この記事のひと言まとめ: ぼくたちの人生は「矛盾した欲求」という名のダブルマインドに満ちている。 この不可思議な人生を楽しく乗り切るために、ブレーキを踏みながら、アクセルを踏み込むという曲芸を身につけるのも一興である。 * * * みなさん、おはこんばんわの、あけましておめでとうございます。 今日は、wattoさんの ・漱石、三島、筒井三部作/四部作の最終作に宗教臭が強いという共通点は「これは虚構だ」と示すため?(その1) - しいたげられたしいたけ という少し前の記事の中の、 我々が存在に対して感じる「生きるのも嫌、死ぬのも嫌」というような不安は、根源的には我々の存在のしかた自体に起因するもの、あたかも人類が二足歩行するに伴って生じた肩こりや腰痛のような職業病ならぬ存在病ではないか という指摘が、心に響きましたので、気の向くままに想いを巡らせてみようと思います。 「ぼくらの厨ニ病は、どこから来て、どこに行くのか」みたいな話になるかもしれません。 漱石、三島、筒井 厨ニ病とは、「ダブルバインドとしての実存」である 厨ニ病者の聖典としてのエヴァンゲリオン 無限ループにインタラプトをかける、瞑想という技術 漱石、三島、筒井 wattoさんの元記事は、漱石、三島、筒井の代表的三部作(三島の場合、四部作)について、その結びに当たる作品においての「宗教性」と「虚構性」を論じた興味深いシリーズの一回目ですが、今日はその一回目を読んで考えたことを書きます。 「宗教性」と「虚構性」の話題については、荘子の「胡蝶の夢」(夢のなかで蝶になっていた荘子は、本当に人間なのか、今目が覚めて人間だと思っている荘子は、蝶が見ている夢にすぎないのではないか、という話)や、『この世の「現実」は神が戯れに見せているきらびやかなお芝居に過ぎない』というインドの世界観とのつながりから語るとおもしろいところですが、この記事ではこれ以上は言及しません。 今回の主題は実存の問題、人はなぜ生きるのか、という話です。 厨ニ病とは、「ダブルバインドとしての実存」である 筒井康隆は好んでフロイトの心理学をテーマとして取り上げました。 wattoさんは、筒井の七瀬三部作を素材に心理学的問題について思考を展開させて、ご自身の人生における「問題点」を、次のように図式化して示しています。 私は自分が優れていると考える。ゆえに私は劣っている。 ↓ ↑ 私は自分が劣っていると考える。ゆえに私は優れている。 定型化された「思考のパタン」が堂々巡りになってしまい、自分の行動を「評価」しようとすると、二律背反的全否定の連鎖に落ち入る状況です。 この「watto型」の定型は、論理的な帰結として「連鎖し無限ループになる」ところが特徴ですが、もう少し一般的な二律背反状況であるダブルバインドの場合も、 二つの選択肢のどちらを選んでも自己否定せざるを得ない という点において共通の「存在不安の構造」が見出されます。 ダブルバインドと呼ばれる状況は、たとえば次のようなものです。 親(あるいは力を持つ存在)が「掃除をしろ」などの命令をする。 掃除をしないと、なぐられる。 掃除をすると、掃除の仕方がなっていないとなぐられる。 子どものように無力な存在が、このように「どう振舞っても事態を改善できない」状況に置かれ続けると、精神に「異常」をきたすのだ、というのが、グレゴリー・ベイトソンが提示したダブル・バインドの理論です。 多くの人々は、ダブル・バインド的状況を経験しながらも、それが「弱い」ダブル・バインドであるため、そこからの「逃げ道」を見つけることができます。 親に掃除をしろと言われたら、家を飛び出して雲隠れする、といったやり方です。 *1 こうして、ダブル・バインドに逃げ道が見つかれば、人は「関係性」を「社会化」し、厨ニ病的な悩みを「解消」することに「成功」するわけです。 なんらかの重みを持つ悩みが「解消」しきれなかった場合、その人は大人になってからも「厨ニ病」を引きずり続けることになるのでしょう。 そして世間の人がからかい気味に扱う「厨ニ病」こそ、実存の問題に他なりません。 ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ☆ここでちょっと一休み、<スポンサード・リンク>です。 厨ニ病者の聖典としてのエヴァンゲリオン 庵野秀明氏のアニメ「エヴァンゲリオン」は、母と息子の関係性をテーマにした実存的物語ですが、日本の文化環境においては、母と息子の関係性が問題になりやすく、それが実存の問題としての「厨ニ病」を作り出しているであろうことを想像すれば、「エヴァンゲリオン」の絶大な人気の理由にも納得がいきます。 (厨ニ病の素養がないあなたには、まったく納得のいかないところかもしれませんが....) 「エヴァ」における「厨ニ病」すなわち「存在の不安という病」への解答は、「人類補完計画」であり、 個を超越して、集合意識に達すること であると言ってかまわないでしょう。 この点は、フロイトと袂を分かったユングの精神分析や、派生した流れとしてのトランスパーソナル心理学の人間理解とも重なるところであり、またその源流としての、仏教的・インド哲学的世界観とも矛盾がなく、庵野氏らしい素晴らしい「解答」だと感じます。 (「エヴァ」においては、キリスト教的なイメージは使われているものの、宗教的なニュアンスはあまり感じられませんけれども) ここで、「エヴァ」のテレビ・シリーズの最終回を思い起こせば、その「心理主義的描写」と「虚構性」は、wattoさんがもともとテーマとしている「宗教性」と「虚構性」につながるものと考えます。

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ヴェオリア社の全国自治体の水道事業受託の状況を示す表です。 こんなに請け負っているとは驚きました。 窪田和夫さまの画像をお借りして、見やすいように編集の上、掲載しております。 (スマホで編集したため、一部画像が切れて見づらくなってしまい申しわけありません) https://mobile.twitter.com/korotanobaka/status/1076339580142444544

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インドのハリドワルという聖地に来ています。 たくさんの人が巡礼に訪れる有名な街ですが、外国の人はほとんどいません。 ガンジス川沿いの巡礼宿に泊まっており、毎夕七、八人のお坊さんが、ガンガーの神に祈りを捧げるのに立ち会うと心もすがすがしくなり、新たな英気が湧いてきます。 年の暮れに、そうやってのんびりと過ごせる幸せを噛みしめています。 [写真は宿のベランダから臨むガンガー]

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みなさん、こんにちわ。 今日は、カメキチさんのこちらの記事、 ・2017.12.13 業 - kame710のブログ を読んで、「業」というものについて考えたことを書きます。 重さの違いはあっても、「業」は誰もが背負うもの、かな。 カルマを落とす人生哲学としての仏教 話は簡単、けど、実践は難しい。それが人生でしょうか。 重さの違いはあっても、「業」は誰もが背負うもの、かな。 カメキチさんは、こう書いてらっしゃいます。 「残酷」としか思えぬ事件の詳細を知ると、そう思ってはいけないと心で打ち消そうとしても、ごくごく…一部ではあっても「業」にとりつかれたような生き方をする人間が確かに存在する、と認めざるをえなくなる(どなたか、それはまちがっていると言ってください!)。 重い「業」にとり憑かれた人は、確かにいると思います。 でも、重さは違っても、みんなそれぞれに「業」を背負ってるんじゃないですかね。 「過去生のカルマ」というものがあるかどうかはともかくとして、生まれや育ちの中で、いろいろな影響を受けて、今のぼくたちの人生があるとき、その過去の影響が「業」というものではないでしょうか。 で、「業」という言葉は、「だから仕方のないもの」、みたいな「あきらめ」をともなって語られることが多い気がしますが、そこはちょっと違うんじゃないかと思うんですよね。 カルマを落とす人生哲学としての仏教 ぼくはここ数年、初期仏教のヴィパッサナー瞑想をやっているもので、仏教の世界観、人生観というものをぼちぼち勉強しているのですが、「業=カルマ」に当たるものとして、「サンカーラ≒反応」という言葉が使われます。 日々の暮らしの中で、いいことや悪いことが起きたとき、それに喜んだり、悲しんだりという「反応」をすることが、心の中に「サンカーラ」を溜め込み、それが人の心をもつれさせていく、といった考え方です。 「業」というものは、結局、今までの人生の中で無意識的に作り上げてしまった「反応の集積物」でしかないので、瞑想をすることによって、日々の暮らしの中で生じる一つひとつの「反応」が、やってきては、やがて消えていくのを、観察してやることによって、「サンカーラ」のもつれを心の中に溜め込むという悪いくせをなくしてやれば、いずれすべての「反応の集積物」である「業」というものも、きれいに洗い流すことができる、というのが、仏教的な悟りへと至る道のあらましなんですね。 話は簡単、けど、実践は難しい。それが人生でしょうか。 ぼくたちはつい、人の悪いところを見て、「あの政治家が悪いから」とか「どの政治家もろくでもない」とか、批判することで満足してしまうようなところがあります。 けれども、人のことを言うより前に、自分の行ないを直したほうがいいよ、というのが仏教的な人生観です。 そして、自分の心が落ち着いたものになれば、周りの人にもよい影響を与えられるって話なんです。 まあ、そうはいっても、長い人生の中で背負ってしまった「業」を、はい今日でみんな放り出しちゃいましょう、というわけにもいきませんので、ぼちぼち自分のあり方を見つめなおしていく以外に方法はありません。 まずはゆっくり深呼吸をして、体に入ってる余計な力を抜いてみるところから。 いつの間にか背負ってしまった重たい荷物を、日々少しずつ下ろしていくことができれば、ふと気がついたときには、身も心も軽々となって、毎日を気持よく暮らしている自分に気づくことになるかもしれませんよ。 こちらに瞑想についての記事も書いてますので、気が向いたらご覧ください。 ・[medoninf.hatenablog.com/entry/2017/05/01/170457:title] てなことでみなさん、ナマステジーっ♬

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ネット上のみなさま、宇宙の果てよりこんにちわ。 この記事は、散漫な散歩道とでもいうべき、なんとなくの目印だけを頼りに、言葉のそぞろ歩きをつづったものです。 お時間のある方は、お付き合いください。 ある大学生の日常、そして、出発点は早稲田。 動物の森、ゲーム機、まだ見ぬ香港。 そして人間の心という無限の世界へ ある大学生の日常、そして、出発点は早稲田。 一つ目の目印は、こちらの反航路さんの記事です。 ・矯正展講演とか、大学周辺のツマラナイことども。 - いのちばっかりさ 反航路さんの記事を読んでいると、そういえばぼくも、三十年ちょっと前は大学生だったよな、とかいうことを思い出します。 早稲田という街は、五回は行ったことがあると思うけど、たぶん十回は行ったことがない。 なんとなく知ってるけど、大して知らない街です。 若いころはSF小説をよく読んでいて、本もよく買っていたから、高田馬場までは、たまに本を買いに行ってたな。 ビッグボックスというところで古本市をときどきやってましてね。 早稲田の古書店街の店が主に集まって、古本がいっぱい並ぶんですよ。 今年の八月はひと月東京世田谷の実家にいて、たまたま通った渋谷の東急で古本市をやっていたので、久しぶりに本を二冊買いました。 ・レイモンド・M・スマリヤン「タオは笑っている」 高田 渡「バーボン・ストリート・ブルース」 「タオは笑っている」はアメリカの数学者が書いた老荘関連のエッセイ。軽くて深くて好きな本です。ずいぶん昔の本だけど、昨年2016年に新装版が出てたのね。 「自衛隊に入ろう」という有名な歌がある高田渡のエッセイ集は、ちらっと読んだだけで実家に置き去りにしてあります。 一度だけ彼の生演奏を見たことがあります。ギター一本で何を歌ってたっけなぁ。「生活の柄」は歌ってたはず。 真鶴半島の公園のお祭りで、彼の演奏を聴きながら、うちの奥さんはぼくの隣で気持ちよさそうに昼寝してました。 演奏は早めにやって、お祭りの終わりに、もう一度高田さんが出てきたんだけど、途中で酔っ払って転んで、額から血を流してた。 噂通り、そういうタイプの人なんだなと思いました。 この世界にはいろんな種類の人がいて、それぞれになんらかの居場所を持って生きてるんですよね。 ぼくもなんだか分からないながらに、インドの片隅で日々を送ってます。 あー、それで、反航路さんの記事に出てくる「幸早稲田」というおにぎりやさんの名前が、どう読むのか気になっていたのですが、「しあわせだ」という洒落だったのね、と納得した、というのも一つ書いておきたかったことだったのです、はい。 動物の森、ゲーム機、まだ見ぬ香港。 二つ目の目印は、マミーさんのこちらの記事。 ・任天堂「ポケ森」を始めて「とび森」を思い出す。 - こたつ猫の森 ぼくはゲームというものはほとんどしません。 高校生のころは、ゲームセンターでずいぶんやりましたけど。ミサイル・コマンドとかディフェンダーとか、変なゲームを好んでやってました。 任天堂のゲーム機は、ファミコンに触ったことがあるくらいかな。 でもなぜかソニーの PSP は 1000, 2000, 3000 と三台も持ってます。 プログラミン言語 C というやつを使った開発環境を PC 上に用意して、エディタとか、シーケンサーもどきとか作って遊んでたんだな。 PSP 1000 は赤外線の入出力があって、外付けのキーボードが使えたので、小気味良い編集作業ができました。 バグってて、たまに文章が消え失せたりしてましたけど(笑)。 3DS の「とびだせ どうぶつの森」というのは初めて知りましたが、ゲームを通して世界中の人がつながるというのは、おもしろいですよね。 そして、そこに経済や政治という現実世界がうっすら影を落とすということも。 今はぼくはアンドロイドのタブレットでこうして遊んでますが、スマホやタブレットが世界をつなぎ、経済や政治の一つの結節点として働いていることを考えると、昭和生まれのアナログかつアナクロの人間としては、なんとも不思議な未来で生きることになったものだと、感慨深いものがあります。 ちなみにぼくは香港は行ったことがありません。中国は上海から南のほう、チベットも行ったんですけど。 経済的にも大国となった中国の人たちとも、仲良くやっていきたいものですよねぇ。 ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─

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meduium.com で知り合った「鰯」さんのこの記事、 ・明治150年? – 岩下 啓亮 – Medium ちょっと興味深く思ったので、今回はその話。 ニッポンの総天然色全体主義について書こうと思ったのですが、まとまってません(笑)。 鰯さんの記事によると、内閣官房「明治150年」関連施策推進室からの貼付依頼で、「明治150年」のポスターがやってきて、何枚貼ったか実績を報告するように、と通達文書に記してあるんだそうで。 鰯さんは、 単純に戦前回帰とは言いたくありませんが、なんとも強圧的な周知徹底ぶりではありませんか。 と書くのですが、これって多分町内会とかのレベルで「貼りなさい」そして「どれだけ貼ったか報告しなさい」って話ですよね。 鰯さんは東京ぐらしの経験がある人だから、「これって変じゃない?」って思うわけだけど、地方の「因習的日本」しか知らない人だったら、たぶん、何も考えずに貼りだしちゃうんでしょうかね。 安倍総理に代表される今のニッポンが、明治以来の近代化を誇りたがる気持ちは、まあ、分かるのですが、それってちょっと間違えれば、 「戦前のニッポンは正しくて、戦後の民主主義は間違ってた」 みたいな話に簡単に捻じ曲げられちゃうとことだと思います。 「戦後の民主主義」に行き過ぎや間違いは、確かにあったでしょう。 でも、それと、 「戦後の民主主義は全部間違い、戦前に回帰するのが最高」 というのは、また別の話で。 今の日本の政治状況って、ものすごい「右旋回」をしているのに、多数派の人は、そういうことに無頓着なところで、なんだか分からないままに、「まー、そんなもんかなー」と日本的に流してる気がするんですよね。 でも、そういう状況に、「なんかちょっとおかしくない?」と思っている方々も、少数かもしれないけれど、若老女男問わずいらっしゃるはずで、まーぼくとしては、そういうみなさまに対して、 「それ、合ってます。今の状況はかなりおかしいです」 と、主観にもとづいて伝えるだけのことなんです。 「今の状況がほんとにおかしいかどうか」ってことは、 これは、後世の人が判断するしかないことですからね。 とまあ、そんな話で、いまいちまとまりがつきませんけれど、今の「この日本の状況」に何か感じてらっしゃるみなさんにつきましては、「うーーーむ」という「気」だけでもかまいませんので、気持ちをおさえずに周りにちゃんと発してもらって、この時代の大きな流れを、ちっとでも変える方向で、「行動」していただけたらなぁー、みたいに思うわけなのでした。 てなことで、この記事はおしまいです。 ではまた、ナマステジーっ♬

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wired.jp にこんな記事が出ていたました。 ・悲鳴にゾッとするのは「甲高いから」ではなかった──米研究結果で判明した「絶叫のメカニズム」|WIRED.jp ここで取り上げられている研究は二年前のもので、どうして今これを記事にしたのか不思議なのですが、ちょっとおもしろい内容なので紹介します。 甲高くて大声なら悲鳴? 音量のばらつき、ラフネスが悲鳴を決める 悲鳴の「ラフネス」が恐怖の中枢「扁桃体」を乗っ取る 「扁桃体」の過度の乗っ取りにはご用心 甲高くて大声なら悲鳴? 音量のばらつき、ラフネスが悲鳴を決める ニューヨーク大学教授で、神経科学者のデヴィッド・ペッペル(David Poeppel) さんは、15年もの長きに渡って、「恐怖による叫び声」の研究を行なってきました。 彼は同僚と共に、インターネットを隅々まで検索し、悲鳴のデータを集め、また、実際に人々を研究所に招いて悲鳴を上げてもらう、といった方法も使って「悲鳴データベース」を作り上げました。 当初、「悲鳴」を特徴づけるのは、「大声であること」や「甲高いこと」ではないかと考えましたが、実際にこの「悲鳴データベース」を音声分析した結果、悲鳴の特徴は「音量」や「音の高さ」によるものではなく「粗さ=ラフネス roughness」によるものであることが分かりました。 ラフネスは、音の大きさの変動率を意味します。 つまり「ただ大きい」のではなく、「大きくなったり小さくなったりする」ことが、人の注意を引くためには必要だということです。 普通の会話では、音の変動率は一秒あたり 4 - 5 倍程度なのに、悲鳴の場合は 30 - 150 倍にも及ぶとのことです。 悲鳴の「ラフネス」が恐怖の中枢「扁桃体」を乗っ取る ちなみに、この「ラフネス」が関係するのは、人の発する「悲鳴」には限りません。 救急車のサイレンや、家庭内のアラームなどにも同じ特徴があり、それによって人の注意を引くという役割を果たしているのです。 そして、この研究で、たいへん興味深いところは、こうした「ラフネス」で特徴づけられる音が、人間の脳の中でも「恐れ」といった感情の処理に関わる「扁桃体」という部位を活性化させたという事実です。 (ラフネスが大きいほど、扁桃体の活性化の度合いも大きくなります) 「扁桃体」が活性化されることによって、「緊急事態」用のシステムのスイッチが入ると、動物の場合は「攻撃か逃避か」といった行動をとることが知られています。 人間は、普段は比較的「理性」的に行動していますが、「扁桃体」が活性化すると「感情」優位の行動になることから、これを「扁桃体」による「乗っ取り=ハイジャック」と言ったりもします。 この研究によって、「悲鳴」というものが、この「乗っ取り」に関わるスイッチの役割を果たしていることが、実験的に確かめられたわけです。 ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ☆ここでちょっと一休み、<スポンサード・リンク>です。 ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ 「扁桃体」の過度の乗っ取りにはご用心 目覚ましのアラームが「扁桃体」を刺激してくれるおかげで、毎朝遅刻をせずに、学校や会社に行けるのは助かりますが、社会生活の中で無闇に「扁桃体」に乗っ取られ続けていては、落ち着いた行動が取れなくなってしまいます。 「悲鳴」のような特殊な音のパターンだけでなく、ちょっとした音でも気になって集中力がそこなわれるようなことって、ありますよね。 毎日よく寝て、週末にはゆっくり休んだり、気分転換をしたりして、生活が健康的に回っていればいいのですが、なんだか「妙に音が気になって集中できない」とか「テレビの音がやけに頭に突き刺さってくる」みたいなことが、もしもあったら、日頃のストレスが積もり積もって「扁桃体の乗っ取り」が恒常化しているおそれがあります。 そんなときは、しっかり休みを取るのが一番です。 無理をせず、自分を十分いたわってあげてください。

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ネット通販の覇者アマゾンに「欲しいものリスト」というのがあるのは知っていたのですが、自分では使ったことがありませんでした。 自分の「欲しいものリスト」を公開しても、誰も何も送ってくれない気がしたし、自分から誰かに何かを贈るような、社交性のある人間でもなかったからです。 でも、ふと気まぐれで、ある方の「欲しいものリスト」をのぞいてみたら、「あー、ちょっとこの人に贈ってみようかなー」って気になったんです。 この記事では、その顛末などを少し書いてみます。 ・[:title] ほしいけれど、ちょっと高くて手が届かないもの 昼飯を抜いてSFの文庫本を買っていた高校生のころ ネット上で「もの」を介して人とつながることの楽しさ ほしいけれど、ちょっと高くて手が届かないもの みなさんは、 あれ、ほしいんだけど、ちょっと高いから、手が出ないんだよなー、 みたいな品物ってありますか? ぼくは、物欲は放り捨てる方向で生きているので、今はあんまりそういうのはないんですけど、若いころは、小さなものがいろいろあったような気がします。 それで、わっとさんの記事を通して、たまたま知った反航路さんという方が、アマゾンの「欲しいものリスト」に、 日本料理 野菜調理ハンドブック: 基本の下処理・切り方・味つけ 作者: 奥田高光 出版社/メーカー: 柴田書店 発売日: 2016/07/28 という本を載せてらしたんですよ。 ちょっと高い本だから手元には置けないけれど、図書館から借りてきてよく眺めている、みたいなことが書いてあって。 そもそも、わっとさんが紹介していた反航路さんの記事はどんなものだったか、というと、 反航路さんは本屋でバイトをしている 店長が最低賃金を守ってくれない 店長とメイルでやりとりをしたが埒が明かない というような内容でした。 そこには、反航路さんは、店長に恩があるので、事を荒立てたくはないのだけれど、最低賃金を守ってもらうためには、間に人を立てたりするべきなのだろうか、と悩む心情がつづられていました。 時給の差額としては、何十円の話ではありますが、額の多寡ではなく、「守るべき法律はちゃんと守ってほしい」というこの話と、さきほどの料理の本が「ほしいけど、高くて買えない」という話が合わさったとき、 「あっ、この本、買ってあげよう」 って、すっと思ったんですよね。 それはなんか、若くてお金がなかったころの自分に、プレゼントするような、そんな気持ちだったんです。 ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ☆ここでちょっと一休み、<スポンサード・リンク>です。 ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ 昼飯を抜いてSFの文庫本を買っていた高校生のころ ぼくが高校生だったころ、1980年代のはじめのことになりますが、お昼代として 300 円もらっていました。 そして、昼飯は食わずにひもじい思いをしながら、当時熱中していたSFの文庫本などの購入資金にあてていたものです。 単行本は高くてなかなか手が出なかったですね。

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しばらく前の medium.com にこういう記事が載っていました。 ・The Myth of Independent Thought – The Polymath Project – Medium 直訳すると「独立思考の神話」というような意味ですが、「他の人に一切頼らないで考えることはできないよね」みたいな話です。 学校教育では、なんでもかんでも「自分で考えなさい」みたいに押しつけられますので、 うまく考えられない人は、自分がだめな人間になったような気がしますし、 上手に考えられる人は、自分ができる人間になったような勘違いをしたりする わけですが、ほんとにそんなふうに考えてて大丈夫なのかな? というおもしろい視点を提供してくれる話だと思うので、その内容を紹介するとともに、ぼくたちがどんなふうにすれば「集合知」を使いこなすことができるかを少し考えてみましょう。 地球は丸いってほんとに知ってますか? 自分だけで考えられる人なんて、どこにもいません あなたにとって「真実」って何? 自分の道を歩いてますか? 地球は丸いってほんとに知ってますか? ぼくたちは学校で教わったり、テレビやネットで見聞きしたり、たくさんのことを知っているわけですが、「知っている」という言葉は、実際のところどんなことを意味してると思いますか? そんなことを突然聞かれても答えに詰まるかもしれませんね。 そこで質問です。 あなたは、地球は丸いってほんとうに知ってますか? 頭のいいあなたは、いろいろな状況証拠をあげて、だから「地球は丸いはずだ」ということができるかもしれません。 でも、だからって「地球は丸い」と知ってると言えますかね。 「確かに丸い」っていう実感はありますか? サッカーのボールだったら、「丸い」のを知ってますよね。 それと同じ意味で「地球は丸い」っていう実感がありますかね? 千人に一人か、一万人に一人かは、「地球は丸い」って実感を持っている人もいるかもしれないとは思うのですけど、普通の人は、「地球は丸い」はずだって思ってるだけで、「知っている」はずのことでも、実際には「信じている」にすぎなかったりするわけです。 頭のいい科学者の人や、自分が信頼できる多くの人が「地球は丸い」と言っているから、あなたは自分も「地球は丸い」と信じることにしたのです。 自分は知らないのに、人を信じて知っていることにする。 これが「集合知」の一つの働きです。 そんなふうにしてあなたは、さまざまな「集合知」に頼って生きているわけで、それは人間が言葉を使う社会的な生き物である以上、当たり前のことなんですね。 というわけで、集合知を使いこなすための一つ目のポイントは、 あなたはすでに「集合知」を使いこなしている、 「集合知」なんて特別なものじゃない、 ということなのでした。 ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ☆ここでちょっと一休み、<スポンサード・リンク>です。 ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─

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日本のみなさん、こんにちわー。 「景気は回復している」とニュースでは言っているのに、賃上げとしては反映されず、その実感もないまま年末の日々を過ごしていらっしゃることでしょうか。 ぼくはどっちかというと経済音痴ですが、海外暮らしが長いので、円の為替の動向には少しばかり興味があります。 それで、前々から どうして円安と株高はセットになっているのか ということが気になっていたんですね。 この疑問に納得のいく解答が得られたので、今日はそこのところをみなさんと一緒に考えていきたいと思います。 なお、結論は、 海外投資家が円を借りて、株を買うから。 その結果、円安になると輸出型の日本企業にとって好都合だから。 ということになります。 なぜ円は安くなる? それは円をじゃぶじゃぶ供給するから 好況になれば株は高くなる。株が高くなれば円も高くなる......はず なぜ円安になるのか - 海外投資家の円の調達法とその使い方 輸出型企業にも蝶都合のいい円安株高 - だけど、その行く末は? なぜ円は安くなる? それは円をじゃぶじゃぶ供給するから 景気が悪いときには、ふつう日銀は金融を緩和します。 金融緩和というのは、通貨量を増やすことで、つまりは円を増やすことです。 増えたお金を 企業が借り、 事業を拡大し、 賃金は上がって、 消費者は物を買い、 景気がよくなる という図式です。 このとき、供給された円を使ってドルを買う人がいれば、ドル高円安になります。 好況になれば株は高くなる。株が高くなれば円も高くなる......はず 円が増えて、景気がよくなれば、日本企業の株を買う人も増えます。株価は上がります。 このとき、「日本の株を買う人」の中には、当然「海外の投資家」もいます。 海外投資家の中には、短期的な利益を狙うヘッジファンドもあれば、中期的な利益を求めるファンドもあり、また、長期的で安定的な利益を目指す公的年金などの投資家もあります。 こうした海外投資家が日本株を買うことで、株高に弾みがつき、また安定した株高が維持されることになります。 このとき、海外投資家は株を買うために円を買うことになります。 すると、円の需要が高まるわけですから、円高になります。 つまり、好況になれば、結果的に「円高株高」になるはずです。 ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ☆ここでちょっと一休み、<スポンサード・リンク>です。 ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ なぜ円安になるのか - 海外投資家の円の調達法とその使い方 1980 年代の泡ぶく経済(バブル)の時代を経験しているぼくとしては、「あの頃は円高で株高だったよなー」と素朴に思い、どうして今は「円安と株高」がセットになるのか、不思議な気がしましたし、以上のように考えても、「円安」は出てきません。

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としべえ2.0β

北インド・ハリドワル辺りに出没中。

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宇宙のど真ん中