校正・校閲の仕事をしてらっしゃるbxjpさんの書いた
・校正のバイトをしててよく直す箇所10選|bxjp|note
が、分かりやすい文章を書くヒントとしてよくまとまっているもので初心者向けに役に立つものと思いますので、この記事ではその内容をシェアする形で、分かりやすい文章を書くためにはどんなことに気をつけたらよいかを考えてみます。
なお、ぼく自身は校正や編集の仕事をしているわけではなく、この記事では、ネット上で文章を公開している者として、自分が普段心がけていることを書いているだけであることを初めにお断りしておきます。
bxjpさんの「よく直す箇所10選」 1. 順接の「が」が頻出する 2. 「も」を使いがち 3. 「することができる」を使いがち 4. 途中で主語が入れ替わっている 5. 意味のまとまりで「、」を打たない 6. 列挙するときに余計な語句を入れてくる 7. そこ漢字?ってところが漢字 8. 同じ表現・言葉が近い位置に出てくる 9. 表現がバラエティ豊かすぎる 10. 同じことを書いている&省略せずに書いている A. 因果関係を示すために「ため」を使わない B. 「の」でなくてもいい場所から「の」を追放する C. 「イ形容詞+です」を避ける D. 「行う」を減らす E. 目的語の不足や、位置の修正 分かりやすい文章を書くためには、うまい文章を真似ること、そして自分の文章をしばらく寝かせて読みなおすこと bxjpさんとShikanoさん(後述)の記事を踏まえて、はてなの編集スタッフであるayako_m (id:ayakoya)さんが、
・日本語の編集をしていてよく直すパターン19選 - 壁に飾られた絵画を見ようとしてその絵に近寄ってはいけない
という記事を書いてらっしゃってます。
ぼくの記事より百倍切れ味がいい上に、四項目追加されてますので、今すぐ上記記事に跳んでください(笑)。
bxjpさんの「よく直す箇所10選」 bxjpさんは、次の10項目を挙げて、
「別に直さなくてもいいかもしれないけど、気をつけた方が読みやすい文章になるんじゃない?」
という趣旨で目安を示してくれています。
1. 順接の「が」が頻出する
2. 「も」を使いがち
3. 「することができる」を使いがち
4. 途中で主語が入れ替わっている
5. 意味のまとまりで「、」を打たない
6. 列挙するときに余計な語句を入れてくる
7. そこ漢字?ってところが漢字
8. 同じ表現・言葉が近い位置に出てくる
9. 表現がバラエティ豊かすぎる
10. 同じことを書いている&省略せずに書いている
また、Shikano Keiichiroさんという理工系出版社で制作をなさっていた方が、
・k16's note: 日本語の編集をしていてよく直すパターン15選(増えるかも)
はてな村の名エッセイスト、フミコフミオさんの
・なぜ仕事に好き/嫌いを持ち込むの? - Everything you've ever Dreamed
が、なかなか素敵に心を揺さぶる文章だったので、感想を書きます。
仕事に「好き・嫌い」を持ち込む人の気持ちが分からない、仕事嫌いのフミコさん フミコさんに共感するはてな村の人々 仕事に「好き・嫌い」を持ち込む人は、好きですか、それとも嫌い? 仕事に「好き・嫌い」を持ち込む人の気持ちが分からない、仕事嫌いのフミコさん フミコさんは件の記事で、
仕事に「好き・嫌い」を持ち込み、 「このクライアントは好き」とか「あそこは苦手」とか言う 部下のことを、「なんでそんなアッピールをするの?」と不思議がっています。
「どうせやらなきゃならない仕事なんだから、言うだけ無駄だろ」と言うわけです。
そして、「好き・嫌い」を仕事に持ち込む人の心理が自分には分からないのは、自分は仕事のすべてが嫌いで、嫌いだからこそ、「効率的に、うまく、短時間で」やろうとするのだ、とおっしゃっています。
フミコさんに共感するはてな村の人々 ブックマーク・コメントを見ると、フミコさんの気持ちにうったえかけつつも、抑えた独特の筆致に、はてな村の少なからぬ人々が共感していることがよく分かり、興味深いところです。
「あのクライアントは好きだ」とか「こっちのは苦手だ」とかいうような、世間ではありがちな「気持ち優先」な人たちに対して、違和感を抱くようなタイプの方がフミコさんのファンには多いということなのでしょう。
もちろん一部の人は、そんなフミコさんを「人の気持ちが分からない非人間」のように類型化して捉えて「揶揄」の言葉を投げかけるのですが、百戦錬磨のフミコさんにとっては、そんな小さな「悪意」など、特に気にするほどのものではないようです。
仕事が嫌いすぎるので出来るだけ楽にやりたいと言いたいだけの文章です。好きなことを仕事にしてる人を揶揄するつもりは全くございません。
というコメントをご自分で書き込んで、誤読による否定的コメントに対応してらっしゃいます。
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仕事に「好き・嫌い」を持ち込む人は、好きですか、それとも嫌い? クライアントが「好き」か「嫌い」か、を口に出すことで気分が楽になる人は、確実にいます。
ですから部下がそういうことを言っている場合には、上司は「なるほど、そうなのね」と聞いていればいいだけの話です。
同じように「仕事の好き・嫌いを持ち込む部下に疑問を感じる」という人が、そうした考えをブログに書いていたら、それでその人は気分が楽になっているはずですから、外野の人間は「なるほど、そうなのね」と聞いていればいいだけの話です。
そして、仕事に「好き・嫌い」を持ち込まないほうがすっきりしていい、と言うあなたの場合、いっそのこと
人生からも「好き・嫌い」をなくしてしまったほうがいい かもしれません。
これは冗談でも皮肉でもありません。
マインドフルネスという名前で現代に蘇った、お釈迦さまことゴータマ・シッダールタさんの瞑想法というのは、実のところ、
「好き・嫌い」なんてなくしたほうがハッピーに生きられるよ、 っていう話なんですから。
マインドフルネスの基本的な考え方は、
「今、この瞬間の体験に意図的に意識を向け、評価をせずに、とらわれのない状態で、ただ観ること」 にあります。*1
つまり、瞑想の練習をすることでマインドフルネスの状態に慣れ親しみ、「好き・嫌い」という生まれたときから無自覚に作り上げてきた「重い鎖」を手放すことができれば、人生、すんごく楽になれちゃうって話なんですよ。
というわけで、瞑想について興味のある方は、こちらの記事をお読みください。
・効果・実感もばっちり、とっても簡単な瞑想の方法おしえます - 24 時間の瞑想術
反航路 (id:giveus) さんの記事
・机の上にある絵 - いのちばっかりさ
を出発点に、つれづれに考えたことをしるします。
メメント・モリ - 死を想って、人生を謳歌する メメント・モリ - 死を想って、人生を謳歌する ぼくには三つ年上の兄がいるのですが、その兄が中学の工作で、ドクロと "memento mori" という文字を彫った小さな木箱を作っていたのを、四十年以上たった今でもよく憶えています。
反航路さんが、「メメント・モリ=死を想え」というフレーズに、どんな想いを込めているのかは知る由もありませんが、その言葉が「いつも手を伸ばせば届くところ」にあるという共通点に、いくばくかの「縁」というものを感じて、そこを出発点に文章をつづってみている次第です。
ぼくが好きなアメリカの作家カルロス・カスタネダのドンファン・シリーズには、"death as an advisor" という言葉が出てきます。死を助言者にしろ、というわけです。
カスタネダが弟子入りしたメキシコの呪術師ドン・ファンは、「死」というものが、いつでも左後ろを振り向くと「そこにいるのだ」と言います。
そして、その存在を忘れず、「死」を助言者とすることで、よりよく生きることができるのだ、と。
この言葉が第一に意味するところは、
人間というものは、いずれ遠からず死んでしまうのだから、今を精一杯生きるべきだ、 ということです。
日常というものに慣れ親しんでしまい、日々をのんべんだらりと生きてしまいがちなぼくたちにとって、一瞬一瞬を十分に味わってしっかりと生きるために「死」を意識することは、確かに大切なことでしょう。
一方で、仏教的な「無常」という観点から見ると、
やがては「死」で終わるのだから、「無常」でしかないこの世の価値観にとらわれることなく、自由に真実の命を生きよ、 という解釈も成り立ちます。
自分で望んで生まれたわけでもないのに、わけの分からない世間のしがらみに縛られて、砂を噛むような毎日を過ごしていると、なんのために生きているのかも分からなくなり、
さっさとこの世から消えてなくなりたい、 というような思いも湧いてきます。
そんなとき、自分が縛られていると思っている「世間のしがらみ」というものが、本当のところは実体のない、ただ移ろいゆく「観念」の集まりにすぎないことを思い出すことができれば、その「観念」を手放して、肩から力を抜き、全身をゆるめて、
心も体もゆっくりと休めるだけの「小さなゆとり」を持つこと だってできるはずです。
ぼくらを縛っている「観念」というものが移ろいゆく「無常」のものであるのと同様、ぼくらの「命」自体もまた移ろいゆく「エネルギーの流れ」にすぎません。
それはやがては「死」によって終わることになる「他愛のない自然現象」にすぎないのですから、それにまとわりついて今ここにある「しんどさ」もやはり「どうということのない」移ろいゆく自然現象にすぎません。
雨降りが嫌いでも、降る雨を止められないように、「しんどさ」を嫌っても、それを止めることはできません。
雨が降ったら、降り止むのを待ち、あるいは濡れないように傘をさします。
同じように、今ここにある「しんどさ」も毛嫌いすることなく、ただ認めてやり、それが自然に消え去っていくだけの時間と注意を与えてやればいいだけのことです。
そうやって「不快な感覚」を毛嫌いすることをやめられれば、そのもととなっている「観念連合」も弱まり、やがてはほどけていきますから、今はあなたを執拗に縛っている(としか思えない)「観念連合」の全体ですら、いずれはまったくなくしてしまうことだって、理論的には可能なことなのです。
こんなことを書いているぼくの頭の中にも、自分を縛りつけている「観念連合」はまだまだたくさんあるのはもちろんですが、こうして「死を想え」という言葉を思い出すことで、少しずつ心の奥底に溜まった澱をきれいにしていけたらなー、などと思いながら、こんな文章を書いているわけでして。
ですから、「人生を謳歌する」というような境地には、なかなか達することができないのですが、いつかはそんな境地に達することを願って、「一歩いっぽ歩いていくしかないのよね」という当たり前の結論を書いて、この短い記事はおしまいにします。
なお、カスタネダのドンファン・シリーズのうちでは、四冊目の
☆「力の話(新装・新訳版)」(2014 太田出版)
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がおすすめです。
これ一冊で十分完結していますので、西洋的な合理主義とも、東洋的な世界観とも違う、また別の価値観に興味のある方は、一読してみると必ず得るところがあるものと思います。
てなわけでみなさん、ナマステジーっ♬
今(2018年8月)アマゾンでバカ売れしている
『人生は、運よりも実力よりも「勘違いさせる力」できまっている』(2008 ダイヤモンド社)
みなさんはもう読まれましたか?
著者のふろむださんは、「分裂勘違い君劇場」という知る人ぞ知るモンスターブログの書き手なのですが、この本では、大学で専攻した心理学の知識をもとに、さまざまなデータを駆使し、
社会で成功するためには「錯覚資産≒人を勘違いさせる能力」がものをいうのだ、 ということを、実社会での豊富な経験も交えて、大変わかりやすく解説してくださっています。
「錯覚資産」というのはふろむださんの造語で、心理学の世界では有名な「ハロー(後光)効果」に代表される、自分が有利になるように「人に錯覚してもらう」能力を経済学的な「資産」に見立てたものです。
人間なら誰でも落ち入ってしまう「思考の錯覚」が「資産」になりうるとすれば、どうしてそんなことが可能なのか、そしてそれをどうやって使えばいいのかを知ることは有意義に違いありません。
「錯覚資産」を十分理解し、使いこなすことの重要性については、ふろむださんの著書
『人生は、運よりも実力よりも「勘違いさせる力」できまっている』(2008 ダイヤモンド社)
を読んでいただくとして、この記事では、
錯覚資産の裏に隠されている、 あなたの人生を根底から変える力を秘めた、 錯覚負債とは何なのか、 を簡単に書いてみたいと思います。
錯覚負債とは何か? 錯覚資産を気にするよりも前に考えるべき「錯覚負債」の重要性 人はなぜ「錯覚資産」に魅力を感じてしまうのか。プロスペクト理論の恐ろしさについても一言 「『錯覚負債』の棚卸し」こそがあなたの人生を幸せにする 「錯覚負債の棚卸し」のための基礎体力をつけよう - 呼吸と瞑想とマインドフルネスの科学 まずは三回の深呼吸から。奥深いマインドフルネスと瞑想の世界へのご招待 錯覚負債とは何か? 錯覚資産を気にするよりも前に考えるべき「錯覚負債」の重要性 「錯覚資産」とはある意味「はったり」の力とも言えます。
あなたにどんなに実力があっても、その実力を他の人に認めてもらえなければ「宝の持ち腐れ」ですから、そのためには「はったり」を使ってでも、あなたの実力を誰かに「使ってもらう」必要があります。
あなたが社会的に「成功」したいと思い、その「成功」のために自分のスキルを上げようと真剣に願うのであれば、この「はったり」の心理学と経済効果をよく知ることは、素晴らしい武器となることでしょう。
けれどもここでよく考えてほしいのは、
「社会で成功する」って、そんなに簡単なことじゃないよね、 っていう、すんごく当たり前の話なんです。
あなたは「成功するために毎日努力するタイプ」の方ですか?
もしそうなら、
『人生は、運よりも実力よりも「勘違いさせる力」できまっている』(2008 ダイヤモンド社)
を今すぐ買って勉強し、実践したら、役に立つこと請け合いです。
そうでないならば、あなたにとっては錯覚負債について知ることのほうが、「はるかに重要」になってくるかもしれません。
「錯覚資産」は、
「自分が有利になるように『人』に錯覚してもらう能力」 のことでした。
これに対して「錯覚負債」は、
「自分が不利になるように『自分で』錯覚してしまう『負の能力』」 のことです。
ぶっちゃけた言い方をしてしまえば、
あなたの人生、「自分にとって損な思い込み」でいっぱいじゃないですか? ということです。
自分の能力に限界を設定して、現状に甘んじたり、 自分が変われば改善できる人間関係を、相手が悪いんだと思い込んで、そのまま放っておいたり、 変えちゃったほうがいい「損な思い込み」って、相当あるんじゃないでしょうか。
というようなところから、どうして錯覚資産を増やすよりも錯覚負債を減らすほうが大切なのか、もう少し詳しくみていきましょう。
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脚本家・石井飛鳥さんのツイート(https://twitter.com/ishiiasuka/status/1028196483709820929)、
電子書籍、便利なんだけど「親の本棚」が家に構築されないのは将来的に人類にとってヤバイ予感がする。
が13,000ものリツイートを受け、話題になっています。
「親の本棚」の役割を否定するわけではないのですが、個人的には
「親の本棚」? そんなもん、さっさと「粗大ごみ」にでも出したら? と思ってしまったので、その理由を少しばかり書いてみましょう。
「親の本棚」がある人とない人の「違い」ってこともあるよね。 電子書籍がほとんど売れてない上に、書籍というフォーマット自体が化石化してる時代だしなー。 「旧人類の寝言」は気にせず、新しい時代の波の間を漂って生きよう。 追記: 石井飛鳥さんへのお詫びと「文化資本を奪おうとする者」についての考察 「親の本棚」がある人とない人の「違い」ってこともあるよね。 まず、個人的な話をしましょう。
ぼくには「親の本棚」はありませんでした。お袋も親父もあんまり本を読むような人間じゃなかったもんで。
けれども三つ年上の兄がいましたので、本も音楽も多大な影響を受けました。
ですから「誰かの本棚が与えうる影響」という意味では、「親の本棚」に恩恵を受けた人が、
「親の本棚」がなくなったら寂しいなー、 と思う気持ちは分かります。
たぶん石井飛鳥さんは、聡明で自由闊達な親御さんをお持ちで、「親の本棚」のおかげで、すばらしい人生を歩むための豊かな糧を得ることができたのでしょうから、
あー、それはよかったですねーー、 と大きく同意してあげて、「親の本棚」が消える未来をぼくも一緒に憂いたいところです
けどですよ、「親の本棚」\(^o^)/的言い方からは、なんだか
世襲制のいやらしさ がプンプンにおってきませんか。
そんな「本棚」から、親の世代の古臭い価値観を押しつけられるくらいだったら、むしろそいつを
ナタでぶっ壊して、ぜーんぶ景気よく裏庭で燃してしまいたい、 というもんじゃありませんか。
多くの人にとって「親の本棚」が何を意味するだろうかということを少しばかり想像してみると、そんな感想も浮かんでくるというわけなんです。
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電子書籍がほとんど売れてない上に、書籍というフォーマット自体が化石化してる時代だしなー。 ・ネットでの新刊購入は全体の1割、「文字もの」電子書籍は「紙」の4%、縮みゆく出版業界の明日はどっちだ!? - *魂の次元*
という記事にも書きましたが、書籍全体が縮みゆくマーケットであることに加え、ネット上での新刊書の購入も全体の一割程度だし、「文字もの」の電子書籍に至っては「紙」の書籍の4%ほどしかないのが現状で、ちょっと意外な気もします。
長い目で見れば、紙の本は電子書籍に置き換わっていくでしょうし、そのとき書籍というフォーマット自体が衰退していくことも、避け得ない未来でしょう。
そうはいっても、書籍に対する欲求は人類の歴史が続く限り、消え去りそうもありません。
となれば問題は、
「親の本棚」がなくなる人類の将来はヤバイかも、 みたいな主観の話よりは、
古来より蓄積されてきた無数の書籍に対するアクセス方法をどう構築するか、 という方法論の話になるはずです。
世の中には、
好きなことを仕事にして、楽しく生きよう、とか、 好きなことを仕事にするなんて夢のようなことは考えるべきじゃない、 とか、いろいろな意見がありますが、みなさんはどんなふうに考えて、仕事をやったり、やらなかったりしてますか?
今日は、はてな村の秀逸な書き手ふろむださんが十年以上前に書いた文章、
・「好きを貫く」よりも、もっと気分よく生きる方法 - 分裂勘違い君劇場
を肴に、「幸せに生きるために知っておくべき二、三のことがら」について書いてみようと思います。
なお、本当に幸せに生きるためには、
あなたの幸せはあなたにしか分からないのだし、 したがって人の考えを鵜呑みにしてはいけない、 のだという、ごく当たり前の結論が十分分かってらっしゃる方は、本文をわざわざ読むには及びませんので、念のため。
頭のいい人、成功した人の意見は「もっともらしい」けど、それがあなたにも当てはまるとは限りません。 自分が何を本当にやりたいのか、あなた本当に分かってますか? 本当は「みんな好きなことをやっている」という身も蓋もない事実に気づいてますか? それでも「おれは好きでこんな仕事をしてるわけじゃない」と思うあなたへ - 自分の無意識との賢いつき合い方 あなたが「今の仕事にすっかり疲れ切っている」のならば あなたの幸せはあなたにしか分からない - 自分だけを頼りに世界の幸せを願う 頭のいい人、成功した人の意見は「もっともらしい」けど、それがあなたにも当てはまるとは限りません。 テレビや新聞、様々な書籍、もちろんネット上の各種メディアにも、どんなふうに生きたらいいとか、どんなふうに生きるべきだとか、いろんな意見が溢れています。
頭のよさそうな人や、大成功してるように見える人の意見は、どれも「もっともらしく」思え、そうした考えをうまく真似して、自分の人生を充実したものにしたいと思うのは、ごく当たり前のことでしょう。
ここで気をつけなければならないのは、たいていの人の意見というのは
自分はこうやったらうまくいった、 というだけの「個人的な体験談」にすぎないのに、
こうするとうまくいく、 という「一般論」の形で語られるため、読み手が注意深くないと、簡単に間違った方向に誘導されてしまう危険があることです。
ですから、もしあなたが、人の文章を読んで、「確かに言えてるなー」と納得しやすいタイプの方だったら、
「おっと、また納得しちゃったけど、これが本当かどうかは、少し判断を留保しておくか」 と思うくらいのほうが、真実に迫れる可能性が増すというものです。
現実には様々なメディアで、「好き」と「稼げる」が一致して成功している人がたくさん発言していますので、結果として「好きを仕事にするべきだ」といった言説が「真実」であるかのように流布することになります。
しかし、それを「鵜呑みにしてよいのか」ということが問題です。
これについては、ふろむださんが、
・「好きを仕事に」という欺瞞に騙されず、心の底から気持ちよく好きなことをやる方法 - 分裂勘違い君劇場
という記事で、十分に分析してくださっています。
窮屈な日本の社会では「匿名ブログでしか書けない」本音が読めますので、一読をおすすめします。
自分が何を本当にやりたいのか、あなた本当に分かってますか? そもそも「好きを仕事にする」といっても、仕事にしたいほど好きなことがある人って、どのくらいいるんでしょうかね?
あるいはぼくのように、「ぐうたら寝て過ごすのが好き」な人間は、どうやったら、それを仕事にできるのでしょうか?
一生をかけて一つのことを仕事としてやり続けて、それをずっと好きでいられる人って、ごく少数の幸せな人でしかないのが、現実というものでしょう。
どちらかといえば、現実に「自分ができる職」について、その仕事を「楽しくできるように工夫する」、というのが多くのみなさんにとっては、有効な方法論になるはずです。
このとき、日本のさえない社会状況の中では、「楽しく仕事をする」ことが難しくなっていることが、大きな問題になるわけですけれども。
本当は「みんな好きなことをやっている」という身も蓋もない事実に気づいてますか? さて、みなさんは「好きでもない仕事を、生活のために仕方なくやっている」と感じているかもしれません。
けれども、その状況は
「あなたが好きこのんで選んでいるものなのだ」 と言われたら、どう思うでしょうか。
「いや、自分は好きでこんな状況を選んでるわけじゃない、状況さえ許せば、もっと自由に他の道を選ぶに決まってるじゃないか」 と考えるでしょうか。
もしもそうお考えでしたらば、ここで少し検討していただきたいのは、いくらかの限定はあるにしても、
あなたの今の人生は、あなたが選んできたことの結果としてあるのではないか、 ということです。
みなさんの中には本当に地獄のような状況を生き延びてきて、生き延びるためには他の選択肢はあり得なかった、という方もいるかもしれません。
そうであったとしても、死を選ぶか、生き延びることを選ぶか、という究極の選択に対して、「生き延びる」という選択をしたのは当然あなたなのです。
みなさんが自分の人生において「何を基準に選択してきたか」は人それぞれでしょう。
ときには「打算」で、ときには「自分の欲求」を最優先して、ときには愛する人のために「自分を犠牲にして」、あなたは様々な選択をし、その結果として、あなたの人生の今があるのです。
その選択はどれをとっても「あなたが好きで選んだもの」です。
たとえそれが「親に強制された選択肢」であったとしても、「親に逆らわない」という選択を好きでしたのは、あなたなのですから。
このように考えれば、「好きを仕事にする」という夢のような話も、実はみんなが普通にやっていることになってしまいます。
「こんな仕事やりたくない」とあなたが思っているとしても、現にあなたがその仕事をやっている以上、それは「好きでやっている」ことに決まってますもんね。
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数々の含蓄ある記事を生み出してきた「分裂勘違い君劇場」で、はてな村のみなさんにはおなじみの、ふろむださんのデビュー作
『人生は、運よりも実力よりも「勘違いさせる力」できまっている』
は、みなさんもう読まれましたか?
9月16日(日)22時、TBS系列の「林先生が驚く初耳学」で取り上げられて、いよいよ人気沸騰してますね。
ようやく購入してぼくも全部読みました。
めちゃくちゃ面白いです。[以上2段落 2018.9.17追記]
親切なふろむださんは、ネットで最初の五章を読めるようにしてくれていて、それだけ読んでも彼の主張の面白さは十分伝わってきます。
ふろむださんは、
人生は「実力」よりも「運」よりも「錯覚資産」によって決まってくる、 というのですが、一体これはどういう意味なのでしょうか。
というわけで、今日はふろむださんの説く「錯覚資産の活用」についてのお話です。
成功する人には後光が差している。ハロー効果と錯覚資産について。 錯覚資産の有効活用について。 あとは蛇足ですが、「錯覚資産に頼らず生きるのもいいんじゃない」って話 成功する人には後光が差している。ハロー効果と錯覚資産について。 「あなたの判断は、大抵の場合、錯覚にもとづいているのだ」 と要約できるふろむださんの主張は、シンプルにしてラディカルです。
心理学の世界で「ハロー効果」と呼ばれる現象があります。
ハロー halo というのは「後光」のことで、まったく同じことを主張しても、
立派そうに見え、地位のある「後光の差している」人が言えば、「本当のこと」に思え、 さえない外見の、どこの馬の骨とも知れない人が言っても、「説得力がない」と感じてしまう、 これがハロー効果というものです。
たとえば、「採用面接で、身だしなみが、どのような影響を与えるか」という研究がある。
その結果、「仕事に必要な資格よりも、身だしなみのよさのほうが、採用決定に大きな影響を与えていた」ということがわかった。
そして、ここでも、面接官自身は、「外見は、ほとんど採用決定には影響しなかった」と考えていたのだ。
つまり、面接官は、「外見で採用したわけじゃない」と、自分では思っていたが、実際は、外見で採用していたということだ。
(画像、文章とも、ふろむださんのページ https://www.furomuda.com/entry/2018/08/04/011000 より)
このとき面接官が「外見で採用したわけではない」と思っていたことは、面接官が「ウソを言ったわけでもなく、バカだったからでもない」というところが、この話のポイントです。
これは、ぼくたち人間の「判断」というものの、そのかなりの部分が「無意識的」に行われており、言葉によって説明される「理由」というのはあと付けのものにすぎず、実際の理由とは違う場合が多々あるのだし、それは「知能が高い」とされる人でも普通に起こることだ、ということです。
ふろむださんはこれを「脳のセキュリティホール」と呼び、
「自分は大丈夫」と思っている人ほど危ない、 と書いています。
この「脳のセキュリティホール≒思考の錯覚」は、「人を外見で判断してしまう」ということだけでなく、物事のあらゆる「判断」に関わってきます。
というのは、
「プラスのイメージを引き起こすもの」であれば、
なんでも「全体的に優秀」という思考の錯覚を引き起こしてしまうから
です。
そして、学歴であれ、経歴であれ、「プラスのイメージ」につながるものなら、どんなものでも「思考の錯覚」を引き起こす力を持ちますから、
「人々が自分に対して持っている、自分に都合のいい思考の錯覚」は、一種の資産として機能する
というわけです。
これがふろむださんのいう「錯覚資産」というものです。
また、「全体的に優秀」という錯覚は、思考の錯覚のほんの一部にすぎないので、様々な種類の錯覚を掛け合わせることで「とんでもない威力の錯覚資産が作り出される」とも書かれています。
そして、
「自分の得になるような、他人の勘違い」(=錯覚資産)は、生涯賃金に換算して、何千万円、何億円ものお金を生む。
のだから、錯覚資産は大変重要なものだし、他人に騙されないためにも、この錯覚資産についてよく知っておく必要があるのだ、というわけです。
なかなか面白い話ではありませんか。
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omion さんの7月7日のツイート*1、
オウムでサリンつくった人たちだって蒔いた人たちだって「人を殺す犯罪」をしようとしたんじゃなくて「理想の社会を作る正義」のための戦いをしようとしてたんですよ。良かれと思っての行動なんですよあれ。
当時は「宗教ってやばいな」と思ってたけど、今は「正義ってやばいな」と思うようになった。
が、25,000件以上リツイートされており、そこについたリプライを見ると、多くの方が「絶対的な正義はない」という健全な理解をしていることが分かります。
この記事では、「絶対的な正義はない」と考えるとき、ぼくたちはどのように判断の基準を持てばいいのか、また人間の振る舞いを「権力ゲーム」と見たとき、そこで「幸せなプレイヤー」になるためにはどんな資質が重要なのかを「自己肯定感」というキーワードを使って考えてみたいと思います。
結論: 人の意見を鵜呑みにしないこと、分からないことは分からないままに判断を保留すること、きちんと自分に自信を持つこと なぜ正義は「やばい」のか。すべての正義は「やばい」のか。 権力ゲームの遊び方 「世界の偶然性」に向き合うために「自己肯定感」を育てる 結論: 人の意見を鵜呑みにしないこと、分からないことは分からないままに判断を保留すること、きちんと自分に自信を持つこと 「絶対的な正義」という確実な判断基準がない中で、幸せに生きるためのぼくなりの「三つの指針」をまず明らかにしておきます。
それは、
人の意見を鵜呑みにしないこと、 分からないことは分からないままに判断を保留すること、 きちんと自分に自信を持つこと(自己肯定感) の三つです。
それぞれの意味するところについては、順に説明していくことにして、まずは、「正義のやばさ」に話を戻しましょう。
なぜ正義は「やばい」のか。すべての正義は「やばい」のか。 omionさんがオウム事件に関して、
当時は「宗教ってやばいな」と思ってたけど、今は「正義ってやばいな」と思うようになった。
と言っているのは、
宗教は全部やばい、とか あらゆる正義がやばい、 という意味ではおそらくないでしょう。
宗教にしろ、正義にしろ「盲信することは恐ろしい」ということが言いたいのだろうと思います。
けれども、ゆっちさんが引用するドラえもんの言葉、
「どっちも、自分が正しいと思ってるよ。戦争なんてそんなもんだよ」
https://twitter.com/Yutti114514/status/1015882463514537984
を見ても、国家が「正義」と呼ぶものですら、十分吟味する必要があることは明らかでしょう。
とすれば、
「オウムのような狂信的な正義がやばい」 というよりは、
「どんな正義も、それが場合によっては他者を抑圧しうることを考えれば、ある程度のやばさを隠し持っている」 と考えたほうがいいでしょう。
ですから、三つの基準の一つ目に挙げた、
「人の意見を鵜呑みにしないこと」 ということが大切になってきます。
どんなに偉い人や、どんなに頭のいい人が言うことでも、またどんなにたくさんの人が信じていることでも、
いつでも確実に正しいと言えるわけではない、 のですから、なんとなく信じて、鵜呑みにしてしまうようなことには、危険がともないます。
もちろん、一人の人間が自分の経験からあらゆることについて正しい意見を持つことなどできませんから、信頼できる人の言うことを「多分そうなんだろうな」と少しだけ疑問を残しながらとりあえず信じておくことは、生きる上で役に立つことです。
けれども、偉い人や、賢い人が、あるいはたくさんの人が言っていることだからと言って、
「きっとそうに違いない」 と条件反射的に思ってしまうとしたら、非日常的で重要な局面では命を落とすことにもなりかねません。
2011年3月11日の津波で「大人の常識」にしたがったために命を落とすことになった宮城県石巻市の大川小学校の子どもたちのことを考えれば、ぼくが言っていることの意味は分かってもらえるでしょう。
リチャード・ロイド・パリーの「津波の霊たち」によれば、教員の指示で子どもたちが校庭にとどまっていたとき、二人の子どもが「危険だから山に逃げるべきだ」と言っていたことが記されています。
このとき大人たちに「子どもの直感」に耳を貸す知恵の持ち合わせがなかったために、「児童・教職員合わせて84名が死亡・行方不明」という大惨事を引き起こすことになってしまったのです。
この二人の子どもが「健全に教師を疑って」裏山に逃げていたら、命を落とさずに済んでいたのに、と残念でなりません。
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山田ノジル@スピリチュアル百鬼夜行さんのツイートが
・「子宮はお宮、膣は参道、だから女性のカラダはパワースポット」 2018年夏の子宮系ニセ医学トンデモ怪談 - Togetter
としてまとめられ、345件のブックマークがつき、あきれるやら、あざわらうやら、様々なコメントのオンパレードとなっています。
「スピリチュアル≒詐欺商法」と考える「はてな系純朴科学オタク」の皆さまとしては当然の反応だなと了解するのですが、「子宮系ニセ医学」とでも呼びたくなるような「オカルト」な言説にも、幾ばくかの存在意義があると考える者といたしましては、科学的リテラシー豊かなみなさまに
「オカルト的」言説の有用性 についてもう少しご理解いただけたらなー、と考えて、余計なお世話の解説を試みる次第です。
「子宮系ニセ医学」などの「有害性」についてまず確認 そもそも「子宮をお宮に見立てる」ことになんの問題があるのか? 科学と非科学を分けるという極めて難しい問題 助産師さんたちのホメオパシー信仰も含め、お産を女性が取り戻すことの意義について少し 「子宮系ニセ医学」などの「有害性」についてまず確認 ブックマーク・コメントで、id:kasekiiさんが、
冗談じゃなく女性誌ってほんとこの手の女性の体や医療に関する嘘情報が蔓延している。生理痛や片頭痛など女性特有の悩みに絡めて根拠ゼロの嘘がずらずら並べられた雑誌をローティーンのころから読まされる。有害 と完結に「嘘情報」の有害性についてまとめてくださっています。
「ニセ医学」とか「ニセ科学」とかがもっともらしく「嘘情報」を書き立てて、人の不安を煽ったり、不安につけ込んだりして高額商品を売りつけたりすることは、倫理的にグレーな領域に入るものであり、そうした「被害」を防ぐための啓蒙活動が大切だいうことについては、ぼくも異論はありません。
こうした問題は「女性」に限ったことではありませんが、「女性特有」の問題もあることから、そうした点に配慮することも大切でしょう。
しかしながら、こうした一見「嘘情報」と思えるものも、「100%嘘」と言い切ることはできないことには注意が必要です。
科学的には「眉唾もの」の説明であり、医学的には「無効能」であったとしても、プラシーボという暗示の効果を利用した「科学的にも説明が可能な効能」によって実際に「症状」が改善する人がいる以上、「その効能」を説く人や、それを素朴に信じる人に対して、
あざ笑ったり、バカにしたり、感情的に非難しても、大して有効ではない、 だろうなー、と思うわけです。
どうして「非科学的な言説」を信じる人がたくさんいるのか、どうしたらその状況を変えられるのか、そして、それはそもそも悪いことなのか、いろいろな問いかけが必要なように思われます。
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そもそも「子宮をお宮に見立てる」ことになんの問題があるのか? 山田ノジルさんの
【第14話】子宮系女子をはじめとする一部スピ界隈による主張→「子宮はお宮を表している!」「膣は参道」だから「女性のカラダはパワスポ」。本職(神職)曰く「神社の全体構造は女性器を模したものだなんて教義、聞いたこともなければその根拠もわからない」。
というような書きっぷりを見れば、おもしろおかしく人の言説を取り上げて、娯楽を提供する以上の意図はないのでしょうから、それについては別に言うこともありません。
「子宮をお宮に見立てるなんてバカバカしいことだ」 と思うみなさまは、仲間同士で「そうだ、そうだ」と盛り上がっていればいいというだけのことです。
けれどもたとえば、長野の善光寺などでは「戒壇巡り」というお参りがあり、別名を「胎内巡り」ともいうことは、ご存じの方も多いのではないでしょうか。
母体を豊穣の象徴と考えたり、世界の力の根源として男根を信仰したりすることは、世界中で普通に見られる、人間にとってごく自然な世界観です。
太古の昔より、様々な疫病などで苦しんできた人々が、こうした宗教的な世界観や儀式などを使って暗示による自然治癒の効果を活性化し、生活に役立ててきたことは、「非科学的」でもなんでもなく、人間の歴史が生み出した生活の知恵であるのは明らかなことです。
もちろんそうした「信仰による治療」が、鎮痛解熱剤や抗生物質などに象徴される、劇的な効果を持つ近代的な薬物や治療法には遠く及ばない面も多いことは言うまでもありません。
けれども、現在の行き過ぎた近代医療による多大な「副作用」を考えれば、「スピリチュアル」な方法論は、決して嘲笑っていればいいような性質のものではなく、むしろその中の「有効な部分」を今後どのように近代医療に取り入れていくかが問われる時代になっているものと思われます。
その片鱗は、仏教的な瞑想の手法を取り入れた精神療法であるマインドフル・ベースド・認知行動療法 Mindfulness-based Cognitive Therapy (MBCT) の普及で注目された「瞑想の科学とその意義」が、精神療法にとどまらず、精神的な健康法や創造的な能力の育成法として、ひろくビジネス界に広っているアメリカ社会などのあり方を一瞥すれば、分かっていただけるのではないかと思います。
仲俣暁生さんというフリー編集者の方が、
・出版業界は沈みゆく泥舟なのか « マガジン航[kɔː]
という刺激的なタイトルで、日本における出版の現状について記事を書いています。
こちらの記事の内容を紹介するとともに、そこについたブックマーク・コメントも眺めながら、出版社と書籍の未来について考えてみることにしましょう。
インターネット経由の新刊購入は市場全体の1割程度、「文字もの」電子書籍の市場規模は「紙」の書籍の4パーセント程度 電子書籍の「コストパフォーマンスの悪さ」と「売る気のなさ」 書籍に未来はあるのか、あるいは、書籍なんて必要ないのか インターネット経由の新刊購入は市場全体の1割程度、「文字もの」電子書籍の市場規模は「紙」の書籍の4パーセント程度 ネットをよく使い、アマゾンで本を買うのは当たり前、電子書籍もそれなりに購入する、というみなさんからすれば、
インターネット経由の新刊購入は市場全体の1割程度で、 「文字もの」電子書籍の市場規模は「紙」の書籍の4パーセント程度、 というのは、
「えーっ、たったそんだけなのーー!!」 という意外な数字かもしれません。
とはいう、書籍という商品の性質と、出版業界のあり方を考えると、この程度の数字なのは当たり前のことかもしれません。
仲俣さんは、出版業界全体が縮小傾向にある中、漫画は電子書籍化が進んでいることも踏まえ、「文字もの」についても
「完全に曲がり角に来ている出版流通自体をなんとかしなければいけない」 という意味のことを述べています。
残念ながら、仲俣さんにも妙案はないようですが、まずは
ネット経由の新刊購入を伸ばすために、ネット上での書籍紹介の場が必要、 ということで、ご自分の関わっている
・Socrates(ソクラテス) – 世界を生きる知恵
というサイトを紹介しています。
こうした試みが出版の活性化にどの程度有効かは未知数ですが、ネット上に流れる書籍情報が多様化することはまったく歓迎すべきことです。
日本の出版界という「泥舟」の輝かしい未来に期待が膨らみますよね。
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電子書籍の「コストパフォーマンスの悪さ」と「売る気のなさ」 ブックマーク・コメントでは id:satomi_hanten さんが、
コミックは紙と同発が増えたのに対し(遅くても1か月遅れが多い)文庫は同発はまずないし1か月遅れは早い方。※ラノベは除く 且つ、電子嫌いの大物が多く品ぞろえもコミックに比べかなり悪い。トリガーが引けてない
と書いています。
また、id:PEH01404さんは、
「文字もの」電子書籍が未だに紙の4%なのは、コストパフォーマンスがわるいからだ。用紙代・印刷代・流通経費が不要なのに価格がたいして変わらない。コミックでは頻繁にあるセールも少ない。要は売る気がない。 と書いています。
id:ykhmfst2012さんは、
メジャー作家だと ハードカバー → 文庫 → 電書と来るから、電書で読めるようになるのは初出から3年後くらいでしょ。それで値段がハードカバー並とか表紙デザイン全カットとか基本的に客を舐めてる。売る気がない。