「月商600万円のメディア運営者」であるタクスズキさんが、
ヒカキン氏「消えるクリエイターは週1頻度で、時間をかけて凝った動画を配信する。消えずに活躍する人は質が低くても、毎日続ける」--これはブログも同じ。「内容薄くなる」は気にせず、毎日続けた方がアクセス、売上伸びるよ
という記事を書き、この記事のお知らせツイートが10,000件以上もリツイートされています。
タクさんのこの意見は「本当に正しい」と言えるのかどうか、少しばかり考えてみることにしましょう。
ちなみのこの記事の結論は、
成功者の意見だからといって、鵜呑みにしちゃダメだよ、 という平凡至極なものです。
「記事の品質は気にせず、毎日続けたほうがアクセス、売上は伸びる」は本当か? そもそもヒカキンさんは「毎日発信すべし」とは言ってないんだよね ブロガーとして成功したいあなたがまず考えるべきことは「自分なりのスタンスの確立」じゃないでしょうか 「自分なりのスタンスの確立」の実例としてオレノ・ユイゴンさんのこと 「記事の品質は気にせず、毎日続けたほうがアクセス、売上は伸びる」は本当か? 「月商600万円ブロガー」タクさんは、
「内容薄くなる」は気にせず、毎日続けた方がアクセス、売上伸びるよ
と軽やかに言い放つのですが、ちょっと考えれば、これってかなりの「嘘」ですよね。
「内容が薄くなる」のを気にせず、たとえば、「毎日ほかの人の興味を引くはずがない個人的な日記」を続けたところで、多少はアクセスが増えても、売上なんて「伸びる」わけないじゃないですか。
もちろんタクさんは、他の「有用で有料」な記事も書いてらっしゃっていて、どんな内容を書けばいいかのノウハウを提供してくださってるわけですから、そちらでお勉強をして「内容は薄くても需要のある」記事を毎日書き続ければ、きっとアクセスも売上も伸びるのでしょうから、「真っ赤な嘘」呼ばわりはできませんけどね。
タクさんの指導通りにできる方は、アクセスも売上も伸びること間違いなしですから、安心してタクさんを信じて、毎日「内容の薄い」記事を量産してくださったらいいと思います。
というようなわけで、
「毎日続ければいいってもんじゃないでしょ!!」 という線で、この話題をもう少し検討してみましょう。
そもそもヒカキンさんは「毎日発信すべし」とは言ってないんだよね さて、タクさんの引用だと、
ヒカキン氏「消えるクリエイターは週1頻度で、時間をかけて凝った動画を配信する。消えずに活躍する人は質が低くても、毎日続ける」
となってるんですが、元のインタビュー記事 (2015/05/22 付け https://toyokeizai.net/articles/-/70187) を見ると、
「毎日アップするのは時間的にきつくて内容も薄くなるから」と言ってペースを落とした人ほど見かけなくなって、無理してでも毎日続ける人の方がずっと第一線でやっています。
(強調、筆者。以下同)
となっています。
これって、
「質が低くても、毎日続ける」んじゃなくて、 「がんばって質を維持して毎日続ける」 って意味ですよね。
おまけにヒカキンさんのこのインタビューは2015年のもので、今年3月の新しいインタビュー( 2018.3.20付け https://www.froggy.money/8584/) では、
――ユーチューバーってたくさんいますが、人気が出てから長く残っていく人と、すぐ消えちゃう人の違いってなんでしょう。
残るのは、研究熱心な人ですね。いまはどういう時代で何が流行っているか、ファンが見たいのは何か。そういうことを常に研究して、視聴者のニーズと動画が、ちゃんと噛み合っている人。別に、毎日動画をアップする必要はないんです。週に1本でも、ニーズを外さずにコツコツ投稿して、うまくいっている人もいます。
といっていて、「毎日更新する必要はない」と言い切っています。
こうやってみてくると、人気ユーチューバーのヒカキンさんの言葉を「誤読」して、ツイッターで上手にアクセス数を稼ぐタクさんは、確かに「月商600万円のメディア運営」をなさってるんでしょうけれども、その内容は一体どんなものなんだろうなー、とかいう余計な疑問まで湧いてくるというものです。
いや、でも、みなさん、こんなことを書いてるからっていって、別にタクスズキさんに恨みがあるわけでもなんでもないんですよ。
タクさんは、せっかく大勢の読者を持つ人気ブロガーさんなんだから、もっと高品質の記事を書いて、ビッグになってほしいなー、と思って応援として書いてるんですから。
あっ、でもこれじゃ応援にならないのか。
だって高品質の記事をしっかり書くんじゃなくて、
低品質の記事をどんどん書けばいい ってご意見なんですもんね。
こりゃまた失礼いたしましたーーっ wW
─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─
☆ここでちょっと一休み、<スポンサード・リンク>です。
─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─
「LGBTには生産性がない」という差別発言で悪名を馳せている自由民主党所属・2期目の衆議院議員をつとめる杉田水脈(みお)氏ですが、理学博士の琳さんという方が、その杉田氏を擁護する内容のツイートをしています。
一連のツイートの中で、
「自分の知り合いにも性的少数者の人はいるが、そうした人から差別されているというような話は聞いたことがない」
という趣旨の発言があり、これに対し、ブックマーク・コメントが183もついていますので、その中身をちょっと見てみましょう。
「差別は存在しない」と自分の経験だけで言い切ってしまう誤謬 「誤謬」としか言いようのない意見にネット上で出会ったとき、どうすればいいのか もともとの杉田氏の発言に戻って、ニッポンの未来のお先真っ暗感を味わってみましょう 「差別は存在しない」と自分の経験だけで言い切ってしまう誤謬 琳さんは問題となっているツイートで次のように言っています。
友人のゲイは彼氏と楽しく暮らしてるし、バイの友人も普通に生活してる。もちろん彼らには僕らにはわからないような悩みもたくさんあるだろうけど、少なくとも「俺達は差別されてる」なんてセリフ聞いたことない。
「LGBTは差別されていて欲しい」と思ってるの、お前らなんじゃねーのかって思う。
これに対して id:Dragoonriders さんは、
周囲の人間が言ったかどうかをただ漫然と観測してるだけでは、わからないことだらけの世界。言っても理解しない人だから言わないだけかも、って自分を鏡で見る感性が必要。 と述べていて、まったく正論と言えましょう。
しかしながら、琳さんのような「差別される側」の気持ちを想像できないタイプの人に、「自分を鏡で見る感性」を期待することは残念ながらかなり無理なことでしょう。
id:tabidachi_nam さんは、
理系の癖に差別に関する当事者へのアンケート結果すらも見てないのかよ。観測範囲を極狭い範囲に絞ってレポート提出してんのかお前は。 と書いてらっしゃっており、琳さんの差別問題に関して、実際のデータに基づかずに主観だけでものを言っていることへの批判はもっともです。
ただし、彼女/彼が自分の専門の研究でどのような仕事をなさっているかということは、まったく分かりませんので、しっかりと科学的な真実を追求する姿勢で研究してくださっていることを祈るのみです。
─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─
☆ここでちょっと一休み、<スポンサード・リンク>です。
─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─
「誤謬」としか言いようのない意見にネット上で出会ったとき、どうすればいいのか 琳さんのツイートについたコメントの多くは、おおむね二つの種類に分けられます。
皮肉っぽくからかうもの、と 明らさまにバカにするものです。 どちらもそれぞれの方の意思表明として大いに意味はあるのですが、もともとの琳さんの発言の中に、
「弱者を仕立て上げ、悪者を作り上げ、攻撃しやすいフレーズで、よってたかってその『悪者』を叩く」というパターンが、東北震災からこっち、特に顕在化したと感じている。
彼らは、騒ぐだけ騒いで焼け野原にした後は、知らんぷりで次の獲物に向かう。
もういい加減、踊らされるのやめましょうや。
という言葉があるのことを考えると、ユーモアでからかうのはともかく、ぎらぎらと怒りをぶつけるような言葉には、やはり違和感を感じてしまうのです。
杉田水脈氏の発言も、琳さんの発言も「限りなく誤謬としか言いようのないもの」だとは、ぼくも思います。
けれども、それを「攻撃して叩き潰してなきものにしよう」と思って発言してらっしゃる方には、
「そういうやり方ってホントに有効ですかね?」 と聞いてみたいのです。
データに基づいて有効性を示してくれ、というわけではありませんが、自分の胸に手を当てて、
「これはただ自分のストレス解消のためにやってるだけではないのか?」 と自問してみてほしいと思うのです。
もちろん「ストレスの解消」も大切なことですから、それを分かってやってらっしゃるのなら、何も言うことはありません。
そうではなく、
「民主主義的原理」を「勘違い」して、「ディベート原理主義」に落ち入っていないか、 相手を叩き潰していけば世の中はよくなる、という到底ありそうにない「空想」を信じこんでいないか、 そういうようなことがもしあったなら、ここらで少しネット上での発言のスタイルを変えることをご考慮していただけたら嬉しいなと思うのです。
今回はわっとさんの記事に相乗りさせていただいて、街頭で政治的な意思表示をすることの意味と、民進党の枝野幸男氏による国会での「安倍内閣不信任決議案の趣旨説明」について書くことにします。
オウム真理教の教祖・麻原彰晃こと松本智津夫氏をはじめとする13人の死刑囚に対する「処刑」が、2018年7月に二回に分けて執行されました。
この件について、作家の村上春樹氏が毎日新聞に次の記事を寄稿しています。
・村上春樹氏:寄稿 胸の中の鈍いおもり 事件終わっていない オウム13人死刑執行 - 毎日新聞
村上氏は「アンダーグラウンド」というノンフィクションの作品で地下鉄サリン事件の被害者や遺族のインタビューをまとめており、オウム事件の裁判の傍聴も続けてきました。
本稿では、村上氏の寄稿記事を紹介するとともに、オウム真理教事件がわたしたち国民の一人ひとりに問いかける問題について、今一度考えてみたいと思います。
死刑という制度は必要なのか、生きて償いをするべきではないのか 「師を誤らない」ためにはどうすればいいのか - 林泰男氏の場合 死刑という制度は必要なのか、生きて償いをするべきではないのか 村上氏ははじめに、一般論として「死刑には反対の立場である」ことを述べ、その理由として
死刑が究極の償いであるという考え方は、世界的にコンセンサスが得られなくなっていることと、 数多くの冤罪事件を考えれば、死刑は「致死的な危険性を含んだ制度」である ことを挙げています。
一方で、オウム真理教事件に関しては、
「アンダーグラウンド」という本を書く過程で、丸一年かけて地下鉄サリン・ガスの被害者や、亡くなられた方の遺族をインタビューし、その人々の味わわれた悲しみや苦しみ、感じておられる怒りを実際に目の前にしてきた僕としては、「私は死刑制度には反対です」とは、少なくともこの件に関しては、簡単には公言できないでいる。
と書いています。
村上氏がこのように述べていることにはまったく共感するのですが、ぼくの個人的意見としては、オウム事件についても死刑を執行するべきではなかったと考えるのです。
もちろん村上氏が書くように、
「この犯人はとても赦(ゆる)すことができない。一刻も早く死刑を執行してほしい」という一部遺族の気持ち
があることを考えれば、そうした遺族に対して、「いや、死刑という制度には問題があるから、死刑を執行するべきではなかったのだ」というようなことをわざわざ言うぺきだとは思いません。
現に今の日本に死刑という制度がある以上、その刑罰が現実に執行されたことについてはそれなりの合理性も当然あり、一部の遺族の気持ちがそれで多少なりとも安らぐのであれば、その事実まで否定することはできないからです。
しかしながら、死刑という刑罰の形ではなく、生きて「なぜあんな事件を起こしてしまったのか」という問いと向き合い、不完全ではあってもその答えを社会に伝えるという形で償いをすることのほうが、犯罪を犯してしまった人にとっても、そのどう時代を生きる者にとっても、ずっと意味があるはずだ、という考えはぼくの中で揺るぐことはないのです。
─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─
☆ここでちょっと一休み、<スポンサード・リンク>です。
─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─
「師を誤らない」ためにはどうすればいいのか - 林泰男氏の場合 村上氏は、オウム事件の裁判の傍聴に当たり、地下鉄でのサリン散布を実行し、13人中9人の死亡者*1を出したことから、「殺人マシーン」の異名で呼ばれることになった林泰男氏の裁判を特にフォローしたと述べています。
氏は、林泰男について「他の実行犯たちが、サリン・ガス溶液の入った二つのビニール袋を、尖(とが)らせた傘の先で突いたのに対し、自分から進んでビニール袋を三つに増やしてもらい、それを突いた」と書いていますが、ハフポストの記事
林泰男死刑囚への1審判決で、裁判長が出した異例のメッセージとは?(ハフポスト日本版) - Yahoo!ニュース
によると、「喜んで」三つの袋を受け取ったわけではなく、「みんながいやがる仕事を引き受ける」という「真面目さ」からそのような結果になったことがうかがい知れます。
一審において林泰男の審理を担当した木村烈裁判長は、量刑理由の要旨で、
被告は元来凶暴、凶悪な性格ではない。魚屋を営む友人が病み上がりの体で商売する姿を見かねて自分の仕事を犠牲にして手伝ったこともあり、善良な性格を見て取れる。松本被告や教団とのかかわりを捨象して林被告を一個の人間としてみるかぎり、資質や人間性それ自体を取り立てて非難することはできない。
およそ師を誤るほど不幸なことはなく、この意味において、林被告もまた、不幸かつ不運であったと言える。
(強調、筆者。以下同)
先日某所にて、著作権法で保護されているデータを私的なコピーとして「限定的」に公開したところ、id:typex2さんから、「それってまずいんじゃない」という意味のコメントをいただきました。
そこで今回は著作権の問題を題材に、さまざまな法規制と賢くつき合う方法を考えてみることにします。
著作権法でも私的コピーは認められているという立場 「善意から出た一言」がかえって著作権の侵害を引き起こすという奇妙なよじれ cdのデータをコピーして友だちにあげたことはありませんか? 法の恣意性と「法に魂を入れる」ことの意義 著作権法でも私的コピーは認められているという立場 著作権法を厳密に解釈すれば、確かにぼくの行なった「限定公開」は「問題」をはらんでおり、「技術的には誰もがコピーできる」場所に他人の著作物を保管することは、賢いやり方とは言えません。
typex2さんのおっしゃる通り、「公開」をとりやめにしたほうが波風立てずに「安全なセーカツ」が送れるというものです。
けれども法律というのは所詮「ニンゲンが便宜的に定めたもの」としか考えないぼくの立場からすれば、
著作権法で保護されたものであっても、私的なコピーを取ることは個人の自由として当然認められている、 と考えますから、行為の結果起こることの責任は自分がとることはこれも当たり前の前提として、「限定公開」と称してオープンな場に私的コピーを保管することくらい、
「別にいーじゃない、カラスの勝手でしょ」
と言いたくもなるところなのです。
「善意から出た一言」がかえって著作権の侵害を引き起こすという奇妙なよじれ typex2さんが「あなたのしていることは著作権の侵害に当たるのでやめたほうがいいですよ」と善意で言ってくださっているのは痛いほど分かるのですが、
「xxxさんの著作物を勝手に公開するのは問題だ」 というような書き方をしている点については、そのような形で著作権者の名前をオープンにすることは、
かえって著作権の侵害を助長することになる ので、
「そういうやり方は、やめといたほうがいいでしょう」 と思います。
ぼくは「限定公開」をお知らせする記事で、
不特定多数の人に対してダウンロードを許可するものではなく、あくまでぼくの個人的な友だちに対する私的な公開である ことを断っています。
そのため検索流入がおこらないように、タイトルや作家名などは明示していません。
それなのに、あー、それなのに、それなのに、typex2さんはご丁寧にも作家名を明示してくださってしまったので、これによってぼくの友だち以外の誰ともしれない人々が、大量の違法コピーをすることになって著作権者の方に多大な損害を与えた場合、保管者としてのぼくの責任はもちろん生じますが、違法コピーを助長する行為を行なったtypex2さんもその法的責任をまぬがれえないだろうことを考えると、せっかく善意からの助言をしてくださったtypex2さんには、今後はそのような「危険」な発言はなさらないように、くれぐれもご注意いただきたいと思うのです。*1
─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─
☆ここでちょっと一休み、<スポンサード・リンク>です。
─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─
cdのデータをコピーして友だちにあげたことはありませんか? さて、typex2さんのような生真面目に法律を遵守され
cdの一枚も違法コピーをしたことがないような方 には、ぼくのやっている「超法規的行為」の意味がまったく分からず、社会の存在基盤が揺らぐような危機感すら覚えるかもしれませんので、どうして一見「おろか」としか思えない「パブリックな場に私的コピーを保管する」ような無謀な行為をわざわざ行なっているのか、その考え方について少しばかり説明してみましょう。
著作権の保護期間が50年から70年に伸ばされることの是非が取り沙汰される昨今ですが、その延長を否定する論の根拠として、多くの著作者の出版物について、そもそも死後に発行されること自体が少ないことを調査したデータがあります。*2
であるにもかかわらず、保護期間を50年から70年に延長することは、ごく少数の力のある著作権者の権利ばかりを保護して、人類の共有財産である多様な著作物へ多数の者が自由にアクセスする権利を侵害ずるのは、「よろしくない」法律であると言いうるわけです。
同じことが現行の著作物の保護に関しても言えるはずだ、というのがぼくの個人的な見解です。
たとえ有名な作家であっても、うん十年前のもはやほとんど「売れない」作品というものはあるわけです。
とは言え、そうした作品も著作物として権利が保護されますから、これを勝手にコピーして販売するとなれば、それはもちろん取り締まりの対象となるでしょう。
けれどもそうした「古い作品」を、私的コピーの範囲で少数の「友だち」の便宜を図るために、パブリックではあるが目立たない場所に保管する程度のことは、わざわざ法律で取り締まる必要があるほどの大きな権利侵害には当たらず、多くの「善良な市民」が行なったことがあるはずの「cdを友だちにコピーしてあげる」ことと同じくらいの
軽微な法律違反にすぎない、 と考えるわけです。
図書館で本を借りて読むにしろ、古本屋で本を買って読むにしろ、「著作権者にお金が入らない」という意味では、「ネット上でデータを『借りて』読む」場合となんら変わりはありません。
「多数派の規範の押しつけ」が強くなっていることをひしひしと感じる今だからこそ、
※事情により、この記事に対するブックマーク・コメントは非表示にしております。
ジモコロのナカノヒトミさんの記事
・せどりから古本屋で年商16億円!? amazonでよく見る「バリューブックス」の正体 - イーアイデムの地元メディア「ジモコロ」
を読んで、
「おー、バリューブックス、たまたまこの間はじめてアマゾンでここから本を買ったけど、そんなにすごかったのか!!」
と軽く驚かせていただきました。
一日に二万冊の本が送られてきて、一万冊の本を販売、年商は16億円とか。
今日はそんなバリューブックスの話から、書籍や書店の未来について妄想してみたいと思います。
本を買い取って売るだけじゃない。バリューブックスの付加価値的活動とは? 本の未来と書店の行方はどうなるんでしょうね。 本を買い取って売るだけじゃない。バリューブックスの付加価値的活動とは? 株式会社バリューブックス代表の中村大樹さん(34歳)は、東京電気大学を卒業後、就職せずに初めの二年間は個人事業主として古本のせどりを商売にしました。
「せどり」とは、ほかの古本屋で価値ある安い本を仕入れ、高額で売ることで差額を利益にする商売です。
その二年間で、最終的には仲間五人ほどで事業を行ない、年商8,000万円ほどだったというのだから、見事なものです。
そして会社を立ち上げ、今に至るわけですが、その活動はただ本を仕入れて販売するだけにとどまりません。
買取・販売ができなかった本を、老人ホームや児童施設に寄付したり、NPO法人の資金集めに協力するために本の買取をしたり、また、古本の販売時に提携した中小出版社の本については、出版社に利益を還元するなど、ユニークな取り組みをしています。
古本関係では、福島の会津で「本と森を交換する」古本屋さん『たもかく』も古くからとても面白い試みをしていますが、出版業界の先行きが不透明な今、新しい流れが生まれ、変化が続いていくことには、心躍るものを感じます。
─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─
☆ここでちょっと一休み、<スポンサード・リンク>です。
─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─
本の未来と書店の行方はどうなるんでしょうね。 さて、ナカノさんの記事のブックマーク・コメントでid:typex2さんという方が、
このビジネスは出版業界の利益を横取りしているだけで何も生み出さないから、最終的には出版業界を殺して終わりなんだろうな。。 と書いてらっしゃって、まあ、言わんとすることは分かります。
けれどもバリューブックスさんは「提携出版社への利益還元」を行なっているわけですし、そうした提携が一般化していけば、「利益の横取り」とは言えなくなります。
また、出版業界がそう簡単に「死んでしまう」かというと、そこのところも、必ずしもそうは言えないだろうな、と思うのです。
今の出版業界は多種少量販売になっているからこそ、新しい形の古本屋が生まれうる余地があるわけですし、その多種少量販売の中でどんな本が売れるかについても、いくらでも新しい可能性がありえます。
キンドルなどの電子書籍の販売が今後さらに一般化していくことも間違いありませんが、紙の書籍の利便性には相当程度の優位がありますので、出版業界の再編は起こるでしょうし、長期的な低迷は避けがたいでしょうか、業界自体が簡単に死滅するとは到底思えません。
また、cd 全盛の現代においても塩ビのレコードの需要が決してなくならないこととも似て、十分な未来においてほとんどの人が電子書籍しか読まなくなったとしても、好事家は紙の書籍を愛し続けるに違いありません。
そうなれば、古本の希少なものは今以上にプレミアムがついた価格で取引されることも予想されますから、古本屋というものも存在形態は変わっても文明の滅びない限り、人類と運命を共にすることになるのではないでしょうか。
というわけで、出版というものの未来がどんなものになるのかについて、未来図をはっきり描くようなことはできませんが、若い頃より本を愛してきた者として、書籍の未来に想いを馳せながら、そろそろこの記事を終わることにしましょう。
なお、本稿は、id:A1rironさんの
・本とヒトに優しい古本屋さん『バリューブックス』の世界観は「古本屋界のサードウェーブ」だと思った! - A1理論はミニマリスト
に刺激を受けて書かせていただきました。
id:A1rironさん、ありがとうございましたー。
てなとこで、この記事は一旦おしまいです。
それではみなさん、ナマステジーっ♬
はてな匿名ダイアリーに投稿されたほんのイタズラ程度の短い書き込み
・ニセ科学には怒り狂うけど「ネコは人語を解する」には寛容なはてなー
に330以上のブックマークがついているもので、今日も今日とて「ニセ科学」ネタで「ネット上での意見表明」というものについて考えてみようと思います。
「猫は人語を解するのか」についての心理学的コーサツ 「ニセ科学批判」という名の「ニセ科学商法批判」と社会正義の恣意性について 「批判という名のストレス発散」にはもちろん存在意義がある 「猫は人語を解するのか」についての心理学的コーサツ 件の匿名記事のタイトルを素直に受け止めれば、この記事を書いた匿名さんは、
猫が人語を解するわけがない、 と言いたいのでしょう。
「言葉を理解する」ということを「一つ一つの単語の指すものを理解し、全体としての文章の意味を理解する」というように考えれば、「猫には人の言葉が理解できる」という主張には、無理があるように思えます。
けれども、恋人にふられた飼い主がペットの猫に「くやしい、悲しい」といった意味のことを言ったときに、猫がそれを「理解」してくれて「優しく寄り添ってくれる」というようなことならば、猫好きの人なら当然「あるある」と思うに違いありません。
それは厳密には言葉を「理解」しているわけではないかもしれませんが、飼い主からすれば、「確かに自分の気持ちを理解してくれている」と思って当然の経験ですし、これをして「猫は人の言葉が分かるのだ」という人がいるとき、「科学的な分析」に基づいて、「猫に人の言葉が分からない」などとわざわざ言う人がいるとしたら、無粋の極みと言えましょう。
というわけで、「猫が人語を解するかどうか」という問題は、自然科学の問題というよりは心理学的な問題であり、「科学的真実の前には人間関係なんてどうでもいいのだ」という超原理主義的科学オタク以外の人が、わざわざ「猫・人語」問題にケチをつけるなどということは、実質的にあるわけもない「戯れ言」ということになりましょう。
─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─
☆ここでちょっと一休み、<スポンサード・リンク>です。
─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─
「ニセ科学批判」という名の「ニセ科学商法批判」と社会正義の恣意性について さて、件の匿名記事の全文は次の通りです。
まあ猫様はヒトカスの上にあるから仕方ないよね!
……正直にいうと、騙されたり金儲けでない程度の与太話ならいいんでないの。なのでEM菌商法は滅びるべき。
つまり、「ネコは人語を解する」という話題は、この書き込みをした匿名さんからすれば、ただの「ツリ」にすぎないわけで、
はてな界隈の人たちが好きそうな「ニセ科学批判」のネタをちょっと突っ込んでみました、 という書き手の意図は、まったくはっきりしています。
そこで「ニセ科学批判」とは何のことで、それにはどういう意味があるのかについて少し考えることにしましょう。
この場合についても、科学原理主義者の方々が「科学的におかしな言説が世の中に広まることはけしからん」という観点から、さまざまな「疑似科学」についてそのどこが「非科学的」なのかを啓蒙するために、意見を表明するということは、社会的にもそれなりの意味があるものと思います。
けれども、はてな界隈の言説をしばらく観察していて分かったことは、「ニセ科学批判」をする多くの人は、そうした「科学的真実」について語りたいわけではなくて、科学的な言説が詐欺的な商法に使われることに嫌悪感を感じているために、いわば社会正義の観点から「ニセ科学『商法』批判」をしているのにすぎなかったんだな、ということです。
「猫が人語を解する」という話題をネタにした匿名さんもまさにこうした主張の持ち主であり、
人を騙して、金儲けをするために「ニセ科学」を使うな、 ということをおっしゃっているわけです。
これも、確かにそれなりに意味のある意見表明と言えます。
というわけで、ここでは「ニセ科学批判」と言われているものは実質的に「ニセ科学商法批判」なのであり、それには確かに社会的意義も十分ある、という立場で話を進めていくことにします。
しかしながら、
EM菌やホメオパシーは「ニセ科学利用の詐欺商法」であるからけしからん、 というような個別の事例についての意見を考えるときには、「EM菌」や「ホメオパシー」といったものが、はたして本当に「詐欺商法」なのか、ということを、自然科学的見地だけからでなく、社会科学的見地からも検討する必要があるでしょう。
それでなければ、せっかくの批判も、単に自然科学オタクの人たちが仲間同士で「仮想敵」を攻撃するだけのごっこ遊びの域を出ないだろうことに、十分注意が必要なのではないかと思うのです。
EM菌やホメオパシーを信じて、現に救われる人がいるからこそ、そうした「擬似」科学を元にした経済行為が成り立つわけであり、それがプラシーボ効果でしかないとしても、そうしたサービスを喜んで利用する人がいる以上、そこに効用以上の明らかな害悪がないかぎりは、社会がそれを禁じることなどありえません。
ですから、
EMもホメオパシーも、そんなん信じてる奴はアホや というような言説をネット上で発するだけで、社会正義の実現に役に立つとナイーブに思っている方々には、
なぜニセ科学を信じる人は多数いるのか、 それを是正するためにはどういう言説が有効なのか、 といった基本的なことがらを、今一度ご深慮願いたいと思うのでありました。
ある言説が「ニセ科学」であるかどうか、という社会正義に関わる判断には多分に「恣意性」があることを考慮した上で、しっかりとその言説の問題点を指摘するのならば、社会的にも大いに意義あるものとなりにちがいありません。
みなさんは「魔術」という言葉を聞いて、何を思い浮かべるでしょうか。
魔法使いのお婆さんが鍋でぐつぐつ秘薬を煎じているところ、なんてのは、ちょっとレトロすぎますかね。
何しろアニメの魔法少女がダークファンタジーの世界で活躍する時代ですもんね。
あれ、でも、魔術と魔法って、同じものなんでしょうか?
この記事では、その辺りの言葉の使い方を入り口にして、SF作家、森下一仁氏の「魔術師大全」という本を肴に、魔術を巡る駄法螺を吹くことにしましょう。
魔術と魔法と呪術とまじないの関係をコーサツする 森下一仁著「魔術師大全」を読めば、西洋における魔術師の歴史が一目瞭然! 魔術とは果たして何なのか、それは本当に存在するのか 魔術と魔法と呪術とまじないの関係をコーサツする 魔術とか魔法とかいうのは、たぶん英語のマジック magic の訳語として作られた言葉なんでしょうね。
マジックの語源は、古代ササン朝ペルシアの神官を意味するマギ magi からきていて、西欧世界の人々がペルシアという東洋の異教の儀式を「魔術」として捉えたということのようです。
日本語でマジックと言ったら、奇術や手品のことになってしまいますが、これはアメリカあたりから見世物として入ってきたマジックショーの影響でしょうか。
試しにアメリカのフリーの辞書アプリを引いてみますと一番最初に「呪文や特別の身振りによって不可能なことを実行する不思議な力」といった意味のことが書いてあります*1。
ちなみにマジック以外に魔術に当たる言葉としては、ソーサリー sorcery というのもあります。
異世界ファンタジーの分野で「剣と魔法もの」というのがあって、これは sword and sorcery の訳ですね。英雄が剣を振り回し、魔法を使って活躍する物語のことです。
また、ぼくが好きなカルロス・カスタネダの「呪術師と私」というノンフィクション・ノベルでは、メキシコの呪術師に弟子入りしたアメリカの人類学者の姿が描かれますが、この呪術師は sorcerer の訳ですから、魔術師と言ってもかまわないはずです。
この辺の使い分けは、西洋的な魔術師に対して、それ以外のアジア・アフリカ世界などの場合は呪術師になるといった感じでしょうか。
ここで改めて魔法と魔術の違いを考えてみると、
魔法は、おとぎ話やファンタジーに出てくるもの、 魔術は、西洋世界で現実に誰かが実践しているもの、 というニュアンスの違いがあるような気がします。
というところで、森下一仁氏の「魔術師大全」の話に入ることにしましょう。
森下一仁著「魔術師大全」を読めば、西洋における魔術師の歴史が一目瞭然! さて、森下さんの「魔術師大全」ですが、副題が「古代から現代まで究極の秘術を求めた人々」となっています。
アマゾンのページで内容を見ると、
魔法・魔術は奇跡を生む技であり、古くから魔術を実現するため人々は試行錯誤を続けてきた。錬金術、テレパシー、占星術、未来予知、不老不死、テレポーテーションなど、人間が古代から求め続けた魔術の真髄を解き明かす。
とあります。
つまりこの本は、古代より現在に至るまで、西洋において実践されてきたとされる「魔術」について、様々な文献からその実像を解き明かす書物ということになります。
例えば古代ギリシアのビタゴラスといえば、ピタゴラスの定理でお馴染みですから、幾何学を研究した哲学者くらいに思っている方が多いかもしれませんが、彼が数学を研究したのは、神の持つ神秘の力が数字に現れるという数秘学の思想があったからこそなのです。
現代の数学観、科学観からすれば、不思議に思えるかもしれませんが、自然を統べる法則こそ神の力の顕れであり、古代においてはその研究はまさに魔術だったわけです。
SF作家のアーサー・C・クラークは「十分に発達した科学技術は魔法と区別できない」という意味のことを言いましたが、こうした歴史を鑑みれば、そもそももともとは魔術と科学の間に区別などなかったことが分かります。
* * *
さて、時代は下って17世紀、中世のフランスの話です。
太陽王ルイ14世の愛人モンテスパン夫人が起こしたとされる黒魔術の事件は、なんともおどろおどろしいものです。
この時代、魔術はキリスト教社会では当然のように禁じられていたにも関わらず、実際にはカトリックの神父が黒ミサと称される魔術的儀式をとりおこない、世俗の人間の欲望を叶える手伝いをしていたのでした。
モンテスパン夫人はルイ14世に見初められ寵愛を受けるのですが、やがて年月が流れば、王の心は更に若い愛人へと移っていきます。
その王の心を繋ぎとめようと、夫人は黒魔術に手を染めてしまったのです。
夫人の依頼を受けて、ギブールという神父が初めに行なったのは、夫人の希望が叶うように祈る程度のまだまだ常識的な範囲のミサでした。
しかし王の心を失うことを恐れた夫人の不安は収まることがなく、ギブール神父と彼を手引きした魔女ヴォアザン夫人に、更なる魔術や惚れ薬を要求していくことになります。
やがて鳥を生贄にする怪しい儀式を行なうことになり、それでも飽きたらずついには自らの体を祭壇とする黒ミサを行なうまでに至ります。
この血に染まった黒ミサでは、モンテスパン夫人は全裸になって自らの体を祭壇としたばかりでなく、なんと人間の赤子を生贄としたというのです。
しかしそうした儀式の甲斐もなく、王の心は夫人から離れてしまい、逆上した夫人は、王の呪殺、毒殺までをも依頼しますが、当局の手がヴォアザン夫人とギブール神父に及んだためにこの暗殺計画は頓挫します。
この事件で逮捕された関係者は360人を超えたにも関わらず、その顧客に宮廷内の有力者が多かったことから、実際の告訴は110人にとどまったとのことで、有罪となった者たちは、流刑、終身刑、死刑などに処されたのですが、ギブール神父は終身刑、ヴォアザン夫人は主犯として火炙りの刑を受けることとなったのでした。
王の寵愛を受けたモンテスパン夫人には特段のお咎めはなく、その後10年の間王との親交は続き、敬虔なカトリックの信仰に戻った夫人は、16年後にひっそり息を引き取ったとのことです。*2
─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─
「だわ」「なのよ」「かしら」といった、文章表現として今も多用される女性特有の語尾について、「そんな言い方しないよ」と感じる女性の方って、きっと多いはずですよね?
関東学院大学で言語学を研究している中村桃子さんのインタビュー
・なぜ翻訳でステレオタイプな「女ことば」が多用される? 言語学者・中村桃子さんインタビュー - wezzy|ウェジー
が、女ことばを巡り、言葉と政治の関わりについて興味深い内容だったので、「無意識に行なわれるステロタイプのおしつけ」という視点から、差別の問題や言語による思想統制の問題を考えてみます。
女ことばは女性が実際に話している言葉づかいじゃない 書き言葉としての役割語 ステロタイプに落ち入りやすい翻訳語 ジェンダーを表現する武器としての女ことば 「言語による思想統制」という政治的物語 女ことばは女性が実際に話している言葉づかいじゃない インタビューの冒頭で、中村さんはこう語ります。
みなさん「日本語には女ことばがある」ということはご存知ですよね。しかし、「女ことばってなあに?」と聞くと、「女の人が話してる言葉でしょ」って答えが返ってくるんですね。学生さんに尋ねてみても、昔から日本の女性はなにか共通した「女らしさ」を持っていて、それは「男らしさ」とはちがっていて、言葉を通じて自然にその女らしさがにじみ出た言葉づかいが「女ことば」だ、と理解している人が多いんです。しかし、果たしてそうなんだろうか? と。女ことばは女性が実際に話している言葉づかいじゃない。
文章表現として使われる「女ことば」が、喋り言葉として使われる「女ことば」と違うことは、まったくその通りです。
そこで、この記事では、
「女ことば」とは書き言葉において話し手が女性であることを示す表現法 を意味することにし、
喋り言葉としての女性特有の表現は「女性口語」 と表すことにします。
中村さんは、国語というものが政治的に作られてきた歴史に注目し、女ことばの持つ政治性について語るのですが、その前に文章表現における役割語としての女ことばのことを少し見てみましょう。
書き言葉としての役割語 「そうじゃ,わしが博士じゃ」としゃべる博士や「ごめん遊ばせ,よろしくってよ」と言うお嬢様に,会ったことがあるだろうか.現実には存在しなくても,いかにもそれらしく感じてしまう日本語,これを役割語と名づけよう.誰がいつ作ったのか,なぜみんなが知っているのか.そもそも一体何のために,こんな言葉づかいがあるのだろう?
これは、金水 敏さんの「ヴァーチャル日本語 役割語の謎」という本の紹介文句です。
このような役割語がなぜ存在するかというと、
文章表現において「誰が」喋っているかを強調し、 読者にキャラクターの個性を強くアピールするため、 ということになるでしょう。
「女ことば」についても、純粋な意味での役割語としての機能を考えれば、「話し手が女性である」という事実を表すだけのことですから、そこには必ずしも政治的な意味合いはないことになります。
役割語についてもっと知りたい方は、
金水 敏さんの「ヴァーチャル日本語 役割語の謎」(2003 岩波書店)
をぜひ読んでみてください。
─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─
☆ここでちょっと一休み、<スポンサード・リンク>です。
─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─
ステロタイプに落ち入りやすい翻訳語 マンガやアニメで使われる役割語は、キャラクターの明確化するために、作り手が意図的に使用するわけですから、新しい表現を生み出すこともあり、創造性も秘めています。
ネット上で「超」有名な作家はあちゅうさん(32)が、AV俳優のしみけんさん(38)との事実婚の報告をしたことは、みなさんもご存知かもしれません。
(えっ、それがどうしたって?) 芸能人でもないのにわざわざ表に報告することか?とも思いましたが、これまでの活動の中でプライベートも含めて応援してくださっている方に、ちゃんと私から報告したいと思って書きました
https://twitter.com/ha_chu/status/1018330754353266688 とのことで、とても謙虚に、しかも上手に話題作りをしている様子に、ネット上で文章を書いているものとして、たいへん共感する次第です。
お相手がどういう人か、などという「下世話」な関心もいろいろあろうところですが、「事実婚」の報告、というところが、「未来の作家の形を摸索中」のはあちゅうさんらしいですよね。
「事実婚って手続きあるの?」って結構聞かれるので書いておきますね。区役所で職員さんがお互いの本籍地に電話して、独身であるかどうかを確認し、確認後、住民票の続柄に妻(未届)という記載をつけてくれました&保険証の世帯主氏名に彼の名前が入りました。証明書とかは特にないみたいです。
https://twitter.com/ha_chu/status/1018331309112885249 ということで、住民票について事実婚の届出することができるんですって。
戸籍によらない実質的な結婚という形は、同性婚ということでも、東京の渋谷を初めとして、徐々に日本でも普通のことになり始めています。
新しい家族の形を考えるとき、こんなあり方もあるんだなと知っていると、少し自由な発想ができるかもしれませんよね。
ちなみにぼくは、二度結婚してるのですが、一回目の結婚のときは、奥さんの姓に変わりました。
普通は男のほうの姓にしますけど、どっちでも自由に選べるんですが、案外知られてないかもしれません。
とはいえその辺も、別姓婚ができない日本の制度の不自由だったりもするんですけど、まあ、いろいろと遊べる余地もあるということで。
ということで、話はちょっと横道にそれてしまいましたが、とにかく、はあちゅうさん、事実婚おめでとうございます、というわけなのでした。
はあちゅうさんには、林芙美子や林真理子に負けない素敵な「作家」として、今後も大活躍を期待したいものです。
☆こちらの記事もどうぞ。
・はあちゅうさんの「誤報」と、はるかぜちゃんの「意見」、ネットでの議論が噛み合わないのはどうして? - 「動物最強」発言再考 - *魂の次元*
・はあちゅうさんの「動物最強!」発言の炎上について、共感能力の視点から考察してみました - *魂の次元*