やあ、みんな。
きょうは夕方からルーフトップのカフェで飲んでてね。
ボブ・マーリーの曲がかかってたりして、とっても気持ちよかったもんだから、そのとき考えたことを、ちょっと書いてみようと思ったってわけ。
オーム・ババ・ルーフトップ・カフェ 禁酒の聖地 自由に書く、自由に生きる ボブ・マーリーの redemption song オーム・ババ・ルーフトップ・カフェ そのカフェの名前は、オーム・ババ・ルーフ・カフェって言うんだ。
オームなんて聞くと、おじさんたちはオーム真理教っていう、人騒がせな宗教のことを思い出しちゃうだろうけど、オームってのは、インドの人にとっては神聖な言葉なんだ。
無理を承知で日本で言えば、南無阿弥陀仏とか南無妙法蓮華経とかの南無に当たる言葉ってことかな。
そう、もちろん南無という言葉自体、もともとインドから来たものなんだけどね。
で、ババっていう言葉は、おとうさんくらいの意味もあれば、宗教的な指導者っていう意味もあるような言葉なんだけど、このカフェの名前の場合は、「霊力のある乞食坊主」くらいのニュアンスだろうね。
インドにはサドゥーと呼ばれる乞食坊主がいっぱいいるんだけど、ここラジャスタン州プシュカルは、ヒンズー教の聖地だから、ババジがいっぱいいるんだよ。
「ジ」っていうのは、「さん」とか「さま」みたいな敬称でね。
先生様、みたいな言い方なのさ。
そんなのが、このカフェの名前の意味なんだ。
禁酒の聖地 インドは日本と違って、割と酒にはうるさくてね。
大きな街はともかく、ちょっと田舎街になると、酒屋は鉄格子で守られてたりする。
文化の違いってやつだよね。
おまけにここプシュカルは、ヒンズー教の聖地の聖地だから、酒も禁止だし、肉食も禁止、卵も普通には食べられないんだ。
とはいっても、それは表向きの話で、店によっては酒も飲めるし、街外れに行けば酒屋もあって、そこで飲めば安く上がるし、そういうところには卵料理の屋台まである。
まあ、そんなわけで、オーム・ババ・ルーフトップ・カフェでは、なんとなくひと目を気にしながらだけど、ビールくらいは飲めるってわけなんだ。
自由に書く、自由に生きる ブログなんてものをこんな具合にやってるとさ、ほかの人はどんなふうにやってるんだろうとか、気になっちゃうから、あれこれ検索したりすることになって、いろんなものが目に入ってくることにもなる。
そうすると中には、「ブログはこういうふうに使うべき」っていうような「べき人間」の人たちが、どうしても目に入っちゃうんだよね。
いや、ブログだけじゃなくて、「科学というものをしっかり理解するべき」とか、「人間としてこうあるべき」とか、いろんな「べき人間」がいて、ぼくにとってはそれぞれに、うーむって感じなんだけど、そうは言っても「べき人間」がだめってわけじゃない。
だってこんなことを書いてるってことが、弱い意味ではあっても、「べき人間はやめるべき」って言ってることになるんだからさ。
つまり、ぼくは自分で自分を否定してることになるんだけど、ぼくが言いたい自由ってのはなにしろ、「自分で自分を否定してもいい」ってことなんだよね。
誰かが何かを批判をしていると、ブーメランで自分が否定されることになるってのを、おもしろおかしく書く人がいて、それはそれで、ほんとにおもしろい場合もあるんだけど、自分で自分を否定しても何も悪いことはないよね?
っていうか、気がついてなくても、ほとんどの人はそれをやってるんだ。っていうのも、他人を批判するってことは、他人の中に見た自分の嫌な部分を批判するってことだから。
ぼくはこのことを R. D. レインの本*1から学んだんだけど、最初は何言っているのか分からなかったもんだよ。
だって、「人のために泣いてるのは、自分のために泣いてるんだ」とか言うんだからね。
まあ、そういう話はこのくらいにしておくよ。
でさ、たまたま『ブログで「自由に書く」ことは難しい』って書いてる人が目に入ったたから、どんな話だろうと思って覗いてみたら、
・道徳・マナー
・法律
・自分への評価
・Googleアドセンス、マネタイズ関連
・PV数、はてぶ数、ネットの反応、炎上
・人間関係
・運営しているブログ・サーバー会社の規約
みたいなことを例に上げて、だから、「ブログでは自由に書くことなんてできない」ってことが書いてあるんだよね。
そう言った上で、「そういう檻が見えてなくて『自分は自由に書いてる』という人間は滑稽だ」っていうんだ。
でも、これはちょっと違うと思うんだ。
人はみんな誰だって、自分が檻の中で生きてることくらい自覚してるに決まってる。
その自覚は意識的なものじゃなくて、無意識的なものかもしれないけれど。
それが分かった上で、誰だって自由に書いてるはずだよ。
ブログやサーバー会社の規約をやぶれば、なんらかの問題が起こる可能性があるのは承知した上で、その範囲で書くのか、ぎりぎりのラインで書くのか、あるいはそんなことはぶっちぎって書くのか、誰にだってそれを決める自由はあるでしょ?
つまり、人間は檻の中に閉じ込められてるわけじゃない。
自分で進んで檻の中で暮らしてるだけなんだ。
だからぼくらは、いつでも檻の外に出ていくことができる。
もちろん檻の外には、中にはない危険がある。
でも、檻の中の息苦しさに飽き飽きした人間は、危険なんかかえりみず、当然檻から外に出るだろうさ。
それは怖いもの知らずの愚かな行為かもしれない。
愚かだっていいじゃないか。
周りから愚か者扱い、変わり者扱いされた人間が成功を収めるような寓話なんて、腐るほどあるでしょ?
ボブ・マーリーの redemption song うん、それでね、オーム・ババ・ルーフトップ・カフェでさ、ボブ・マーリーの redemption song がかかってたんだよ。
はてな村のみなさん、おはようございます。
この記事では、はてな村の「火事=炎上」と「喧嘩=議論」について、思い浮かんだことなど、つらつら書こうと思ったのですが、「火事」については結局書かずに終わってます。看板倒れでごめんなさい。
ちなみに今日の話から教訓を引き出すとしたら、
あなたの何気ない言葉が、人を深く傷つけることもある あなたの言葉で誰かが「怒って」しまったら、そのときはきちんと相手の話を聞こう 相手の考えに誤解があれば、誤解をとくように説明をしよう 相手の考えがおかしくても、そして、誤解をとくごとができなくても、「相手が不愉快になるような言葉」を発したことについては謝ろう てな感じになるかもしれません。
いつもと違って、「である」体の文章で書きますので、よろしくお願いしまーす。
口は災いのもと 発端 「踊るバイエイター」という奇妙な人物 ぼくたちはみんな自由、つまり喧嘩するのも自由 いささか趣味の悪い話 「安易な」批判から喧嘩は始まった 「狂犬」があらわれた 繊細であることと強靭であること 西と東は天と地ほども違う すべての繊細な魂に安らぎあれ 口は災いのもと 発端 「とにかくページビューが稼ぎたい」
そんな気持ちを抱えながら、どういう記事を書こうか、考えていた。
「炎上 対策」というキーワードが浮かんだので、検索してみた。
企業向けの炎上対策のページがトップだったので覗いてみると、
① 重要な情報のやり取りをしない
(中略)
SNSでやりとりする情報は、基本的には「すべて公になってしまう」と考えましょう。
とあるので、思わず笑ってしまった。
「いやそれ、*基本的に* じゃなくて、*すべて公* に決まってるじゃん!!」
この記事をネタにすれば、「お笑い」かつ「実用」の炎上対策記事が書けるなとは思ったが、自分のブログの現状を考えると、「炎上一般」ではなく、ここに「はてな」をからめたほうがいいように思えた。
「炎上 対策 はてな」で検索し直してみた。
「踊るバイエイター」という奇妙な人物 六番目に踊るバイエイター氏の記事があった。
ブログ関係で検索していると、この人の記事にはよく出くわす。ちょっと変わった人だが、内容はそれなりにしっかりしているので、今までにも何本か記事を読んだことがある。
タイトルにある、はてな「ブックマークの『深い闇』」という言葉に惹かれて、その記事を読んでみた。
はてなユーザーが「炎上商法」にはまりやすい理由と、それをしないほうがいい理由が丁寧に書かれていて、なるほどと思ったのだが、その記事には「はてな村における『喧嘩』」をまとめた記事へのリンクが貼られていた。
人間というものが繰り広げる、埒もないやりとりに対する野次馬的な関心は人並みにあるが、いちいちそれを覗き見していても切りがない。
けれども、そのまとめ記事のタイトルに「自由に書くことは難しい」とあったため、ぼくはそのパンドラ・リンクをクリックしてしまったのだ。
ぼくたちはみんな自由、つまり喧嘩するのも自由 いささか趣味の悪い話 人の喧嘩の記録を掘り返すのは趣味の悪いことだろうか。
それをネタとしてだけ扱うのなら、お世辞にも趣味のいいこととは言いがたい。
現にぼくはそれをネタにしているのだから、いささか趣味の悪い人間の一人にすぎない。
けれども、ぼくには一つの信念がある。
それは「すべての人間は自由である」ということで。
この文章を続けて読むのも読まないのも、あなたの自由だし、読んだ結果、批判をするのも自由。
そして、過去のでき事から何かを学ぶのは、まったく悪いことじゃない。
ということで、とあるネット上で起きた「議論という名の喧嘩」について書くことにする。
「安易な」批判から喧嘩は始まった ある人物が、あるタイプのブログを「批判」する内容の記事を書いたのだという。
この人のことは批判くんと呼ぼう。
個人の雑記ブログが、普段とは関係のないスキャンダラスな時事ネタの記事を、ページビューを稼ぐためだけに入れてくるのはいかがなものか、という趣旨のことが、その記事には書かれている。
「自分はこう思いました」という感想としては、この主張に何もおかしな点はない。
けれども、その記事では、そうしたブログを書いている人について、「余計なお世話」的批評の言葉が並べられ、したり顔で先輩ぶった「助言」がなされており、「仲間向け」のひとり言的記事にすぎないとは言え、読む人が読めば不愉快な内容だった。
もちろん、何を書いたって自由だ。批評でも助言でも好きにすればいい。その内容をわざわざ否定するまでもない。
だが、それに「かみつく」人が出てきたとしても、いた仕方のないことだとは思う。
「狂犬」があらわれた なぜここで「狂犬」があらわれることになったかの説明は省く。
人生には不条理な事態がつきものだ。
不条理なことに「狂犬」があらわれたのだと考えてほしい。
とにかく「狂犬」はあらわれて、批判くんに噛みついたのだ。
しかし、人のことを「狂犬」呼ばわりするのは礼儀にもとる。
全国推定 8,000 万人の三日坊主のみなさん、朗報です。
根気がなくても、習慣づけができなくても、この方法を使えば、あなたの人生、大成功になること請け合いです。
それは、あなたの持っている「分散力を発揮すること」です。
集中力がなくて困っているあなた、そんなことで困る必要はもうありません。
集中力がないということは、裏返して言えば、
素晴らしい分散力を持っている ことに他なりません。
この記事では、あなたの持つ「分散力」という素晴らしい力を使ってネット上でお小遣い稼ぎをする方法を書きますが、
勉強や仕事の効率を上げたり、 人間関係を円満にしたり、果ては、 分散力によって集中力をつける ことまで、なんにでも応用できますので、ぜひ試してみてくださいね。
それではこの記事のお題目です。
分散力ってなんなの? それってなんかの役に立つの? 分散力を使えば、新しいスキルを身につけるのも蝶簡単♫ ぼくのネット上でのお小遣い稼ぎ 今のところグーグル・アドセンスが一番有望 アマゾン・アソシエイトについて noteってなんなの? 儲かるの?? ※8,000文字以上の長文ですので、おひまなときにどうぞ。
分散力ってなんなの? それってなんかの役に立つの? (お断り: 化学用語のロンドン分散力とはなんの関係もない造語ですのでご了解ください)
分散力とは、文字通り集中力とは反対の、意識を分散させる力です。
意識を分散させる力? そんなものが、なんの役に立つのでしょうか??
人間、何かをやるときには、集中が必要です。
集中してやるべきときに、意識が分散してしまっては、気が散ってやることもやれなくなってしまいます。
これはまずい。
でも、本当にそうでしょうか?
「やらなければならない」仕事や勉強でも、ある程度の時間続けたら、集中力が切れるのは、むしろ当然です。
その状態で無理に続けても、作業の効率は下がってしまうでしょう。
このときこそが「分散力」の出番です。
集中力が途切れ、気が散り始めるということは、あなたの中で分散力が動き出したことを意味します。
無理に続けることはやめて、一旦別のことをしてみましょう。
ただし、フェースブックを見るとか、ゲームをするとか、ついつい時間を浪費してしまうようなことは、ぐっと我慢をします。
その代わりに、机の片付けをするとか、洗濯物を洗濯機に放り込むとか、普段つい後回しになってしまうけれども、やっておいたほうがいいことをします。
(頭を使わずに、体を動かす単純作業のほうがベターです)
そして、それが一段落したら、またもとの作業にとりかかるのです。
一時間仕事をしたら10分の休憩を、というようなやり方もありますが、集中力が切れたら分散力を発揮して、ほかの作業をする、こうすれば休み時間中に別の仕事ができるのですから、こちらのほうが、全体としての効率が上がることは明らかでしょう。
☆目次
分散力ってなんなの? それってなんかの役に立つの? 分散力を使えば、新しいスキルを身につけるのも蝶簡単♫ ぼくのネット上でのお小遣い稼ぎ 今のところグーグル・アドセンスが一番有望 アマゾン・アソシエイトについて noteってなんなの? 儲かるの?? 分散力を使えば、新しいスキルを身につけるのも蝶簡単♫ 上に書いた例は、作業効率を上げる方法として、どこかで見かけたことがあるかもしれません。
けれども、分散力の使い方はそれだけではありません。
たとえばあなたが、IT のスキルを身につけたいとします。
学校に行って習うにしろ、自分で独学するにしろ、とにかく時間をかけて練習と実践を繰り返すことが必要です。
なにしろ、一つのことをきちんと身につけるのは、並大抵のことではありません。
それに、学校に行ってひと通りは覚えても、使わなかったらすぐに知識は錆びついてしまいます。
せっかく専門の学校に行ったのに、その知識を役立てることができず、別の分野の仕事をしている人も多いことでしょう。
けれども、こうしたことも別に問題でもなんでもないのです。
ひとつのことが続けられない、というのは、まったく普通のことだからです。
ぼくは大学でコンピュータのソフトについて学び、大手企業に技術職として就職しましたが、二年弱で退職し、その後は技術職にはついていません。
今は趣味のレベルでネットを使い、それにまつわるプログラミングを時々する程度ですので、専門職として仕事をするような知識はありませんが、大学で学んだことは十分に役に立っているという実感があります。
学んだことをそのまま放り出さず、時折それに関連する情報をネット上で更新したことがものを言っていると思います。
つまり、何かのことを継続的に学んで、それを仕事としてもずっとやっていく、というようなことは、「集中型」の人にとっては当たり前のことなのですが、そうではない多くの「分散型」の人の場合、決して当たり前ではないのです。
日本最大手のゲームメディアであるファミ通.comが、アメリカ産の男性同士の恋愛シミュレーション・ゲームについての紹介記事の題名などで「(同性愛は)禁断の愛」と表現したことについて、問題視する声があります。
・オヤジ臭さは危険な香り? 独身イクメン同士で禁断の愛にハッテン可能なお父さんデートシム『Dream Daddy』 - ファミ通.com
同性愛を「禁断の愛」と表現することは、いけないことなのでしょうか。
いけないことだとすれば、どこがどういけないのでしょうか。
たぶん日本の多くの方にとっては、「別にいいんじゃないの?」くらいの反応ではないかと思いますので、どのへんがどういけないのか、少し書いて見ることにします。
なお、この件については、damonge.com のこちらの記事が、ファミ通の記事を執筆したミル☆吉村氏の説明も含め、よくまとめられていますので、興味のある方にはご一読をおすすめします。
・同性愛を「禁断の愛」と表現したファミ通 – DAMONGE
ゲイをはじめとする少数者に対する差別問題を、もう少し考えたらいいのになー 少数者が生きやすい社会は、みんなにとって生きやすい社会 抗議の声もあるのに、なんでファミ通はそのままにしてるの? ぼく自身の同性愛に対する感覚 〈追記 2017.11.23〉ミル☆吉村氏からのお返事と「ファミ通」の社会的責任 ミル☆吉村氏から「表現として微妙ではあるのでもう使わない」というお返事がありました ファミ通の社会的責任について一言 ゲイをはじめとする少数者に対する差別問題を、もう少し考えたらいいのになー 今回話題になっているゲームは Dream Daddy というアメリカのゲームで、英語版だけが配信されているものです。
アメリカの wired.com には、次のような大変好意的な紹介記事が出ています。
・Gay Dating Simulator 'Dream Daddy' Might Just Be the Gaming Miracle of the Year | WIRED
ゲームの内容は、
10代の娘を持つ父親が、近所に暮らす7人の独身男性と恋愛も含めて親交を深めてゆく というものなのですが、wired.com の記事では、「切なく、考えさせられる、とてもヒューマニスティック」な作品であり、「恋愛シミュレーションだけに限らず、オールジャンルで今年一番のゲーム」とまで高く評価されています。
紹介記事の題名には「同性愛者(queer)の恋愛ゲーム」とありますが、アメリカでは「ゲイ文化」なんて当たり前ですから、「禁断の愛」などといった、少数者文化を興味本位で見るような表現は、使わないわけです。
もちろん、日本とアメリカでは文化状況がことなりますから、なんでもアメリカの真似をすればいいというわけではありません。
けれども、ゲイを初めとする少数者の人たちが、笑いのネタにされ、ばかにされて、肩身の狭い思いをするような今の日本の状況は、ちょっとなんだかなー、と思うのです。
あなたは「自分には関係ないから」と思うかもしれません。
でも、ほんとうにそうでしょうか?
少数者差別がまかり通る社会って、だれにとっても息苦しい社会じゃないでしょうかね??
少数者が生きやすい社会は、みんなにとって生きやすい社会 差別が起きる理由にはいろいろなものがありますが、社会的なストレスが大きいとき、スケープゴートを求める形で、弱い少数者をターゲットにした差別が激しくなって、ストレスのはけ口になることがあります。
有名な例では、関東大震災のときの、朝鮮人に対するデマがありますよね。
関東大震災で大きなストレスを抱えることになった人々が、「朝鮮人が暴動を起こす」というデマを信じたために、多くの朝鮮の方が犠牲になるような暴力行為が行なわれました。
(参照: 芥川龍之介ら文豪たちが記録した関東大震災朝鮮人虐殺)
こういった極端なケースでなくても、日々の社会的なストレスが、「あなた」の中の「差別心」をあおって、少数者の人を笑いのネタに使ってしまうようなことは、ままあるはずです。
そういう意味で、「少数者差別が根強い社会は、ストレスの大きい、生きづらい社会だ」ということができます。
言葉の上だけ、表現の問題だけ変えていけばいいというものでもありませんが、一人ひとりが「差別」について考えていくことで、結局は社会全体を住みやすいものにしていくことができるはずだと思うのです。
抗議の声もあるのに、なんでファミ通はそのままにしてるの? 社会的な責任のあるメディアとして、ファミ通さんにはぜひ記事の表現を改めてほしいところですが、現状では執筆記者からの説明以外は、特に何の対応もないようです。
(参照: Twitter)
少数でも抗議の声がある以上、ただ説明するだけでなく、差別を助長するような表現は改めるべきと思いますが、日本のメディアにそういうデリカシーを期待するのは無理というものでしょうか。
みなさん、はてなブックマークは使ってますか?
ソーシャル・ブックマークと言われるやつで、ネット上で気になったページをブックマークすることで、
自分のメモとして使えるだけでなく、 他の人がどんなことに関心を持っているかなども分かり、また、 コメントをつけることで、コミュニケーションの道具としても使え、おまけに ブックマークがたくさんつくと、あなたのブログが宣伝されてたくさんの人に読んでもらえる というように、いろいろとメリットのあるすぐれものなんです。
けれども逆に「不愉快」なコメントをつけられたりすることもあるので、
諸刃の剣 でもあります。
今日はそのやっかいなほうの面に焦点をあてて、はてなブックマークの「互助会」について、そして派生的に、はてな村の「自警団」についても、少し書いてみます。
互助会ってなんなの? 互助会嫌いの「自警団」の人たち 可哀想な「自警団」の人たちのメンタリティ 〈2017/11/24 追記〉「互助会」問題に対するはてな側の対応の実例 互助会ってなんなの? 「互助会」という名前はついていますが、実際にそういう組織があるわけではなくて、はてなブックマークのユーザ同士が、「おつき合い」として互いのブログをブックマークしあうとき、
「あの人たち、互助会だな」 というように使う「はてな言葉」です。
これの何が問題なのか、というと、こうした互助会グループが大きくなっていくと、互助会システムによって多数のブックマークを得た「それほどおもしろくない」ページが、はてなブックマークの 「人気」や「新着」 に掲載されることになりますから、「有用」で「おもしろい」記事を「効率よく」読むためにブックマークを利用している「リテラシー」の高い人からすれば、「見なくてもいい記事が目に入って目障り」なことになるわけです。
けれども、この問題については、はてな側でも対策をしているようで、
「互助会」によって人気エントリしまくってると数か月(遅い)ほどで数十のブクマでは人気エントリ入りしなくなるよう
はてなブログの互助会へ2週間潜入した感想 - めっちゃええやん とのことです。
というわけで、互助会については、
「あー、そんなこともあるのね」 程度に思ってればよいもので、「普通」にはてなのサービスを使っている人が気にするほどのものではないと、認識しております。
ちなみに、上に引用させていただいた、ええやんさんの記事は、「互助会」への潜入ルポになっていて、とってもおもしろいので、おすすめです。
それから、
・相互ブクマはてなブロガーリスト
というページを見ると、「相互にブックマークしあっているはてなブログユーザ」がポイント化されて表示されます。
このページを作っている Tatsuo Yamashita さんは、こうした「互助会」的な使い方を否定しているわけではなく、コミュニケーションの手段としてブックマークを使うグループが「人気エントリ」に入らないですむような「仕組み」を考えてらっしゃるのですが、後述の「自警団」の人からは、こちらのページは「互助会ブラックリスト」として「重宝」されているようです。
☆ここでちょっと一休み、<スポンサード・リンク>です。
互助会嫌いの「自警団」の人たち さて、先述のええやんさんは、相互ブックマークについて
「確実に迷惑行為だからやめましょう」
というのですが、果たしてそうでしょうか?
Tatsuo Yamashita さんは「相互ブクマはてなブログだけのホッテントリ」というリストも作っておられて、今日の時点では、
ホットエントリー 217 個のうち 10 個(4%)が 相互ブクマはてなブログ でした。
とのことです。
4% 程度の「雑音」に対して、迷惑行為だ、と思う方がいらっしゃっても、それはそれで当然だと思いますが、このくらいの「雑音」について
迷惑行為だからやめたほうがいい、 とまで言うことは果たして合理的なことでしょうか。
判断が別れるところだと思います。
「リテラシー」の高い人がみんな、それを「迷惑行為」と考えるか、というと、それも違うような気がします。
「効率優先」で、他者の価値観には「無頓着」なかたが、自分の「正義感」だけを根拠に、「迷惑行為」を認定しているような気がするんですけど、違いますかね?
そういう個人的な「正義感」を基準に、他者を批判するタイプの人を、ここでは「自警団」と呼ばせてもらうことにします。
(ええやんさんも、Tatsuo Yamashita さんも、別に「批判」はしてませんので、自警団というわけではありません。念のため)
可哀想な「自警団」の人たちのメンタリティ 今回この記事を書くことにしたきっかけは、碧乃あか男さんの
・怖いのはステロイドだけではない!抗生剤の副作用にも注意が必要! おまけの1コマ有り - 新・ぜんそく力な日常
みなさま、今日もネット上であれこれと、検索をなさったり、交流をなさったり、お元気でお過ごしのことと思います。
今日の元気のもとは、みなさま一人ひとり、いろいろ違うこととは思いますが、今日まで生きてこられたからには、みなさん、いろーんなスキルを身につけてきたことかと存じます。
「読み書きソロバン」はちょっと言葉が古いですが、日本語だけでなく、英語もやらなきゃとか、コンピュータのプログラミングくらいやってみたいとか、
いろいろなスキルが要求されちゃう ようなグローバルな時代にわたしたちは生きているわけです。
そこで今日は、スキルを身につけるためのスキルである、メタスキルのうちでも、こいつは最強とぼくが思っている
「習慣を変えること」の習慣化 について書こうと思います。
(なお、この記事ではスキルという言葉を使いますが、「やせたい」とか、「タバコをやめたい」とか、「習慣を変える」ことならなんにでも、この技は使えます)
それからついでに、ブログ関係の技術的な話題で、pico cms というシステムについての簡単な紹介もしちゃいます。
新しいスキルを身につけるためには、どうしたらいいのか あなたの人格の99%(当社測定値)は、「習慣」でできているにすぎない 習慣は変えられるということを、身を持って知るためには? とりあえず左手で箸を持ってみる pico cms というphpベースのフラットなシステムをxrea で動かしてみた アップロードするだけで動くはずなのに動かない! phpのバージョンを7.0から5.3に下げたら動きました、まる 新しいスキルを身につけるためには、どうしたらいいのか あなたが何か新しいことを始めようとしているとしましょう。
たとえば、英語がもう少し喋れるようになりたいとします。
すると、英語を勉強し、練習する必要があるわけですが、どんなふうにしたら、効率よく英語を喋れるようになるのでしょうか?
ここでは具体的な方法は書きませんが、とにかく自分にあった方法を探すことが大切です。
多くの人にとって有効な方法が、あなたにも有効とは限らないからです。
そして、まずは「この方法でいこう」と決めた上で、
十分な時間その方法で練習をする 必要があります。
この「十分な時間、何かをする」というのが、新しいスキルを身につけるためには「不可欠」であると同時に、一番むずかしい「関門」ということになるでしょう。
あなたの人格の99%(当社測定値)は、「習慣」でできているにすぎない あなたは自分のことをどんな人間だと思ってますか?
飽きっぽい? それとも我慢強い?
柔軟性がある? それとも一つのやり方にこだわる?
どんなふうに思っていても、それを否定的にとらえる必要はありません。
そして、今あなたが「自分はこうだ」と思っていても、
それは変えられるんだ と知ることが、新しいスキルを効率よく身につけるための第一歩です。
あなたの人格というものは、もちろん、生まれたときから決まっている部分もあるのですが、
99%(といっても言い過ぎでないくらい) ほとんどの部分が「変えられる」もの なんです。
というのも、あなたの人格のほとんどは、あなたがこの世に生まれ落ちた瞬間から、周りの人のあり方を真似ることによって、あなたが身につけてきた「習慣」にすぎないからです。
「でも、待ってよ、ぼくは人見知りで、初めての人とぱっぱと話すなんで絶対できないよ」と、例えばあなたは言うかもしれません。
確かに「いきなり変えろ」と言われても、それはできない相談でしょう。
でも、順を追って、少しずつできることを増やしていけば、あら不思議、
いつの間にか、初めてあったどんな人とでも、自信を持って、しっかり話せます、 という人間に、あなたが変身することも、決して夢ではないのです。
習慣は変えられるということを、身を持って知るためには? と、上のような話を読んでいると、「まあ、そうかもしれないな」と思うかもしれませんが、実際には習慣を変えるということは、そう簡単なことではありません。
「三日坊主」という言葉がありますが、やろうと決めたことを、三日もしないうちに忘れてしまうことは、多くの人が経験するところでしょう。
逆に「石の上のも三年」というように、一つのことを三年も続ければ、かなりのスキルを身につけることができます。
そこで、今まで「三日坊主」で終わってしまっていたあなたが、習慣を変え、新しいスキルを身につけるためには、「三年もあれば、なんでも変えられる」ということを
身を持って体験する ことが、まず重要になるのです。
とりあえず左手で箸を持ってみる 「習慣を変える」ためには、簡単なことから始めるのが一番です。
あなたが右利きだったら、箸を左手で持ってみましょう(左利きの人は右と左を入れ替えて考えてください)。
箸を左手で持つのが初めてだったら、右手のように器用には動かせません。
左手で全部ごはんを食べるのは大変でしょうから、最初の一口を左手を使って食べるだけで、あとは右手に持ち替えてかまいません(余裕のある人は、全部左手だけで食べてみるのもいいでしょう)。
はじめのうちは、うっかり右手に箸を持って食べ始めてしまうかもしれません。
それはそれで別にかまわないので、気がついたときに左手に持ち替えて、とにかく一口食べてください。
周りの人が何を言っても、気にする必要はありません。
「頭の体操」だ、とでも説明すればいいでしょう。
そうして、いつでも普通に左手に箸を持ってごはんを食べ始めることができるようになったら、このミッションは終了です。
そのまま続けてもいいし、もうやめてもいいし、好きなようにしてください。
はてな村のみなさん、こにゃにゃちわ。
以前、有料サービスはてなブログProに申し込んで、独自ドメインの設定をした話を書きました。
・[解決ズバット]サーチコンソールのアドレスの変更、やっとできた三日目の正直 - *魂の次元*
その記事で、グーグルのサーチ・コンソールのアドレス変更方法について書いたことがきっかけで、「救世主」認定していただくことができましたので、今日はその承認欲求の喜びを報告させていただきます。
承認欲求が大充足、ブログに記事を書けばあなたも「救世主」になれます!? ついでに承認欲求とマズローの欲求段階説 承認欲求が大充足、ブログに記事を書けばあなたも「救世主」になれます!? みなさんは、どんな理由でブログをやってますか?
「書くのが好きだから」とか、「人とのやり取りが楽しいから」とか、「お小遣いを稼ぎたいから」とか、いろいろあるとは思いますが、自分の書いた記事が人の役に立ったり、人からほめられたりしたら、すごく嬉しくなって、
ブログやってて、よかったーー って思いますよね。
ぼくは、住所不定無職で、インド方面を放浪中、ゆえに始終金欠気味なんですが、しばらく前に、清水の舞台から飛び降りるつもりで、はてなブログPro を二年コースを14,400円で申し込んだんです。
ドメインは、以前取得してあまり使っていなかったものを流用して、独自ドメインの設定もしました。
で、グーグルの検索アクセス解析サービス・サーチコンソールも使っていたので、これのアドレス変更をすることになるのですが、いやー、こいつには苦しめられました。
もともとの「はてなドメインのアドレス」と、新しい「独自ドメインのアドレス」の両方が自分のものであることを「確認」しなければならないんですが、他の人がネットに書いてある方法だと、これがどうにもうまくいかなかったんですよね。
あれこれ試して、苦労して、やっとできたのが、「ドメイン名プロバイダ」を使った方法です。
あなたがこの問題で困ってたら、ぜひこちらの記事を見てください。
手順はやや面倒ですが、きっと解決するはずです♬
・[解決ズバット]サーチコンソールのアドレスの変更、やっとできた三日目の正直 - *魂の次元*
本筋からやや話がそれてますが、とにかくそういうわけで、自分の困った経験を、ネット上で共有していたところ、きまぐれねずみさんの次の記事で言及していただくことになりました。
・サーチコンソールのアドレス変更できない場合は別の方法を試そう - きまぐれねずみのきまぐれ帖
そこで現れた救世主様がこちらのサイト。
本当にお世話になりました。ありがとうございます!!神です(ノД`)・゜・。
とまで、書いていただき、
ブログやっててよかったー、 おれが今まで生きてきたのは、この記事を書いて、この瞬間を味わうためだったんだーーっ(←蝶おおげさ) というような、とってもとっても大変とっても暖かい気持ちが胸中に拡がり、いつもは満たされない承認欲求がばんばん充足される素晴らしい経験となりました。
はてなブログの場合、星やブックマークがいっぱいついたりするのも、もちろん嬉しいのですが、少数の人でも、こうやって本当に役に立つことができると、これはまた格別なものです。
いやー、ブログってほんとうに素晴らしいものですね。
(水野晴郎風でお願いします)
☆ここでちょっと一休み、<スポンサード・リンク>です。
ついでに承認欲求とマズローの欲求段階説 ところで、ネット上でのやりとりなどをいろいろ見ていますと、「承認欲求」という言葉を見かけることがあります。
この言葉の原点はアメリカの心理学者アブラハム・マズローの欲求段階説というものなんですね。
マズローは人間の心理的成長というものを、五段階に分けて考えました。
生理的欲求 - 食事、睡眠など一番基本的な欲求 安全の欲求 - 経済的なものや、健康など、安心して生きるための欲求 社会的欲求 - 愛情や所属など、人間関係に関する欲求 承認(尊重)の欲求 - 他者や集団からの評価を求める欲求 自己実現の欲求 - 自分の持つ能力や可能性を発揮して生きる欲求 この四番目の「承認欲求」というのが、ネット上ではよく使われるようになったわけです。
ちなみに、もともとの英語は esteem という言葉なので、評価や尊重の意味になります。
で、マズローは他人からの評価よりも、自己尊重を重視しているので、「承認」という言葉は、ちょっと違う気もするんですが、まあ、ネット上で使われる「承認欲求」という言葉は、マズローの欲求段階説とは「もはや別物」と考えたほうがいいのかもしれませんね。
子どもの「ほめて、ほめて」とか「かまって、かまって」というようなものが「承認欲求」の一番単純なものなわけですが、「ネット上に言葉を放つ」という行為が、この「承認欲求」にもとづいて行なわれることがよくあり、場合によってはそれが、「うるさい」ことになったりしますので、その結果あれこれ取り沙汰されることになり、そんな文脈でこの言葉が人の評価を下げるために使われることも、ままある、とまあ、そんな次第です。
(あいつは「かまってちゃん」だからなー、みたいな言い方とほとんど一緒ですね)
マズローはこの欲求段階説だけでなく、至高(絶頂)体験 (peak experience)という概念を提唱したことでも有名です。
これは、ごく普通の人々にときおり訪れる「神秘的」な体験のことなのですが、
世界がいつもとは違った輝きを放っているのを感じたり、 不思議な幸福感に包まれて、自分にはなんでもできるという気持ちになったり、 といった経験をしたことのある人が、案外多くいる、みたいな話なんですね。
wattoさんの記事、
・[自炊の余禄]創作を推進する最重要エネルギーの一つはパクリじゃないかということ(その1) - しいたげられたしいたけ
と、そこについたブックマークコメントがなかなか面白かったので相乗りさせていただきます。
題して「創作における模倣問題」。
見出しはこんな感じです。
創作に模倣はつきものだよね 模倣とパクリの違いはどこに? 模倣に寛容なのはアジア的文化? オマージュは模倣ではないし、ましてパクリではない インスパイアされるということ おまけ、「創作ができる人」と「できない人」の違い [追記]デレク・ハートフィールドのモデルはロバート・E・ハワードだったのか 創作に模倣はつきものだよね すべての作品が模倣とまでは言えませんが、オリジナルでユニークなストーリーや形式がそうそう生み出されるわけもないのですから、たいていの作品はどこかしら他の作品を思わせたりするものです。
意図的に模倣するか、無意識的な模倣なのかはともかく、歴史的に培われた人間の発想自体の「型」ということまで考えれば、「模倣かもしれない類似」をいちいちパクリという言葉で指摘して、その作品の価値を貶めようとしても、あんまり意味はないですよね。
ちなみに、wattoさんの記事は、「パクリ」という言葉を否定的に使っているわけではなくて、「創作を推進するエネルギー」ととらえているわけですから、ブックマークコメントに散見される「パクリ≒否定」という解釈は、wattoさんの意図に対しては誤読ということになるかと思います。
まあ、「パクリという否定的ニュアンスのある言葉をわざわざ使わなくてもいいのに」という意見は、ごもっともでありますが。
模倣とパクリの違いはどこに? というわけで、模倣自体はなんら否定するべきものではないはずなのですが、世の中には「パクリ」としかいいようのない、つい何かを言いたくなるような作品が存在するのも事実です。
たとえば、これはタイトルのパクリになりますが、片山恭一氏の「世界の中心で、愛をさけぶ」。
これの原典は、SFファンにはおなじみのハーラン・エリスン「世界の中心で愛を叫んだけもの」ですが、実際には「新世紀エヴァンゲリオン」の最終話「世界の中心でアイを叫んだけもの」からの孫引きの可能性もあるようです。
(参照: 世界の中心で、愛をさけぶ - Wikipedia)
ここで、「エヴァ」における「模倣」は「オマージュ」として理解されますが、片山氏の小説は言い逃れのしようのない「パクリ」ですよね。
というのは、「エヴァ」は、最終話にそのタイトルをつけたから売れたわけではありませんが、片山氏の作品は、「人から借りてきたタイトルで売れた」と言っても言い過ぎではないと思われるからです。
ただし、片山氏の名誉のために付け加えておけば、氏がもともと用意したタイトルは「恋するソクラテス」というもので、編集者の助言によって「世界の中心で愛を叫ぶ」になったとのこと。
そして、その結果、村上春樹氏の「ノルウェイの森・上巻」を上回る、日本の小説における最大のベストセラーになったというのですから、「パクリ商法・大成功」の稀有な例とも言えるでしょう。
模倣に寛容なのはアジア的文化? 欧米においてこうした「明らか」なパクリが許されるかというと、たぶん許されない気がするのですが、残念ながらそれをきちんと資料で裏打ちするほどの知識はありません。
ですので、この項は単なる個人的印象に過ぎませんが、どうも日本に限らず、アジア各国は模倣に寛容なような気がします。
ブランド品の模倣や音楽CDの海賊版なども含めれば、模倣ビジネスは切りがないですよね。
ぼくの印象に残っているのは、タイの超有名ロックバンド・カラバオのケースなのですが、あからさまにボブ・マーリーのコピー的ライブビデオを出しているんですよね。
もちろん、全部タイ語で歌っている、カラバオのオリジナル曲ですから、ボブ・マーリーに対するオマージュだと言えば、確かにそうも言えるのですが、コーラスの入れ方から何から、ふだんのカラバオのスタイルではなくて、ボブ・マーリーのパクリとしかいいようがないレゲエの演奏になってるんですから、さてこれはどういうもんだろう、みたいな感じで。
聴いていて十分楽しめますから、タイの人はこれでOKなんだなと納得するだけですし、確かに作品として成立しているので、文句をいう筋合いもないのですが、ここまであっけらかんとパクってもいいのかと、なんとなく不思議な感覚を覚えたという話でした。
オマージュは模倣ではないし、ましてパクリではない というわけで、カラバオの場合もボブ・マーリーに対するオマージュと考えればまったく問題ないわけですが、模倣やパクリとは異なるオマージュというのは、どういうものなのでしょうか?
オマージュにおいては、題材を拝借する作品・作家に対する敬意があるということが、まずはポイントでしょう。
また、オマージュを表現する作家と読者の間に、それがオマージュであるという共通理解が生まれうるだけの何ものかが、そこに表現されていることも重要です。
作家の側はオマージュとして書いているつもりなのに、読者からするとただのパクリ、ということは実際ありがちな話ではないでしょうか。
また、日本の文学には「本歌取り」という形がありますが、これもオマージュの一種と考えることができると思います。この場合は教養としてすでにみんなが知っている過去の作品に題を取るわけですもんね。
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インスパイアされるということ さて、wattoさんの元記事は「創作の原動力としての模倣」に言及していたわけですが、ここでちょっとだけ、村上春樹氏の最初期の二冊「風の歌を聴け」と「1973年のピンボール」について考えてみましょう。
村上春樹氏が、どういう動機で小説を書くことになったのかは知りませんので、ここに書くことも個人的な印象にもとづくものにすぎませんが、氏がアメリカ文学を好んで読んでおり、翻訳も手がけていることはよく知られるところです。
そのとき、村上氏は「アメリカ文学にインスパイアされて小説を書くことになったのではないか」という仮説は容易に立てることができます。
であるからといって、村上氏の小説は「アメリカ文学の亜流」にすぎないのかといえば、その小説の翻訳が世界中で受け入れられいることを考えれば、それ以上のものであることは、多くの人の認めるところでしょう。
というわけで、「創作の原動力としての模倣」ということは、村上氏の場合にもあてはまるのではないかと、思うわけです。
そして、「風の歌を聴け」と「1973年のピンボール」なのですが、この二つの作品は、それ以降の氏の長編作品とは異なる形式上の特徴を持っています。
それは、細切れの文章をつなぎ合わせる形で、全体が構成されている点です。
この手法は、村上氏のオリジナルというわけではなく、アメリカの作家カート・ヴォネガットが得意とするものであり、これはパクリと言われても仕方がない種類の模倣に入ると言えましょう。
また、「風の歌を聴け」にはデレク・ハートフィールドという架空の作家が登場しますが、これもヴォネガットが自作にキルゴア・トラウトという架空のSF作家を登場させていることを連想させます。
村上氏はオマージュのつもりでこういう表現方法を取ったのかもしれませんが、この辺りのことを勘案すると、
アジア的模倣文化が村上文学を生んだ といってもよいかもしれない、と思ってしまうのでした。
なお、ぼくは「風の歌を聴け」も「1973年のピンボール」も、ヴォネガットを知った上で読んで、日本にもおもしろい作家が出てきたもんだな、と思った口ですので、カラバオがボブ・マーリーを真似てもOKなように、村上氏のヴォネガットの真似もOKな部類だと思っています。
けれども、氏自身は必ずしもそう考えていなかったようで、「村上自身が初期の長編2作を「自身が未熟な時代の作品」と評価していたため」この二作品の英訳は講談社英語文庫から英訳が出版されていたにも関わらず、長らく海外では出版されていなかったというんですから、おもしろい話ですよね。「日本人的な謙虚さ」とでもいうべきでしょうか。
(参照 1973年のピンボール - Wikipedia)
おまけ、「創作ができる人」と「できない人」の違い wattoさんが記事の冒頭で、
「創作ができる人」と「できない人」の違いについて、それは「才能のある人」と「ない人」の違いである、
という意味のことを書いています。
ご本人が「それを言っちゃあおしめえよ」と注意書きをしてますけれど、まあ、同義反復というやつですね。
それに対して、
前の記事
・文化の盗用問題と経済的支配構造、あるいは、中心と周辺、そしてランクという概念について - *魂の次元*
において、「おかしな日本語」を使ったことについて、マミーさん(id:mamichansan)から次のようなご指摘をいただきました。
なぜ関西弁に廓言葉が含まれているのか…そういうのが大阪人としてはちょっと傷つく。 http://b.hatena.ne.jp/entry/347374030/comment/mamichansan ぼくの書いたケーハクな文章によって、不愉快な気持ちにさせてしまったこと、誠に申し訳ありません。
と同時に、日本文化音痴のぼくがよく調べもせずに書いた表現に、東の「廓言葉」が含まれていることをご指摘いただいたことは、大変ありがたく思っております。
「大阪と東京」という地域文化の間の「優位性=ランク」の問題だけでなく、「女と男」という性別の違いの「ランク」についても無自覚なまま、いい加減な言葉使いをすることで、二重の意味で「文化の盗用」と「ランクの乱用」という間違いをしでかしたことは、まったく面目ない話です。
まー、ぼくという人間は、そんなようなアホウなやからにすぎませんので、頭で理解したつもりになっていただけだった「文化の盗用」や「ランクの乱用」という問題を、こういう場を通して勉強させていただいており、今後は多少ともまともな文章を書いていけるように努力いたしますので、今回の不始末につきましては、ご寛恕いただければ幸いです。
ちなみに、id:tztさんからは、
文化なんて盗み盗まれ豊かになってくもんだろう。文化の盗用おおいに結構。みんな積極的に盗用してこうな。
http://b.hatena.ne.jp/entry/347374030/comment/tzt というコメントをいただいており、ぼくの中のケーハクな部分は、大いに納得してしまったりもするのですが、現実に「盗用」が人を傷つけることを考えれば、よくよく考えた上での「盗用」であっても、問題が生じうることを理解してからでなければ、「盗用」のおすすめはできないなと、改めて考える次第です。
てなわけで、みなさん、ナマステジーっ。
アメリカのファッションモデル、カーリー・クロスさんが日本の「芸者風」の衣装で撮った写真がファッション誌「ヴォーグ」に掲載されたことについて、これが「文化の盗用」として批判され、カーリーさんはTwitter上で謝罪したことが報道されています。
・カーリー・クロスが炎上謝罪 日本文化を盗用と指摘、米VOGUE誌で「芸者スタイル」披露
アメリカの人たちが気にしている「文化の盗用」って何なんでしょうか?
そして、どうして、白人女性モデルが「芸者風」の格好をするのが問題になるのでしょうか?
「人種差別と経済的支配」という視点を通して、日本においてこの問題がどんな意味を持つのか、少し考えてみることにしましょう。
「文化の盗用」は、文化的多数派が少数派の文化的スタイルを不用意に用いることから生じる アメリカにおける人種差別との関連 日本においての先住民族問題との関連 中心と周辺という視点 ランクと経済的支配構造の問題 「文化の盗用」は、文化的多数派が少数派の文化的スタイルを不用意に用いることから生じる カーリーさんの「文化の盗用」事件は、ファッション誌における「日本文化の盗用」として批判を招くことになりました。
日本とは縁もゆかりもない白人女性であるカーリーさんが、表面的に「日本文化」を真似たことが、少数者の文化を勝手に商業利用することにあたり、日本の文化を侮辱するものだ、というのです。
神社に立ったカーリーさんが、得体のしれない「和服もどき」を着ている写真や、相撲取りのような人と並んで黒と赤のドレスを着ている写真は、ステロタイプな「日本表現」であり、「ばかばかしく」は感じますが、これを見て「日本文化を侮辱している」と思う日本の人は、たぶんあまりいないのではないでしょうか。
とはいえ、日系のアメリカ人がどう考えるかは、また別の話ですし、アメリカにおいてはこの「文化の盗用」問題は、常識の範疇としてきちんと考えて然るべき、「差別」につながる問題なのです。
アメリカにおける人種差別との関連 アメリカ合州国の歴史は、先住民族であるアメリカン・インディアンの虐殺の歴史であると同時に、労働力としてアフリカから連れてきた黒人奴隷に対する差別の歴史でもあります。
そして、たとえば白人の*1ジャズの歴史は、見方によっては「黒人文化の盗用」そのものとも言えますし、アメリカン・インディアンの物語を白人が描いて著作とするときにも、そこには文化的多数派の人間が「少数者の文化を登用して商業利用する」という構図が当てはまるわけです。
こうした状況の中、少数者自身が「文化を盗用するな」という主張をするのも当たり前ですし、多数派の中でも良識的な人たちは、「文化の盗用」を快く思わないということになるわけです。
東雲さんが、こちらの記事
・文化の盗用と関西弁 - 東雲製作所
で述べているように、カーリーさんの問題だけを見ると、「行き過ぎたポリティカルコレクトネス」という捉え方ももできなくはないのですが、「豪右翼政党の党首の議場でのブルカ着用によるイスラム文化への侮辱」(http://www.asahi.com/articles/ASK8K4RC5K8KUHBI016.html) といった極端な例を持ち出さなくても、アメリカの言論の状況から言えば、「文化の盗用」は大きな問題になりうるわけです。
日本においての先住民族問題との関連 日本では、アメリカのような問題は起こらないのかというと、そうではありません。
大きな問題にこそなっていませんが、先住民族であるアイヌ民族の人たちの中には、「文化の盗用」に類する問題を指摘する声があります。
明治以降、アイヌ名やアイヌ語を禁止し、文化的抹殺政策を取ってきた「日本人」が、そうした「迫害の歴史」を十分反省することもない状況の中で、「先住民族の知恵に学ぶ」といった内容の本が出版されることに対する違和感の声です。
この辺りの話は国際先住民年であった1993年頃にいくつかの記事があるはずなのですが、残念ながら手元に資料がなく、ネット上でも該当するものが見当たりませんでした。どなたかご存知の方がいらっしゃれば、ご教示いただきたく思います。
また、国連の委員会は沖縄の人々を先住民族として認めるよう勧告を繰り返しており、今後は日本でも「文化の盗用」が大きな問題となってくる可能性もありえます。*2
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中心と周辺という視点 さて、東雲さんの記事
・文化の盗用と関西弁 - 東雲製作所
では、「文化の盗用」という問題を、「悪意のあるなし」という観点と、「パブリックとプライベート」という軸で、考えていらっしゃいます。
「政党の党首がブブカというイスラム教の格好をする」のは、悪意があるので問題である、 モデルのカーリーさんの場合、アメリカン・インディアンの格好をしたときのほうが、和服を着たときよりも問題になったのは、日本の文化のほうがパブリックで、アメリカン・インディアンの文化のほうが、プライベートなものだったから、 というわけです。
それに対して、wattoさんは、
・「文化の盗用」を論じる補助線としての「中心(的)文化」と「周辺(的)文化」 - しいたげられたしいたけ
という記事で、「パブリックとプライベート」ではなく、「中心と周辺」という見立てをしています。
東雲さんがおっしゃっていることも、ほぼ同じことだと思うのですが、「中心と周辺」という切り分け方のほうが、問題がはっきり浮かび上がるように思います。
ある地域において、優勢ないしスタンダードである中心的文化は、当たり前に周りの文化から模倣の対象となるが、中心的文化の側がそれ以外の周辺文化を真似る場合、文化の盗用の問題が生じる という説明です。
ちなみにwattoさんは「中心文化と周辺文化」という概念は、すでに存在するものだろうか、それとも新しい考え方だろうか、と問うてらっしゃいます。
ぼくが思い当たるものとしては、 柳田國男の方言周圏論があります。
方言周圏論 (ほうげんしゅうけんろん)は、 方言分布の解釈の原則仮説の一つ。 方言周圏説 (ほうげんしゅうけんせつ)とも呼ばれる。
方言の語や音などの要素が文化的中心地から同心円状に分布する場合、外側にあるより古い形から内側にあるより新しい形へ順次変化したと推定するもの。見方を変えると、一つの形は同心円の中心地から周辺に向かって伝播したとする。 柳田國男が自著『 蝸牛考 』(かぎゅうこう、 刀江書院 、 1930年 )において提唱し [1] 、命名した。
これは言語の伝搬とその保存や変化に関する仮説ですので、wattoさんの問題意識とは少しずれるかもしれませんが、「中心と周辺」という捉え方が有効な枠組みとなることの一つの例示としては使えるのではないでしょうか。
法華経の話題や「文化の盗用」問題などを取り上げることになるであろう、wattoさんの「中心と周辺を巡る哲学的冒険の物語」、いつか読ませていただきたいものであります。