないでしょうか。 だから、「あなたの時間を1秒たりともムダにしない」ように頑張るより、 「あなたとこうしてやりとりをする時間がたとえ1秒であっても、それを大切にして、意味のある、楽しめる時間にする」 ことを心がけたほうがいいんじゃないかなって思うんです。

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はてな村の皆さん、おはようさん。 はてな匿名ダイアリーの記事 ・働かざる者はどのくらい食えるべきなの? を題材に、頑張らない人生の話を書きます。 ぼくの考えは「頑張らなくても生活保護水準で食えるのは当然」です。 そして、頑張りすぎてるみなさんに、「もう頑張るのはやめたら?」という提案です。 なお、匿名ダイアリーについては、こちらで説明してますので、ご存じない方はどうぞ。 ・ニートの夢、ブッダの夢 - *魂の次元* すなお君の問題提起 - 頑張らない人のほうが、頑張ってる人より食えてたらヘン 「引き篭もってネトゲ三昧」は許される水準? 頑張ってる人が報われない社会 富裕層を敵視しても、頑張ってる人が報われる世界は訪れない 「長いものには巻かれろ」の社会で一人ひとりにできること あなたは「横並びゲーム」から降りられますか 今日から頑張らない - 長いものに巻かれずに生きていくということ すなお君の問題提起 - 頑張らない人のほうが、頑張ってる人より食えてたらヘン 件の匿名ダイアリーの記事を書いた方を、ここではすなお君と呼ぶことにします。 「アリとキリギリス」の寓話を素直に受け止めて、 頑張らないと生きていけないってのが共通認識だと思っていた。 とおっしゃっているからです。 すなお君は、「頑張れない」人が生きていけない社会には疑問を感じながらも、 「頑張らない人が頑張ってる人以上に食えるとしたらなんかすごい変。努力が報われるところにやりがいがある、それが自然だと感じる。 ということを問題提起した上で、 「じゃあ、頑張らない人には、どのくらいの水準が保障されるべきなのか?」 と問いかけています。 「引き篭もってネトゲ三昧」は許される水準? すなお君は、「生活保護水準」が保障されるのは当然で、その先の具体的な話がしたかった、と書いており、 ・はてなブックマーク - 働かざる者はどのくらい食えるべきなの? では『「引き篭もってネトゲ三昧」くらいは許されるべき』というコメントがあり、この意見には星が45ついていて、賛同者がたくさんいます。 これはこれで、まったく結構なことなのですが、どなたかのブックマークコメントにもあったように、保障された収入の中で何をするかは、まったく「個人の自由」ですから、具体的にどういう内容が保障されるかについては「議論して合意を得る」というような性質のものではないと考えます。 収入を節約して貯めたお金で、「飲み屋で豪遊」しようが、「海外旅行」をしようが、それは本人の自由のはずです。 生活保護だから、「車を持ってはいけない」とか「決められた家賃以上の物件に住んではいけない」というような現状での運用に、むしろ疑問を感じます。 頑張ってる人が報われない社会 すなお君が提起している問題のうち、 「頑張って働いている人のほうが、働かないで生活保護を受けている人よりも収入が少ない場合がある」 というところが、重要なポイントに思えます。 しかし、すなお君の話の進め方では、 「だから生活保護の人間はつましく生きろ」 とかいうほうに流れがいってしまいがちです。 すなお君自身は、ほんとに素直な方なので、そういうつもりはないようですが、「素直」であるということは「社会の流れ」に流されているということであり、それはある意味、 『「統治者」に都合のよい考えに慣らされている』 ということでもあります。 ですから、ここではむしろ 「頑張っている人も頑張らない人も報われる社会」 を構想したほうがいいじゃないか、と思うのです。 富裕層を敵視しても、頑張ってる人が報われる世界は訪れない 資本主義的な「弱肉強食」の社会に対して、社会主義的な「平等」な社会というのは、アンチテーゼとしては当然ありうるのですが、戦後72年間の日本と世界の情勢を振り返ってみると、「富裕層」を「敵視」するような形での「共産主義思想」はすでに破産しているように思われます。 富裕層からきちんと税金を取り、国民全体の福祉を充実することで、社会全体の安定をはかる社会民主主義的な施策は、今後の日本にも当然必要ですが、そうした施策が「富裕層」に対する「敵視」から生まれてくるとは思えません。 国民一人ひとりが「長いものには巻かれろ」で、「お上には楯突かない」生き方をしているのですから、いくら「お上」を「批判」しても、鬱憤は晴れるでしょうが、現実に対して大きな影響力を持ち得ないことは、近頃の安倍政権のあり方とそれに対する批判を見ていれば明らかではないでしょうか。 「長いものには巻かれろ」の社会で一人ひとりにできること ブックマークにつけられたこのコメント フランスで売れ残り食品をフードバンクに提供させる法律ができたらしいけど、日本でまだ食べられるのに捨てられる食品ロス(コンビニ廃棄とか賞「味」期限切れとか)は年間632万トンでニート3500万人は養える計算です http://b.hatena.ne.jp/entry/339683827/comment/mcgomez には、83の星がついています。 この計算の妥当性はぼくには分かりませんが、現代の高度消費社会というものが、さまざまな「無駄」の上になりたっており、その「無駄」を減らすことで、いろいろな問題を解決できる可能性があるのは確かでしょう。 しかし、日本の現状の政治・経済体制の中で、フランスと同じ施策が行なわれうるかというと、そこはまた難しいところでしょう。 難しくても、その実現のために努力していくことは当然ですが、それが実現されないからといって、ただ政府を責めているだけでも仕方がありません。 そのとき、ぼくらにやるべきなのは、「長いものには巻かれろ」の社会の中で、けれども自分は「長いものには巻かれずに生きていく」ということのように思うのです。 あなたは「横並びゲーム」から降りられますか こんなことを書いているぼく自身は何者かというと、五十を過ぎて定職にもつかず、インドあたりをふらふらしているだけの、「生産活動ゲーム」にはほとんど何も貢献していない「穀潰し」人間です。

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としべえ2.0β

北インド・ハリドワル辺りに出没中。

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