先日来、匿名ダイアリーの記事 ・30過ぎて100万も貯金が無い奴は信用できない がにぎやかに取りざたされているのが、気になっておりました。 ネット上での議論というものは得てして、 「あの話はおかしい」 とか 「おれの話を聞け」 とかいうことになってしまって、そういうやり取り自体はおおむね「不毛」なのですが、そうした「不毛な荒野」にも幾粒かの真実の種が埋まっていたりするのも、普通にあることです。 というわけで、今日のメニューはこんな感じです。 いい大人が100万円貯金してないなんて、ありえないよね でもさあ、貯金なんて一銭もなくても、生きていけるじゃん てゆーか、みんな常識にしばられすぎなんとちゃうん? 50すぎで貯金ゼロでも、社会的な「信用」くらい持ってる話 (ただし、ささやかな信用だよ) 不毛な議論に三本の毛を生やす方法 いい大人が100万円貯金してないなんて、ありえないよね 匿名さんの主張は、「30すぎて貯金が100万円ない人間は信用できない」ということで、 「なるほど、そうですか。信用できないんですねー。うんうん」 と聞くしかないようなお話です。 人間、どんな主義主張を持とうと自由ですから、これをお読みのあなたにも、 「こういう人間だけは信用できない」 というような思いがきっとあるだろうと思います。 ただ、多くの「良識的」な人間は、そういうことをわざわざ声高にネットで主張はしない、というだけのことですよね。 でもさあ、貯金なんて一銭もなくても、生きていけるじゃん 上の匿名さんの記事に対して、ポジ熊さんという方が、 ・貯金100万円どころか借金もろもろ3,000万弱ある - ポジ熊の人生記 という記事を書いてらっしゃいます。 「貯金はあったほうがいいけれど、ないからと言って、責めるような話じゃない」 というような内容です。 いたってまっとうな意見なのですが、ぼくとしては、ひとつ気になる一節があります。 ギャンブル癖などは、個人的に改善できる浪費だと思います。次いでソーシャルゲームの課金や暴飲暴食でしょうか。ここらへんは、見直すのも悪くないですよ。 ここでポジ熊さんが「浪費」といっているものは、過剰なストレスに対する防衛反応としては、ごく自然なものなんですよね。 自然なものだけれど、度を過ぎると、「依存症」と呼ばれる状態になって、社会的な生活が破綻します。 注意が必要なところですし、同情の余地は大いにあります。決して責めるべきではないし、責めたからといって解決するものではありません。 そして、ギャンブル依存やソシャゲ依存で生活が「破綻」したとしても、日本は「先進的」な福祉国家であり、「法律」にのっとった救済の仕組みがありますから、貯金なんてなくても、健康で文化的な最低限度の生活が「保障」されています。 とすれば、事情があってもなくても、貯金を持つか持たないかは、個人の自由の範囲だと言えるのではないでしょうか。 ついでに、「最低限度の生活」がなぜ保障されているのか、ということについて一言。 「最低限度の生活」を保障するために「生活保護」という制度があって、病気などで働けなくなっても、安心して暮らすことができるのですが、これは決して「お涙頂戴」の慈善事業ではありません。 そうではなくて、この制度は、仕事につくことができず、生活に困った人が犯罪に走ったりすることで、社会的な安定が崩れることを防ぐために、社会の安全を保障する制度としてあるものです。 ですから、「お金に困った人を自分たちの税金で食わせてやってる」などと思うのは、多分に「曲がった」考え方です。 実際には、自分たちの「社会の安全を守るため」に必要な経費だからこそ、税金でまかなう価値があるのです。 てゆーか、みんな常識にしばられすぎなんとちゃうん? 匿名さんは、100万円貯金がない人を切り捨て、ポジ熊さんは浪費癖のある人を切り捨てます。 誰がどんな考えを持とうが、各人の自由ですから、否定はしません。 でも、 「100万円の貯金がなくなったら誰にも相手にしてもらえない」 とか、 「依存症になったら人生おしまいだ」 とかいうのって、人生観としてすごく窮屈じゃありませんかね? 現にぼくは、貯金ゼロで住所不定・無職ですし、アルコール依存でクリニックに通った経験もありますけど、とりあえず元気に生きてます。 インドあたりをぶらぶらしてて、ひと月三万とかで暮らしてる仙人系の人間ですから、日本の一般的なみなさんの生活とはかけ離れてはいますけど。 で、かけ離れた立場だからこそ言うんですが、日本ってかなり「均質的」な社会で、その中でも「似たような」人間同士で付き合うから、「常識」の幅も狭くなりがちだと思うんですよね。 自分の「常識」の限界を見直すためにも、少し違う「世界」を見たほうが、 「人生楽になるんじゃないのかなー」 などと、お節介なこととは知りながら、思ってしまう私なのでした。 50すぎで貯金ゼロでも、社会的な「信用」くらい持ってる話 (ただし、ささやかな信用だよ) お金も地位も名誉もなくても、信頼できる友人を持てるのは当たり前すぎる話です。 芥川の「杜子春」じゃありませんが、お金がなくなって去っていくような関係の人は、友だちとは言えませんからね。 ・芥川龍之介 杜子春 ・「杜子春」をアマゾンで見る それで、ここで書く「信用」というのは、経済的な話でして、簡単に言っちゃえばクレジットカードのことです。 クレジットカードというものは、社会的な「信用」がなければ作ることができません。 そしてそれは「貯金が100万あるかどうか」とは関係がありません。 カード会社も商売ですから、とにかく毎月使ってもらって、毎月払ってもらえればいいわけです。 基本的には「毎月安定した収入」があることが前提です。 でも、それは「建て前」というやつでして、

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敬愛するはてな村の友マミーさんのブックマーク経由で、九尾【coconoo】さんの記事に出会いました。 ・包丁研ぎとカブトムシ。 - coconoo doll この記事についたマミーさんのコメントが、 トウモロコシ3本で100円!すっごい安い!お腹いっぱい食べたい? というものだったので、 「包丁研ぎに、カプトムシ、おまけにトウモロコシとは何者?」 と思ったわたしなのですが...... 。 というわけで(?)、今日はトウモロコシの話です。 coconooさんは、球体関節人形というものを作ってらしゃる方で、ブログのヘッダ画像を見ていただければ、その妖しい魅力は一目瞭然と思います。 そして、そうした工芸作家としてのお顔とともに、里山ぐらしのガーデニングの話なども書いてらっしゃって、自給自足が憧れのぼくからすると、 「あっ、いいなー」 というのが、最初の感想です。 というところで、今日の話題のトウモロコシの話に入るのですが、 「3本100円」 は、いくらなんでも安すぎますよねっ!! でも、そういうちょっとした「意表」をつく話こそ、この世界の秘密を表してる気がするんですよ。 というのは、一口に「安すぎる」といっても、それは、あくまでも「都会」を基準にした話であって、coconooさんのお住まいがどちらかは分かりませんが、すこしばかり田舎に足を伸ばせば、結構お買い得なものって、いっぱいあるからなんです。 ぼくは一時期、東広島に住んでいたことがあるのですが、たとえば農協の直売のお店で、生産者の方の名前入りのいろんな野菜が、申し訳なく思うくらいのお安い値段で売っていることには、正直に言って感動を覚えたものです。 と、それにしても、トウモロコシが3本100円は安いですし、おまけにぼくはお金の感覚に弱い人間なものなので、一瞬、 「えっ、それってインドより安くない?」 と思ってしまいました。 でも、さすがにそれは勘違い。ひと桁くらいは値段が違いました。 今ぼくはインドの西、ラジャスタン州のプシュカルという小さな街にいるのですが、やや痩せ気味の焼きトウモロコシが、屋台で1本10ルピーで売ってます。 日本円にすると17円かそこらですから、3本買っても50円かそこらです。 しかもこれは、焼いてあるトウモロコシの話ですし、お好みによってレモン汁を塗ってもらったりもできて、これがまたおいしい。 生のトウモロコシがいくらで売ってるかは知らないもんで、ややいい加減な話ですんませーん。 トウモロコシについては、自分で育てた「しょぼいトウモロコシ」や、本場アメリカ大陸で食べた「おいしいソース付きの焼きトウモロコシ」とか、いくつかネタがあるのですが、今日はとりあえず、このくらいにしておきます。 てなわけで、みなさん、ナマステジーっ♬

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はてな村のみなさん、アッサラーム・アライクム!! (今日はイスラム式あいさつですが特に意味はありません) そして、ほぼひと月ぶりの更新にも関わらず、内容もほとんど脈絡のない三題噺ですが、さてまあ、いってみましょうか。 夜中たわし氏による「しりとりゲーム紹介記事」の紹介 ブログサークルというサービスに登録してみた そしたら、はてなからはpingが送れないらしいので、IFTTTで自動化してみた 夜中たわし氏による「しりとりゲーム紹介記事」の紹介 私が私淑するはてな村の先輩、夜中たわし氏のこちらの記事ですが、 ・【近況】PCが壊れそう/ヌートンに寄稿しました - 夜中に前へ 「PCが壊れそう」 とのことで、ご愁傷さまでございます。 ハードディスクはどうしても寿命がありますし、SDカードなども何のはずみでぶっ壊れるか分かりませんから、まめにデータはバックアップしておきたいものですが、生来の無精者ゆえ、ときどきデータがふっとんで泣きを見ているわたくしであります。 人間は、失敗を繰り返しながら学んでいくのか、それとも死ぬまで失敗を繰り返していくのか、この二つの間のビミョーな線のあたりをふらふらしながら、ぼくの人生は進んでいくようです。 と、手前勝手な自分語りはさておき、たわしさん、ヌートンというメディアにデビューされたとのこと、おめでとうございます。 ・語彙力で戦うカードゲーム「ワードバスケット」が楽しい! | ヌートン 新たな情報未発見メディア こちらの記事ですが、カードを使ってする「しりとりゲーム」の紹介でありまして、別メディアで読むと、いつもの「たわし節」が、また一層味わい深く楽しめます。 ただし、「しいたけ菌」の毒性が致命的なこともあるようですので、閲覧にはくれぐれもご注意ください。 ブログサークルというサービスに登録してみた 話は完全に変わりますが、たまたま、ネットで見つけたブログサークルというサービスに登録してみました。 ・とし兵衛│プロフィール│ブログサークル ブログのランキングのサービスは使っている人も多くよく見かけますが、ぼくの場合、順位をつけられるのはあんまり嬉しくない。でも、せっかくだから宣伝はしてみたい。 そんなことを考えていた折に目に入ったこちらのサービスは、ブログを書いてる者同士がソーシャルなつながりを作るためのツールということのようです。 はてなブログの中や、はてなブックマークを使ったつながりに、プラスアルファする形で、広がりがもてるかもしれないなぁ、などと思っております。 まだ登録したばかりの段階なので、実際に使ってみての感想は、しばらくしてから書きたいと思います。 そしたら、はてなからはpingが送れないらしいので、IFTTTで自動化してみた さて、ブログサークルのようなサービスでは、登録したブログの情報をpingという仕組みを使って更新して、ユーザが見れるようにしてくれます。 ぼくの場合は、このブログを登録したことで、ブログサークルのユーザのみなさんに読んでもらえるようになるわけなんですが。 残念なことに、はてなブログには、この「ping送信」の機能がない模様。 まあ、新しい記事を書いたら手動で更新してやればいいだけの話なんですが、どうせなら自動でやりたいのが無精者の人情というもの。 そしたら、こちらの記事に ・はてなブログで自動的にping送信する方法 - くるくるパーマとANAマイル IFTTTという洋物のサービスを使って自動化するやり方が出てました。 英語が苦手な方には、ちょっとだけ大変かもしれませんが、文章と画像にしたがって順番にやっていけば、特にむずかしいことはありません。 ただし一箇所、変更点があります。 「Step 3 of 6 Choose action service」のところで、「maker」で検索しても必要なサービスはでてきません。 「webhooks」で検索すればOKです。(サービスの名前が変わっちゃってるため) それから一番最後に「Appletに名前をつける」という話がありますが、これは「if new feed item from .... 」とかいう英語の説明の部分を「ブログサークル用」みたいな名前にしておくと分かりやすくていいよ、という話ですね。 というわけで、この記事のpingが自動で送られてたら万々歳、というお話なのでありました。 てなわけで、この記事はおしまいです。 それでは、みなさん、ナマステジーっ♬

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アメリカで流行っているマインドフルネスとは? マインドフルネス瞑想はあなたの脳を変える 生産性や創造力は本当に上がるの? まずは1日5分から。今日からはじめるのがポイントです アメリカで流行っているマインドフルネスとは? アメリカのビジネス界で大人気のマインドフルネス瞑想、あなたはご存知ですか。 グーグル、アップル、ナイキ、マイクロソフト、ソニーなどなど、アメリカでは大企業が、社員の精神衛生と生産性向上のために、マインドフルネス瞑想を取り入れています。 瞑想には、次のような効果があると考えられるからです。 ストレスをやわらげる うつ的気分を減らす 不安感が少なくなる 痛みの緩和 不眠の解消 結果として、生活の質が上がることになり、生産性の向上にも結びつき、社員にも会社にも利益があるというわけです。 マインドフルネス瞑想はあなたの脳を変える 瞑想には、「効いた気がする」という曖昧な心理的効果だけでなく、実際にあなたの脳を変える力があります。 運動をすると筋肉がつくように、瞑想をすることで脳の灰白質という物質が増えて、脳の処理能力が高まるのです。 こうした脳の変化によって、ストレス、うつ的気分、不安感が減少し、痛みの軽減や不眠の解消の効果も期待できるわけです。 一日30分程度の瞑想を八週間続けることで、効果が現れることが、実際に研究によって確かめられています。 *1 生産性や創造力は本当に上がるの? 注意力や意志力が上がることが生産性の向上につながることは、想像しやすいだろうと思います。 マインドフルネス瞑想では、自分の呼吸や体に起こっている感覚に注目し、快・不快の気持ちにとらわれずに、感覚自体をありのままに感じる練習をします。 呼吸に意識を向けているときに、雑念が起きても、それについて考えることはせず、かといってそれを追い払おうともせず、ただ、「雑念が起こったな」と意識したら、また注意を呼吸に戻します。 こうした練習を続けることによって、自分の気持ちの変化にも、落ち着いて対処ができるようになるのです。 たとえば、作業をしていて疲れてしまい、「あー、もうやめたい」と思ったとします。 瞑想に慣れていれば、ここで、「今、自分はもうやめたいんだな」と落ち着いてその気持ちを受け止めて、二、三回深呼吸をしたあとで、「でも、きりのいいところまでやっておこう」と、前向きに作業を続けることができるようになります。 作業をいやいや続けるのとでは、効率が違ってくるはずですよね。 また、創造力については、残念ながら科学的な根拠となるようなデータはありませんが、瞑想によって雑念や先入観にとらわれないようになることで、それまではなかったような発想が得られるようになることは十分期待できるでしょう。 瞑想の練習を続けていくと、感情的な好き嫌いなどの先入観が減っていき、以前なら無意識的に払いのけて見落としていたような解決策が、頭にふっと浮かんでくる、というようなことが起き始めるのです。 また、無意識のうちにいろいろな雑念にとらわれるようなことも減っていきますから、心の落ち着きが増し、自分に自信を持てるようになって、自分の感じていることを信頼できるようになることも、発想力の豊かさにつながるでしょう。 常識的には一見ばかげていることでも、深く考えたときには正しいことがありますし、瞑想によってとらわれなく物事を見ることができるようになれば、そうした普通には気づけないことに気づき、その正しさの可能性を深く探ることができるようになるからです。 まずは1日5分から。今日からはじめるのがポイントです 「ひょっとして瞑想もいいかもな」 もしも、あなたがそう思ったならば、ぜひ今日からはじめてください。 寝る前に楽な姿勢で、5分間、吸う息と吐く息を意識するだけです。 夜寝る前と、朝起きたあとにやるのが一番ですが、やりやすいほうだけでもいいでしょう。 無理ない範囲で毎日やって、慣れてきたら、5分を10分に、10分を30分にと伸ばすことができたら、最高です。 * * * こちらは別サイトの記事ですが、瞑想のやり方について書いていますので、よろしければお読みください。 ・これなら簡単、誰にでもできる瞑想のやり方・方法 - 24 時間の瞑想術 というところで、この記事はおしまいです。 それでは、みなさん、ナマステジーっ♬ [参考サイト] ・Harvard neuroscientist: Meditation not only reduces stress, here’s how it changes your brain - The Washington Post *1:一日30分程度の瞑想を八週間することで、自己認識や雑念に関わる後帯状皮質、情動の調節・学習・認識・記憶に関わる左の海馬、空間の認識や共感に関わる側頭頭頂接合部、脳幹の一部であり様々な神経伝達物質の生産に関わる脳橋においては灰白質が増加し、不安・恐怖・ストレスに大きな関わりを持つ扁桃体は小さくなるという研究があります

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はてな村のみなさん、おはようさんです。 みなさん、ハルオサンのことは、ご存知でしょうか。 「警察官をやめさせられた話」で彗星のごとくデビューし、その控えめながらも、ところどころにブラックユーモアを感じさせる独特の筆致と、へたうまで、なんとも味のあるイラストで大人気のブロガーさんです。 もし、ご存知でなかったら、まずはこちらの二本の記事を読んでみてください。社会派で心理サスペンス感ばっちりの、読み応えのある記事ですよ。 ・警察官をクビになった話その① - 警察官クビになってからブログ ・警察官をやめさせられた話②完結編 - 警察官クビになってからブログ さて、そのハルオサンが、 ・最近ブログで飯を食べている事について - 警察官クビになってからブログ という記事を書いてらっしゃいます。 ハルオサンは、ブログに広告を貼ったりはしていないのですが、他サイトへのコラム執筆や記事投稿で、月10万円ほどの収入があるというんですね。 うーん、これは凄い...... 。 それでちょっと考えてみることにしました。 ぼくはなんでネット上に記事を投稿しているのか ほかの人はどうなんだろう? それで、広告を貼るのってどうなんだろう? 今日はそんなような話です。 ぼくはなんでネット上に記事を投稿しているのか ぼくはもともと「作家になれたらいいな」というような感じの、いい加減で曖昧な願望にもとづいて文章を書き続けてきた人間です。 その昔、「奇想天外」というSF小説の雑誌で、新井素子さんという作家が17歳でデビューしたのを見て、彼女より四つ年下だったぼくは、 「あと、四年のうちにデビューできたらいいな」 と間抜けにも考えました。 考えるだけで、ロクに書きもしませんでしたから、デビューもへったくれもないのですが、仲間と同人誌ごっこはしていたので、ほそぼそながらコラムのようなものは、書き続けていました。 そんなようなものが、形を変えながら続いてきて、今ここに書いているようなものにつながってきているわけなので、じゃあ、それはどういうことなのか、というと、 「自己承認欲求」 の一つの形なんだろうな、と思うのです。 ほかの人はどうなんだろう? ほかのみなさんが、どういう気持ちからネット上で文章を書いているか、というのは、当然、人それぞれに決まっています。 そうではあるのですが、すごく一般化したところでくくってみたとき、 「自己承認欲求」 みたいなことが、一つ重要な要素としてあるとは、思うんですね。 もちろん中には特別な方がいらして、 純粋にお金もうけのためにやっていて、 そのお金は自分の楽しみだけのために使っていて、 一切まわりの人のことは気にしていない というような場合もあろうかとは思います。 けれども、それはホントに特殊なケースで、仮にお金のためが目的でも、 お金を稼げる自分を人に認めてもらいたい、とか、 お金を稼いで周りの人のために使って、関係性をよくしたい、とか 自分と周りの人との関係性というものが、多くの場合大切なものだろうと、思うのです。 ですから、それは「承認欲求」というよりは、「コミュニケーションの欲求」といったほうがいいかもしれせん。 仮に人に見せない「日記」のようなものであるとしても、書き言葉として表現する以上、「過去や未来の自分との対話」として、そこではコミュニケーションが行なわれているのだと思います。 そして、相手に伝わるかどうか以前に、言葉として表現すること自体にコミュニケーションの意味があり、それは、心の中のもつれやもやもやに形を与えることで、人の内的欲求を解決するものなのだと思うのです。 それで、広告を貼るのってどうなんだろう? さて、ここで唐突に「広告」の話になるのですが、ハルオサンは、 自由にブログというものを突き詰めていきたい。 から広告は貼らないのだ、と書いています。 実にいさぎよいですよね。 そのあまりのいさぎよさに、 「ぼくもみならってアドセンスはずそうかなー」 と思ってしまいました。 でも、ぼくはヘタレなので、はずさずにそのままにしておきます。 このページは蝶閑古鳥なので、あってもなくても似たようなものですが、宝くじに夢をかける一庶民、みたいな感じで(笑)。 そのくせぼくは、 「記事を読むときに広告があるとうるさいんだよなー」 とか、勝手なことを思ってます。 かように人間というものは、勝手な生き物であり、矛盾した多数の欲求を抱えているわけであります。 でもまあ、それも人間、あれも人間。 人間、結局なんでもありですよね。 人に迷惑さえかけなければ、何をやっても自由だし、思わぬ所で人に迷惑をかけてしまったら、そのときはちゃんと謝ればいいのだし、とにかく自分の人生の責任は、自分で取るしかないという、当たり前の話なのです。 それにしても、広告とかページビューとか考えると、いろいろ余計なことを考えて好きに書けなくなる、というのは確かにあります。 ですから、あまりそういう二次的なことにとらわれないで、自分が書きたいものはなんなのか、自分が楽しく書けるものはなんなのか、そういう基本的な欲求にもとづいて、今後も書いていけたらなーと思うのでありました。 というわけで、特にまとまらないまま、今日の記事はこのへんで終わりにします。 最後にハルオサンの記事を紹介しておきましょう。

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『一瞬で「完全に自由」に生きられるようになる「魔法」の考え方』なんてあるわけないじゃないか。 あなたがそう思うのも無理はありません。 人生は思わぬできごとの連続です。その中で「思いのままに」そして「自由に」生きることのなんとむずかしいことか......。 けれども、本当は自由に生きるのは簡単なことなんです。 いえ、「簡単」どころではありません。 あなたは、最初から「完全に自由に」生きているのです。 この記事では、「完全に自由に」生きているのに、なぜ、それを実感できないのか、それを実感するためにはどうすればいいのかを、書いてみることにします。 あなたのすることは「すべて」あなたが決めている 自分で決めているのは分かった。でも「自由」の実感なんてないよ? 「恐れ」があると「自由」が感じられなくなる 自分の人生なんだから、変えるも変えないもあなたの「自由」です みんなが「窮屈」な人生を生きている時代だからこそ、あなたは「自由」に生きていい あなたのすることは「すべて」あなたが決めている 「あなたは最初から自由なんだ」 と言われていも、そんなわけないよ、と思うでしょう。 したいことはいっぱいあるのに、なかなかできないし、したくないことをたくさんやらなくちゃならない。 それなのに完全に自由だなんてありえない、と。 でも、考えてみてほしいのですが、あなたがやってることは、 「全部あなたが自分で決めてやってる」 ことじゃありませんか? あなたは勉強したくないかもしれませんし、働きたくないかもしれません。 けれども、実際にやっている以上、それはあなたが 「やりたくはないけれど、しかたがない、やろう」 と思ったからということですよね? 誰かにおどかされて、やりたくないことをやる、というような極端なケースの場合はどうでしょうか。 その場合も、やらなかったときとやったときのメリットとデメリットを考えて、あなたはそれを「やることにする」か「やらないことにする」かを決めることができます。 たとえ自分の命がかかっていたとしても、同じことです。 自分の命を捨ててでも、「やりたくないことはしない」のか、 自分の命を優先して、「やりたくないことをするのか」、 それを決めるのはあなたなのです。 自分ですることは、すべて自分で決めているのですから、あなたは「最初から完全に自由」なんです。 このことを忘れないだけで、あなたは「いつでも完全に自由」です。 「自分は完全に自由だ」と紙に書いて、いつも目に入るところに貼っておいてください。 それを見るだけで、あなたは「自分が完全に自由」なことを、一瞬で思い出すことができるようになります。 自分で決めているのは分かった。でも「自由」の実感なんてないよ? どうして、自分で「自由に」決めているのにも関わらず、「自由に生きている」という実感がないのでしょうか? それはあなたの中に、矛盾するいくつもの欲求があるからです。 朝目覚ましが鳴ります。 起きなくてはなりません。 でも、もっと寝ていたい。 「起きよう」とする意志と、「寝ていたい」という欲求の綱引きが起こります。 あなたが本当に寝ていたいのなら、別に起きる必要はありません。 けれども、今日はデートの日です。好きな彼・彼女に会いたい。そのためにはもう起きなきゃならない。 だから、あなたは「寝ていたい」という欲求を捨てて「起きる」ことにするのです。 人間の中には、たくさんの矛盾する欲求や、同時にはかなえられない願望があります。 それ自体は自然なことです。 ところが、「あれをしたい、でもこれはしたくない」といった欲求同士のバランスが崩れてしまい、したくないことばかりを「選択する」ようになってしまうと、「自由を実感する」ことができなくなってしまいます。 けれども、どうして 「したくないことばかり選択する」 などということになるのでしょうか? 「恐れ」があると「自由」が感じられなくなる おいしいものが食べたい、 たっぷり眠りたい、 気持よく体を動かしたい、 友だちと楽しく過ごしたい、 こうした欲求は、人間の持つ基本的な欲求ですから、あなたが「自由を実感したい」のならば、これをまず大切にする必要があります。 それに対して、 自分の価値を高めたいから、勉強する お金がほしいから、働く 人に認められたいから、がんばる といったことは、二次的な欲求です。 「自由を実感する」ためには、「二次的欲求」ばかりが優先されてしまっている状況を改める必要があります。 けれども、それがむずかしい? お金を得るために働いているはずなのに、十分なお金が得られなかったり、お金はあっても、それを使う暇がなかったり、それどころかいつも睡眠不足だったり。 どうして、そうなってしまうのでしょうか? それは、あなたが「社会のルール」にしたがうことに慣れすぎてしまって、そこから一歩踏み出すことができなくなってしまっているからではないでしょうか? あなたは「頑張らなければ生きていけない」という「〈恐怖〉の人生ゲーム」を毎日プレイしているのではないでしょうか? 自分の人生なんだから、変えるも変えないもあなたの「自由」です もし、あなたが「〈恐怖〉の人生ゲーム」を毎日プレイしているとしても、それもあなたが選んだことですし、それを変えるか、変えないかはあなたの「自由」です。 けれども、ここで考えてほしいのは、それを「変える」のは、実は

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[xevraさん、間違えてzevraさんにしちゃってました。ごめんなさーい] この記事では、xevra さんの ・神は居る でも宗教は無力である事は証明されてる - xevra's blog について、納得のいく点と、そうでもない点についてつらつらと書いてみます。 xevraさんが書くに、 人間、より良く生きていく上で現実を正しく認識する事は大切だ。 まったく同感です。 今我々が生きているのは、今から138.2億年前にビッグバンと言う大爆発があって宇宙が出来上がったからであるが、もし、神が居るとするならばここに関わった存在以外には考えにくい。 これは、ビッグバン仮説を信じるならば、という前提で、納得します。 しかし、こういう考えはどうでしょうか? たとえば、ニュートンが考えるように、4000年前に全能の神がこの宇宙を無から創り出したとしたら? もちろん全宇宙の従う物理法則から何からと、初期値としての世界のあり方もすべて含めてです。 あたかも宇宙全体が、138.2億年前のビッグバンから始まったかのような初期設定で、また、地球は45億年前に生まれ、その上で生物が生まれ、進化し、人間が誕生したかのような、精密な初期状態で世界を創り出したとしたら? 全能の神が、そのように世界を創り、しかも全能の神のみを信じるものを救うような、人類には計り知れない計画を持っていないと、論破する根拠はありうるでしょうか? これは別に、ぼくがそのような世界観を信じるという意味ではありません。ただ、例えば、アメリカのキリスト教根本主義の方々が、このような信仰を持っていたとしても、ぼくには論破できない、という話です。 * * * 人生において大切なのは、いい人生を形作るために合理的なアクションを重ねる事だ。科学的に運動、瞑想、睡眠、野菜摂取の徹底が大脳生理にいい効果を持ち、脳の動作が安定する事は判明している。であれば、これらを徹底する事が一番重要であり、でっち上げられた宗教に入れあげる事など止めるべきだ。 「運動、瞑想、睡眠、野菜摂取の徹底が大脳生理にいい」ということは、概ねその通りだと思います。 しかし、前節で述べたように宗教的観念には一定の合理性がありますから、それを「でっち上げ」というのは、かなり「片寄った」考え方に思えます。 xevraさんの、「運動、瞑想、睡眠、野菜摂取の徹底」という考え方自体は悪くないと思いますし、ぼく自身、日頃大切にしていることです。 しかし、「宗教よりも睡運瞑菜がいい」というのは、事実というよりもxevraさんの信念でしょうし、とすれば、それを他者に「強要」するかのような言説は、ただの「原理主義的」言説にしか思えません。 xevraさんが「睡運瞑菜」を信じることで「心の安定」を計っているように、宗教によって「心の安定」を計っている方もいるわけですし、あるいは、「原子力」を信じることによって「心の安定」を計っている方もいらっしゃるわけですから、残念ながらxevraさんの「強弁」には説得力がない、としか言いようがありません。 とはいえ、人は自分がしたいことをすればいいわけですから、xevraさんが「睡運瞑菜」原理主義を貫くことは誰にも否定できないことです。 願わくば、瞑想を通じてxevraさんが「原理主義の限界」を体得していただけますように。 以上、中途半端な瞑想の心得しかないものが、余計な口出しをしてもうしわけありませんでした。 最後まで読んでいただいたみなさん、いつもありがとうございます。 それでは、みなさん、ナマステジーっ♬

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今日もインターネット密林(ジャングル)にお集いのみなさま、元気にやってますかー。 ところで、あなたは、ひょっとして、 働かないのは「悪いことだ」 と、思ってませんか? そう思って「いけない理由」もないのですが、どちらかと言えば、窮屈な考え方じゃないかなあ、と思いまして。 というわけで、今回は、政治学者・栗原康さんの著書「はたらかないで、たらふく食べたい」をネタにさせていただき、このページでは何度も現れるテーマ「働かなくてもいいじゃん」の変奏曲をお送りします。 「はたらかないで、たらふく食べたい」を書いた栗原康さんは、大杉栄や伊藤野枝の評伝を書いている政治学の研究者です。 東北芸術工科大学で非常勤講師をしてらっしゃるのですが、これはいわばアルバイトに近い仕事ですよね。 いわゆる定職についていないわけです。 そして、定職にもつかず、実家で好きなように勉強し、好きなように本を書き、稼ぎは少ないけれども、自由に生きている。 そうした彼の「自由な生き方」をこちらの本に書かれているわけです。 * * * まあ、「プチブルの高等遊民」といってしまえば、それまでなのですが、そして、ぼく自身が「プチブル高等遊民の失敗事例」みたいなものでありますから、「そういう非生産的なあほうは大概にしなさい」という声がどこかから聞こえてきそうな感じです。 でありますが、というよりは、ですからこそ、 「プチブル高等遊民」でもいいじゃないですか とアジの開き直り的に私は主張したいのです。 * * * 栗原さんのインタビューがこちらにあります。 ・【訊いてみた】いま最注目の政治学者、栗原康さんに訊いてみた【前編】 | ひき☆スタ - ひきこもりから『社会』にメッセージを。 インタビューで、「はたらかないで、たらふく食べたい。これがあたらしい格言だ」という言葉について、どうしたらそんなふうに強く思えるか、と聞かれています。 それに対する栗原さんの答えは、もともと強く言えていたわけではない、というものです。 大学院博士課程を満期退学後、五年ほどほぼ仕事がなく、週にひとコマだけ非常勤講師をしていて、年収10万、という時期があったそうです。 月収10万、じゃありませんよ、年収10万です、年収!! そして、実家にいて、好きなように本を読んだり、ものを書いたりしていたわけですから、親や近所の人や親戚から当然いろいろ言われます。 特に最初のうちは親から相当いろいろ言われたため、栗原さんは「とにかく謝る、土下座する」という技を身につけた、というんですね。 栗原さんの言葉を引用します。 なにか言われたら、とりあえず謝る。土下座して、「もうちょっとしたら稼げるようになるから、もうちょっと、もうちょっと」なんて言いながら、お小遣とかもらったりして。案外それを何年間も続けていくと、親もだんだん折れてくるんですよ。 だから、最初から強かったわけじゃなくて、謝ればいけるぞと、少しずつ思えるようになっていったんです。それを続けていたら、やりたいことがあるからお金にならなくてもやるぞといったふうに、開き直れるようになって、そしてそのほうが意外と楽だなと思えるようになりました。 恥ずかしながら、この私も、五十を過ぎた身で、ロクに収入がないままインド辺りを漂っている人間ですから、日本に帰国する旅費にもこと欠いて、母親に無心するような人生を送っています。 しかし、老齢の母に無心することを「悪いことだ」と思うのか、それとも、そうやってお金を送金してもらうことを「ありがたいことだ」と思えるのか、これは人生の分かれ目になるものだと思います。 ぼくは自分のことを、五十になっても独り立ちのできない「情けない」人間だ、と思うのと同時に、そんな「情けない」人間を支えてくれている母をはじめとする様々な人たちに対して、本当にありがたく思うのです。 昭和の文豪・太宰治は、結婚してからもなお、実家の長兄からの仕送りによって生計を立てていました。 太宰が「仕送り」によってようやく生計を立てていたことを「悪いことだ」としか思えなかっただろうことは想像に難くありません。 芸術というものは、得てしてそのような「困難と苦悩」の中から生まれてくるのでしょうから、それはそれで仕方のないことでしょう。 けれども、世の中には、「社会の多数派」の流れには乗れない人間というものが必ずいるわけで、そうした少数者の居場所があるほうが、社会全体としても健全なもののように思えます。 「社会的」にダメ、と言われる人間が「本当にダメ」なのかどうかを、少し考えてみたほうがいいのではないかと、思うのです。 * * * 栗原さんは、そうやって実家に暮らし、好きな読書と文筆を続けることで、現在では八冊の著書を出し、ご両親との関係も落ち着き、それなりに安定した生活をしているようです。 しかしながら、収入の方は、世間的にいって十分な額があるわけではなく、 いまお金になることをやらないでいると、率直にあまえているとか、遊んでいるとか言われたり、いい歳をしてお金もかせげていないのに恋愛とかをすると、無責任なやつとか言われるのが現状だとおもいます。だからこそ、あえてわがままになりきって、おもうぞんぶん遊びたい、モテたい、楽しみたい、うまいものが食いたいって、声をあらげてみたいなと。 本日発売!『はたらかないで、たらふく食べたい』刊行記念・栗原康インタビュー 後編 | タバブックス と大胆にもおっしゃっています。 今の日本社会は、景気が悪いと言われ続けていますが、決して社会全体が貧しいわけではありませんから、 「お金を稼がなくても、人生を楽しみたい」 という主張も当然ありうるでしょう。 また、お金を稼ぐのが当たり前だと思い込まされて、お金を稼ぐのが立派な人、そして、お金を稼いでないのは「人としておかしい」と思われてしまうところが、今の経済社会の怖いところだともおっしゃっています。 OECDの報告によると、日本におけるニート*1は170万人、推計32万人が引きこもり状態であるとも言われます。 そうした若者たちが、社会からの圧力で、「働いていない自分は人としておかしい」と思い込んでいるとしたら、これほど不幸なことはありません。 「働いていない」のはちっとも悪いことではありません。働きたいと思うような職場が少ない、日本の労働環境のほうがむしろ問題でしょう。 働かないでも食べるのに困らないのならば、無理に働く必要はないではありませんか。 そして、 たぶん、いまおなじような境遇にいる人たちって、けっこうたくさんいますよね。そのうち、一人でも二人でもいいんです。この本をつうじて、だれかがすこしでも生きやすくなってくれたら、自分ももっともっとわがままに生きてやるんだって、そうおもってもらえたらいいなとおもっています。 と、菅原さんもおっしゃる通り、必ずしもお金を稼ぐということにとらわれる必要はありません。 ここでの「わがまま」というのは、「好き勝手にすればいい」ということとは違うでしょう。 きちんと自分の欲求に忠実に生きて、自分の好きなことを自分の責任の中で行なえば、道は開けるものだよ、というメッセージだと思います。 多くの人が、社会に広い目を向けて、様々な関心を持ち、自分が思うような生き方ができるようにお祈りして、この記事はおしまいにします。 それでは、みなさん、ナマステジーっ♬

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カラパイアという「不思議科学系」のサイトがあります。 そちらにこんな記事が出ていました。 ・多次元にもほどがある。人間の脳は最大11次元の構造を持つ可能性(代数的位相幾何学) : カラパイア 従来の数学をまったく新しいやり方で用いて、脳の構造を覗き込んだ神経科学者がいる。そして明らかになったのは、脳は最大11次元で動作する多次元幾何構造を持つということだ。 というのですから、何やら神秘的でおもしろそうな話に思えますが、さて、その実際はというと......。 この研究はスイスが主導するブルー・ブレイン・プロジェクトの一環として行なわれたもので、スーパーコンピュータを用いて、脳の機能を解明しようとするものです。 そこで使われた数学的手法は「代数的位相幾何学」だ*1というのですが、これは「グラフ理論」といったほうが適切でしょう。 そこで使われた数学的手法は「代数的位相幾何学」*2なのですが、ここでは「グラフ理論」と考えたほうが分かりやすいので、その範囲で説明します。 この研究では、 「ラットの脳の新皮質に11次元の動的な構造が見つかった」 というのですが、このときの「次元」は、「グラフ理論」においての「次元」を意味しますから、 「最大12個の神経細胞同士のすべてが互いにつながっている動的な構造が、ラットの脳の新皮質で見つかった」 という話であり、超弦理論や超重力理論の 10次元や11次元といった話とはまったく関係がありませんし、みなさんの頭の中で、高次元の不可思議な幾何学体が生成・消滅を繰り返して、人間の意識という神秘的現象が発生することが分かった、というわけでもありません。 あくまでも、「『わりと複雑なネットワーク』が脳の中で活動している」ことがコンピュータモデルで確かめられたといった程度の話です。 * * * 上記の表現で「11次元の構造」なのに「12個の神経細胞」と書いてあるので、おや? と思われた方もいるでしょう。 グラフ理論で扱うのは、「頂点」と「頂点と頂点を結ぶ辺」を扱います。 (なお、この研究では、辺に向きがある有向グラフを基本的に扱っています) 頂点が3つのとき、すべての頂点を互いに結ぶと、三角形ができます。 このように、「すべての頂点が互いに結ばれたグラフ」を「クリーク」と呼びます。 頂点の数を n とすると、クリークの次元は n - 1 となります。 3つの頂点のクリークの次元は、3 - 1 = 2 です。これは三角形が2次元の構造であることを意味します。 頂点が4つの場合はどうでしょうか。 この場合は、三角形を四枚貼り合わせた四面体の形になります。 頂点は4つなので、そこから1引いて、3次元になります。確かに、四面体は3次元の構造になっています。 この研究中の実験では、31,000 の神経細胞を含むラットの大脳新皮質から得られたデータ・モデルを用いました。 そのモデル上で、8,000万の3次元クリークが発生する中、6次元から7次元までのクリークが恒常的に現れ、最大11次元のものまで発生した例があった、ということです。 このような高次のクリークについては、今まで、生物学的な神経ネットワークとしても、人工的なニューラルネットワークとしても知られていなかったとのことです。 このような高次のクリークが作る動的構造から、実際にどのようにして脳の様々な認識機能を生まれてくるのかは、今のところ分かりませんが、大脳新皮質の神経細胞の連絡に、このような動的構造が存在することが実験的に示されたことは、脳の機能の解明に向けて一歩前進したことになりましょう。 * * * というわけで、11次元といっても、別に「神秘的」な話ではなかったのですが、脳の神経細胞レベルの機能の解明は、まだこの程度だったのか、と逆に驚かされました。 まだまだ、これからの機能解明が楽しみですね。 なお、元記事、 ・The human brain can create structures in up to 11 dimensions - ScienceAlert には、ちゃんと、この研究でいっている「次元」が、「縦・横・高さ」の「次元」とは異なることが書いてあるんですけど、なぜか、カラパイアさんの記事ではその説明がなくなってしまっています。 そして、カラパイア版のこちらの部分。 同チームは、代数的位相幾何学(形状の変化にかかわらず、物体や空間の特徴を記述する数学)を用いて、神経細胞集合が”クリーク(小集団)”に接続されており、クリークの中の神経細胞の数が高次元幾何的オブジェクトとしてのサイズを決めることを突き止めた。 この部分はちょっと誤解があって、前にも説明したように、

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ネギさんのこちらの記事、 ・政治:昔取った杵柄 - ネギ式 を見て、卓見だなと思いました。 日本の人は全体主義を好きか、というと、必ずしもそうではなく、たんに 「全体主義を(再)構築するためのノウハウが蓄積されている」 から、それを選んでしまうのだろう、という説です。 「昔とった杵柄」というわけです。 今回はこのネギさん説に触発されて、日本の将来についてつらつら考えてみようと思います。 ドイツはどこが日本と違うのか どうにも残念な国ニッポン ドイツはどこが日本と違うのか ネギさんの説を簡単にまとめると、 日本の統治者は「全体主義」のノウハウを持っている しかし、日本の国民は「全体主義」を避けるノウハウを持っていない したがって日本は「全体主義」化する ということになります。 そのとき、たとえば、ドイツは日本とどう違うのか、ということを考えることには意味があるでしょう。 ドイツは敗戦によってナチスについて十分に反省したのに、日本が戦前の「全体主義」について十分反省することがなかった、というような話をよく聞きます。 これはどうしてなのでしょうか? ひとつには、第一次世界大戦から20-30年というスパンでナチスが台頭したことが重要と思われます。 ナチスの台頭は、第一次大戦の敗戦について過大な補償を求められたことによるドイツの経済的な疲弊が背景にありました。 そして財界もナチスに相乗りしたことで、第二次世界大戦が開戦し、ユダヤの虐殺という異常事態が起こったわけです。 このとき、「三度目の正直」的な意味合いもあり、陸続きのヨーロッパの中での戦後を考えたとき、ドイツがナチス時代の行動について十分な反省をしたのは、実にまっとうなことと言えるでしょう。 対して、わが日本はと言えば、欧米の植民地政策を真似て、中国大陸に進出したときに、後発の「異民族」国家であるがゆえに、「不当」な扱いを受けることになり、やがて英米の「策略」にはまって「太平洋戦争開戦」に至った経緯もあり、「無謀かつ無茶苦茶」な戦争をした、という自覚はあったにしても、自分たちのやり方に対してあまり反省をしなかったのは、ある意味で当然なのかもしれません。 昭和の高度経済成長期に育ったぼくは、 『「敗戦」を機に、一夜にして日本は変わった』 かのような「神話」を聞かされたものですが、実のところ、そのとき変わったのは、ごく表面的なものにすぎなかったようです。 それまでは「鬼畜米英」と言っていたものが、「アメリカの腰巾着」を装いながら、「いつかアメリカを見返す大国になってやる」という野望を抱くことになり、それを今まさに「実現」しようとしているのが、「安倍政権」ということになりましょうか。 どうにも残念な国ニッポン さて、安倍さん率いるニッポンは、いずれ憲法の改変をはかり、緊急事態条項を組み入れることで、「全体主義化」の総仕上げに至る見込みがかなり高まってきました。 けれでも、そのような「全体主義体制」を作ったからといって、誰もニッポンを尊敬してくれるわけではありませんし、戦前の日本が欧米列強から除け者にされたような状況を再現するのが関の山でしょう。 このような先行き不透明な日本において、国民に取りうる選択肢は限られています。 とにかく、自分の正しいと思うように生きること。自分の暮らしを大切にすること。弱いものに援助の手を差し出すこと。 自分が生きていくだけでも大変なことだとは思いますが、その中でも、自分の信じる価値観を大切にすることが、生きる意味につながるものと思います。 「こうしなければいけない」というような硬い「思い込み」からではなく、自由で柔らかい考え方を心がけることによって、一日一日にゆとりを持っていきたいものだと思うのです。 てなところで、この記事はおしまいになります。 それでは、みなさん、ナマステジーっ♬

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としべえ2.0β

北インド・ハリドワル辺りに出没中。

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宇宙のど真ん中